城壘23


丸MARU 1990年11月号 通算532号 連載23回 
南京大虐殺を報じた記者
 戦後になると、戦場での話がおもしろい体験談として語られ、人から人へ伝わって、増幅され、修飾されていった。これが酒飲み話であるうちはよかったが、それがマス・メディアにのると話は違ってくる。
 南京攻略戦の話は、東京裁判で取り上げられたこともあり、しばしば語られたようで、こういった体験談で最も影響力があったのは今井正剛氏の話であろう。
 南京攻略戦には、十万人近くの兵隊のほか二百人にも及ぶ記者が従軍した。従軍記者は毎日戦線の様子を書き日本に送った。それらの記事は連日新聞の一面を飾った。一面だけでなく、新聞の多くの部分を占めた。
 そういったおびただしい戦場の記事が掲載されていたけれど、南京事件なるものは報道されることもなく、事件があったとされてから十九年後の昭和三十一年十一月、朝日新聞の従軍記者だった今井正剛氏が「特集文藝春秋 私はそこにいた」の中に「南京城内の大量殺人」を書いて南京では大虐殺があったと告白した。
 この告白は、それまで発表された東京裁判における外国人の証言と違って、日本人、しかも従軍して国威発揚の記事を書いた記者の告白だったから衝撃は大きかった。南京攻略戦に参加した兵隊達は特にこたえたようで、そのことは、昭和三十六年の「大分合同新聞」に連載された「郷土部隊奮戦史」に今井氏の証言が言及されていることからもわかる。
 今井氏が「南京城内の大量殺人」の中で述べた南京事件というものは簡単にいうと次のようなことであった。
 一、昭和十二年十二月十五日の夕方、難民区の中にある旧朝日新聞支局のすぐ近くの空き地で四、五百人の敗残兵が六人ずつ射殺、刺殺された。
 二、同じ十五日の夜、二万人ほどが旧支局の前の通りを下関までつれていかれ、機関銃で殺された。それは明け方まで続き、死体は苦力が江へ投げ、この苦力もそこで射殺された。揚子江にのがれた人もポンポン船から機関銃でやられた。
 これが今井氏の書いた南京事件の概要である。
 告白によると、この日の朝、今井記者は宿泊の臨時通信本部(中山通り中央医院)を出て国民政府を見物し、その後旧支局に行き、そこで昼寝をして、午後から夕方にかげて一の現場に出会い、夜から翌十六日の朝にかけて二の現場に出会ったという。
 その年の八月十三日、上海事変が勃発したとき、今井記者は早くも翌日上海に派遣されている。戦線の記事は一面トップを飾る記事であり、戦線への派遣は花形記者に限られている。今井記者は当時朝日新聞社会部の売れっ子記者であった。
 その後、朝日新聞ではカメラマンたちも含めて数十人の従軍記者が南京に行ったが、それら花形記者の中でも特に今井記者は飛び抜けていたらしく、十二月十六日には一面全部を使って従軍記事を書いている。これは他の従軍記者にはみられないことで、しかも南京攻略戦のしめくくりである南京入城式の記事まで書いている。
 戦後になり、昭和二十三年の元旦の朝日新聞に 「北と南」というルポルタージュが掲載された。北の千島列島はソ連に、南の奄美諸島はアメリカに占領されていて、日本人は行くことができない。そこで境界ぎりぎりまで行ってルポしようという元旦用の特別記事である。そのとき南の黒島の記事を書いたのが今井記者である。このときも代表として選ばれている。
 このように今井記者は長い間花形記者であった。花形記者というだけでなく、名文家でもあった。同僚も度々今井記者が名文家であったことを書き、述べている。
 今井記者が「南京城内の大量殺人」を書いたときは朝日新聞をやめていたが、そういった花形記者の告白だったから体験談は信頼されて当然だった。
 今井氏が見た事件というものは、同僚の中村正吾記者も同一行動をとって目撃しているという。中村記者はのちに朝日新聞のアメリカ総局長などもつとめた人である。体験談は信憑性のある貴重なものであった。
 昭和三十九年になり今井氏の証言は直木賞作家榛葉英治氏によって小説『城壁』にされた。榛葉氏は南京攻略に関するいくつかの資料の中から今井氏の書いた「南京城内の大量殺人」を信憑性のあるものと思ったのであろう。小説の中で今井氏を山内静人特派員として登場させているだけでなく、今井氏が「南京城内の大量殺人」に書いたシーン、例えば旧支局にいたアマとボーイが飛び出すシーン、多数の中国人が連れていかれるシーン、今井記者と中村記者が虐殺が外国に知れると恐れるシーン、記者と日本兵が会話するシーンなどをそっくり引用している。そして、小説のあとがきには「作中の新聞記者のみた状況は、もと朝日新聞記者、今井正剛の『南京城内の大量虐殺』を基いにして書いた。これは目撃者による数すくない貴重な記録の一つである」と書いた。
 このとき、榛葉氏はわざわざ今井氏に会ったらしく、「今井正剛氏は、氏の書かれた記録を資料とすることを、快く許諾された」とも書いていた。  『城壁』が発表されると、文芸評論家の林房雄氏は朝日新聞の「文芸時評」の中で大々的に取り上げ、こう書いた。
 「中国と連合国側はこの『大虐殺』を誇張して日本軍の『野獣性』を世界に宣伝した。戦後は日本の左翼人がこれに同調して日本そのものを攻撃し、日本人の心に毒汁をそそぎこむことに協力した。右翼人はこれに対してその『真相』をかくし抹殺することに努力した。国民としては左翼人の誇張も右翼人の抹殺も信用できず、そのため『南京事件』は『黒いナソ』として永久に残った形になっている。これはいけないことだ。日本民族の自信を喪失させ、未来への前進の可能性をはばむ暗雲は日本人自身の手によってはらいのけるべきだ」。
 さらに続けて、
 「榛葉英治氏『城壁』は、いわゆる『南京大虐殺事件』を扱った力作である。
 勇気を要する仕事であり、作家の努力がつづけられることによって、国民は次第に事件の『真相』に近づいて行く」
 と書いた。『城壁』はどちらにもかたよらず、真相にせまろうとしていたからだと誉めたのである。
 その後、今井氏は昭和四十一年にも週刊誌で同様な証言を繰り返した。
 しかし一方で同じころからこの証言に疑問が投げかけられ始めた。証言に疑問を投げかけた最初は昭和三十九年発行の『南京作戦の真相』である。この中で今井氏の証言は、
 「全く事実に反する虚構のもので、これを読んだ誰もが、不愉快というより義憤を感ずると思います」と非難された。
 次いで非難したのは昭和四十三年に発表された五島広作氏の「南京大虐殺の真相」である。
 五島氏は第六師団の従軍記者として南京に行った毎日新聞の記者である。今井氏はさらに昭和四十二年十月一日、テレビ番組「日本この百年」に出演して虐殺を証言していたが、このことを含めて五島氏は、「テレビに出演して南京虐殺を証言した今井記者に下野中将(南京攻略当時の第六師団参謀長、谷師団長は南京事件の責任者として南京で処刑されている)が詰問した結果、推理小説的に架空の事実を虚構して、興味本位に書いたと自供した」と内幕をあばいた。
 それにもかかわらず今井氏はその後も同様な証言を繰り返し、そのため、多くの事件の参考資料にされ(泰郁彦『南京事件』 児島襄『東京裁判』)また多くの南京事件関係書に証言が引用された
 (洞富雄『決定版 南京大虐殺』 本多勝一 『南京への道』)。 やはり今井氏の証言は真実なのであろうか。

事件の真相を求めて検証する
 そこで改めて昭和十二年当時の朝日新聞をめくってみた。今井記者の書いた記事は花形記者らしく南京占領直後の昭和十二年十二月十六日から十八日にかけて連日載っている。これらの記事を要約するとこうなる。
 まず十六日付夕刊(十五日発行)である。先ほど述べたように第三面に一頁いっぱい使って今井記者の従軍記が載っている。十二月六日から十三日まで八日間にわたる一日ごとの詳しい従軍記である。次は十七日の朝刊である。第二面に、揚子江をはさんだ南京城の対岸にある浦口に渡った記事が載っており、また第三面には同僚十五人との座談会の記事がある。
 最後は十八日付夕刊(十七日発行)で、十七日に行われた日本軍の南京入城式の記事である。
 この三日間の記事をよく見ていくうちに、十七日の記事が重要な事実を示していることに気がついた。
 まず第二面の浦ロでの記事である。この記事は〔十六日南京発〕とあり中村正吾記者と共同のもので、記事によると、日本人記者として十五日にはじめて浦ロに渡ったとある。浦口は南京市の一部であるが、揚子江をはさんで南京主要部の対岸にある。南京主要部の下関から船に乗れば十分足らずで着くが、十五日といえば揚子江を渡る船はまだ軍艦しかなく頻繁に渡れる状況ではない。浦ロに行って取材するなら少なくとも半日仕事である。しかし今井氏の書いた「南京城内の大量虐殺」によれば、十五日は国民政府を見たり昼寝をしたあと虐殺を見たことになっている。これはどうしたことだろう。浦ロに行っているとしたら虐殺を見る時間はないし、虐殺を見ているなら浦口に行ぐ時間はない。本当はどちらか。
 もう一つの第三面の記事では今井記者を含めて十五人の従軍記者、カメラマン、無線技師などが座談会を行っている。「臨時通信本部(山中門近く)」で「ローソクの光の中で語り合った」とあるから、夜、取材が一段落してから行ったものであろう。この座談会は十六日夜とあるだけでいつ行ったのか明示がない。
 座談会はいつ行われたのであろうか。掲載された前夜の十六日であろうか。十六日と仮定してみよう。座談会は内容から二時間はかかると考えられる。座談会が終われば記者の一人がこれを原稿にまとめる。二時間のものであればまとめるのに少なくとも倍以上の時間はかかるであろう。六時に座談会が始まったとしたら原稿が出来上がるのが十二時になる。それから上海経由で送稿すると、十七日朝刊の締め切りこは間に合わない。「十六日特電」ともずれてしまう。
 もっと早めに始めて短時間で済んだとすれば締め切りにぎりぎりで間に合わなくもない。しかし内容は必ずしも一刻を争うようなものではない。南京から送る原稿量はたくさんあり限られていたし、無線がいっぱいでオートバイで原稿を運ぶ新聞社もあった。一刻を争うもの以外は込む時間は避けている。そうすると十六日夜のことではなさそうである。
 それでは十五日の夜行われたものであろうか。
 十五日夜行ったと仮定しよう。翌十六日に原稿をまとめて午後にでも送稿し、十七日に掲載。こう考えると無理がない。しかし、さらに一日早く座談会を行った可能性はないのだろうか。当時の新聞のニュースと掲載日を見るとこれもありうることである。座談会は十四日夜行われたのであろうか。
 ただし十四日と仮定した場合、十四日夜の座談会の記事を十六日まで手元に置くだろうか。座談会の記事の冒頭に「十六日特電」とあるのだ。こう考えると十五日の夜行ったと考えるのが自然である。
 以上の新聞記事から十五日の今井氏の行動が明らかになる。
 十二月十五日といえば冬至一週間前で一日は短い、南京の夜明けは七時過ぎである。まだ電気も水道も途絶えたままであった。夜が明けるとともに起きる。臨時通信本部には賄いがいるわけではないから各自が食事の用意をする。朝日新聞では上海から米を持っていった。今井氏も自分で食事を用意したのであろう。
 朝食が終わるのは八時過ぎか。それから取材にでかける。中山路の中央医院にあった臨時本部から下関まで真っすぐ行っても二時間はかかり十時ごろになる。それまで朝日新聞は自動車を一台持っていたが、南京攻略戦の途中地雷に触れてこわれた。そのころ記者は、すべて歩いていた。
 下関では海軍に頼んで軍艦で浦ロに渡してもらったのであろう。浦口に渡り取材して、下関に戻ってくるのに二、三時間かかったとして午後一時ごろになる。昼食時間を入れればもっと時間がかかる。そのまま真っすぐ臨時本部まで戻っても三時ごろ、海軍との交渉が長びいたり、乗艦を待っていたりすれば日は暮れる。さらにこれを原稿にまとめなければならない。一日がかりの仕事である。そして夜は座談会が行われた。
 このように新聞記事から今井記者の十五日の行動を見ると、浦口取材と座談会でいっぱいである。ところが「南京城内の大量殺人」に書かれていゐ今井記者の十五日の行動は先はどの通り、宿泊所を出て国民政府を見物し、旧支局に行き昼寝をして、午後から夜は二つの虐殺を見ている。新聞記事から考えられる行動とは全く別である。新聞記事によるかぎり午後から夕方の虐殺を見たり、夜の中国兵の連行に出会う時間は少しもない。既に指摘されているとおり「南京城内の大量殺人」の証言はまるっきりのフィクションであることがわかる。
 逆に「南京城内の大量殺人」の告白が本当だとすれば、十七日付の二つの新聞記事が嘘になる。これらの新聞記事はフィクションだったのだろうか。
 しかし、今井記者が浦口に行っていないのなら中村記者単独の記事でよかったし、座談会も十五人でなく十四人でよいはずである。中村記者単独の記事は他の日にもあるし、従軍記者で座談会に出席していない人が何人もいる。やはり今井記者は浦ロに行ったのだし、座談会に出席していたと考えるめが自然だ。
 それでは今井記者が証言した「南京城内の大量殺人」に日付の間違い、勘違いがあったのであろうか。今井記者は虐殺を見たのは十五日といっているが、別の日であったのだろうか。
 まず十六日と仮定してみよう。
 十六日の今井記者についていえば、その日の夜は翌日の入城式の長い予定稿を書いでいた。それは「南京城内の大量殺人」で今井氏自身が述べている。
 十七日の午後一時半から行われる入城式の模様は入城式が行われてから書いたのでは間に合わない。そのため前もって書かれることになっていた。その役は名文家の今井氏にあてられ、今井氏の書いた予定稿は十七日の天気を確認した上、朝一番で送られその日の夕方のトップを飾った。今井氏自身はその日の入城式を見ないで南京を立っている。
 とをあれ十六日の昼は予定稿を書くため軍司令部に行き取材をしたであろう。日露戦争の大山元帥以来このような大規模な入城式はたえてなく、入城式がどんなものになるか誰も知こない。取材がなければ書けないはずである。
 このように十六日と仮定しても、今井記者は予定稿のための取材と原稿書きのため虐殺を見たりする時間はない。

虐殺をみた記者の"記事”
 それでは虐殺を見た日を一日早い十四日と仮定しよう。十四日は日本軍が南京城に突入した翌日で、掃討が一部残っていたが、南京城内のようすからいえば午後から夜にかけて虐殺現場に出会うことは不可能ではない。十五日と今井氏が書いたのは十四日の間違いだったのだろうか。「南京城内での大量殺人」の中で今井氏は、兵隊は十四日入城したばかりで、国民政府や市内要所を回って忙しく、そのような日ではない、と言ってるがどうであろうか。
 しかし、この日も今井記者は虐殺を見る時間はなかったようである。翌昭和十三年一月二十七日の東京朝日新聞を見ると「戦場から帰って」と題する記事がある。評論家の杉山平助氏や朝日新聞の従軍記者がリレー式で書いているもので、四回目のこの日は今井記者が書いている。この記事によると、今井記者は十四日に中華門の前でシカゴディリー・ニュースのスチール特派員と立ち話をして、一緒に金陵大学のほうへ歩いていったという。
 「南京城内の大量殺人」によると、虐殺を見た日は国民政府の建物をぶらぶらした上、旧支局に行ったとある。午後は昼寝と虐殺見聞である。そうするとスチール記者と会えるのは午前しかない。
 しかし「戦場から帰って」を読むかぎり、中華門に行ったのは時間に追われた行動ではない。となると、午前中にのんびり国民政府の建物を見て、かつそこから四キロメートルほど離れている中華門でスチール記者と立ち話をするということはできない相談である。
 また、今井記者と同一行動を取って虐殺を見聞しているはずの中村記者は同じ十四日、中山路と中正路の出会う新街ロでニューヨーク・タイムズの記者やパラマウントのカメラマンと会い、それまでの南京の概要を取材している。さらにAP通信の記者などにも会っている。それらの記事は、十五日南京発として新聞に大々的に載っている。中村記者は十四日の昼、彼らと会ってその日のうちに原稿にしたものであろう。今井氏の告白によれば、中村記者も同一行動を取っていることになっており、とても中村記者は今井記者と旧支局に行って昼寝をしたり、今井記者と虐殺現場を見る時間はない。
 結局、十四日と仮定しても無理で辻褄があわないことがわかる。
 どう拡大解釈しても「南京城内の大量殺人」はフィクションというより他にない。
 フィクションであることがわかった上、再び「南京城内の大量殺人」を読んだ。改めて読むと辻棲があわないことだらけである。もう一度見よう。まず、今井氏は旧支局にいた中国人の阿媽とボーイに会うシーンをこう書いている。これは榛葉氏の『城壁』の中にも引用されているシーンである。  「以前の支局へ入ってゆくと、ここも二三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出したものがあった。支駱で雇っているアマとボーイだった。
 『おう無事だったか』」
 非常にリアルで臨場感あふれなシーンである。
 しかし、よくよく考えれば不思議なシーンだ。今井記者はそれまで東京の社会部記者をしており南京支局にいたことはなく、阿媽とボーイが支局に雇われていたかどうか知らないはずである。顔も見ていない。もちろん阿媽とボーイも今井記者を知らない。とすると、阿媽とボーイが歓声をあげて飛び出してくるはずがない。
 戦争が始まるまで朝日新聞の南京支局にいたのは、橋本登美三郎支局長と山本治記者の二人である。中支が険悪になって、最後まで南京に残った人たちは上海に戻れず、八月十六日になって陸路青島に向かった。この中に橋本支局長と山本記者がいた。
 数日して二人は無事日本に戻り、二人の南京脱出記は朝日新聞の第一面トップ記事となった。
 二人が南京を脱出する二日前の八月十四日、社会部の今井記者が東京から上海に従軍記者として行くことになった。
 いったん東京に戻った橋本、山本の二人の記者は南京攻略だというので再び南京に向かった。それから四ヵ月して南京は陥落した。
 陥落と同時に橋本と山本の二人の記者は南京に入り、そして旧支局に行った。そしてそのときのようすを記事にした。十二月十六日付夕刊(十五日発行)である。
 「取敢ず通信局に行くと、そこには数十名の避難民がウヨウヨとして居るが俄に飛び出して来たのはそれは思いがけぬ数年に亙って使用して居た阿媽とボーイであった。彼等は懐かしさの余り吾々に飛び付く有様であった」
 阿媽とボーイが橋本記者と山本記者に飛びつくのは当然である。数力月前まで一緒に働いていたのだ。特に山本記者は東亜同文書院を卒業して中国語が自由に話せたから親しかった。
 今井記者は二人の記者が書いた阿媽とボーイに会うシーンを自分のこととして「南京城内の大量殺人」に書いたのである。いわゆる剽窃である。  もうこれ以上「南京城内の大量虐殺」の問題点をあげる必要はなさそうだが、念のため二、三あげておく。
 今井氏は虐殺の夜を「まっくら」と書いているが、暦を見ると昭和十二年十二月十五日は十三夜で、しかも連日晴天か続いていた。月夜である。月は明け方に沈んでいるから「まっくら」ではない。さすが各文家の今井氏も見たことのない二万人の虐殺現場を書き表すこともできず「まっくら」と書いて逃げた。
 さらに、ゆらゆらと揺れるポンポン船から苦力たちを機銃掃討したとも書いている。これも注意しないといかにもありそうなシーンと信じてしまう。このころ、揚子江にはポンポン船はない。揚子江岸にあった船はすべて市民が乗って上流に逃げていった。市民はあらそって持ち金を船賃にした。八十万人以上といわれた市民がにげたのだから当然である。最後に中国兵が筏や板まで使って逃げている。そのとき、揚子江にあったのは上海から遡江してきた日本の軍艦だけである。せいぜい上流から来たわずかの日本兵が乗っていた船だけである。
 このように今井氏が告白した証言はフィクションであり、剽窃までしていたのだ。朝日新聞でも名うての名文家といわれた今井氏の名文に多くの南京事件研究家がだまされたわけである。直木賞作家すらだまされるのだから当然であろう。むしろ「南京城内の大量殺人」は何人もだますほどの名文だったことをほめるべきかもしれない。
 南京事件とは、こうして日本人の手でも作られていったのである。(つづく)

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