城壘24


丸MARU 1990年12月号 通算533号 連載24回(最終回) 
教科書に載った南京事件
 四ヵ月にわたって松井石根中支那方面軍司令官の衛兵長をつとめていた高木威勲大尉が、方面軍司令官とまともに言葉を交わしたのは昭和十三年二月末、いよいよ松井大将が東京に凱旋するというときであった。それが最初であり、そして最後である。
 挨拶に行くと、松井大将は、
 「長い間ごくろうであった」
 といい、前もって高木大尉のために書いておいた書をくれた。
 方面軍司令官の衛兵長とはいえ、それまで方面軍司令官とは言葉を交わしたこともなく、十万の兵を指揮する方面軍司令官からみて衛兵長など眼中にないと思っていたところ、心のこもった言葉をかけてくれ、その上、書まで用意してくれていたので非常に感激した。
 松井大将の後任は畑俊六大将である。高木大尉は衛兵長として、そのまま畑大将にも仕えることになった。
 同じ方面軍司令官でも松井大将は予備役からであり、畑大将は現役だったため、回りの勢いが違う。そういうことから、畑大将の方が松井大将よりも光っていたかといえば、高木大尉にとってはそうではない。
 高木大尉は、畑大将に対しては武人という印象を持ったが、松井大将は畑大将とも違う人物だ、と畑大将の衛兵長をつとめて改めて松井大将の偉さを感じた。
 それではどのように偉いのかといえば、
 「表現する適切な言葉がありません。
 なんといったらよいのか、度々聞かれるのですが、うまくいえないのです」 と言う。
 戦後になり松井大将は南京事件の責任者とされたが、それについては、
 「私は衛兵長ですから南京では常に松井軍司令官の側にいて一緒に南京を見ていました。また、方面軍司令部が上海に戻ってからは中支那方面軍の軍法会議の判士もつとめました。こちらはかかりっきりというのではなく、お手伝いをしたといった方が適当なのですが、それにしても判士をつとめましたから兵隊の軍紀がどの程度か知っています。ですから戦後、東京裁判で南京虐殺が持ち出されたときは本当にびっくりしました」と述べている。
 戦争が終わって軍はなくなったけれど、高木さんは軍人であったことに誇りを持ち、正月になると熱海にある興亜観音にお参りに行くようになった。
 興亜観音は中支でたおれた日本と中国の兵士を弔うために松井大将が建てた観音である。小高い伊豆山の中腹にあり、そこにいたる道は長くないが、急な坂道になっている。この坂道は年を取るとともにきつくなり、七十を越してからは行っていないが、松井大将を尊敬する気持ちは少しも変わらない。
 光華門を攻めた鯖江連隊の西坂上等兵は、その翌年、徐州作戦に参加し、徐州作戦が終わったとき、連隊の遺骨を持って一時帰国するよう命じられた。遺骨の中には徐州作戦で死んだ従兄弟の高橋太重郎伍長の遺骨もあった。
 鯖江まで遺骨を持って行くと、叔母は遺骨を抱いて泣きながら、「なぜ代わりにおまえが死んでくれなかったの」
 と西坂上等兵にいった。従兄弟は一人息子、西坂上等兵は六人兄弟である。泣く叔母を見て、代われるものなら代わってやりたいと思った。
 数日で再び中支の戦場に戻った。
 西坂上等兵は、上等兵への昇進が一番早かったが、その後も上官からは評価された。自分も丁稚奉公の生活より軍隊生活があっていると思っていて、上官のすすめがあり軍隊に残ることになった。
 「軍隊にいるうちに不撓不屈の精神ができて、また体がきたえられましたから、軍隊で心身ともに磨かれたと思っています。
 戦後、両国の店はなくなっており、新しい仕事につくことになり、それからもいろんなことがありましたが、軍隊にいてよかったといつも思っています。
 私は軍隊からいろいろな影響を受けましたが、軍隊では生水は飲まなかったので、今でも飲み水はいったん沸かしてから飲む習慣がついています。これなんかもその一つです」
 このように西坂さんは九年間の軍隊生活を述べている。
 昭和五十九年、教科書の南京事件の記述が事実と違っているというので、国を相手どって民事訴訟が行われた。教科書は二十万、三十万の虐殺があったというが、事実を書くべきだと主張したのだ。西坂さんもこのとき原告の一人となった。
 「軍紀は厳しかったから南京で虐殺事件はありえません。
 今でも光華門で受けた。突入命令を覚えていますが、光華門でたおれた戦友のためにも南京事件の記述だけは訂正しなければなりません。そうでないと死んでから戦友に会えません」
 いかにも立派な兵士だったことをしのばせるてきぱきとした仕草と話し方の人である。
 裁判は東京地裁で棄却の判決が出て、西坂さんたちは高裁に控訴した。しかし高裁でも棄却になり、最後に上告して敗れた。裁判の結果については仕方ないとあきらめたけれど、教科書の記述についてはあきらめず、ほかに方法がないかどうか検討している。

「毎日新聞」のトップ記事
 会津若松連隊の栗原伍長は南京攻略戦の翌年秋、武漢作戦で大腿部貫通銃創を受け、内地に戻った。そして警視庁に復帰し、以来、停年までつとめた。
 昭和五十九年七月二十二日の毎日新聞の社会面トップに「南京大虐殺 中国が立証」「犠牲者は三十余万人」という見出しと記事が載った。記事の内容は、中国で出飯された『証言・南京大虐殺』が日本でも翻訳されるが、これは南京事件の犠牲者が三十万人であったことを証明している、といデものである。東京日々新聞といった時代から毎日新聞の読者である栗原氏は早朝、自宅でこの記事を見て驚いた。こんなに大きく南京大虐殺の記事が載った新聞を見るのははじめてだったからである。そして、そのとき、南京攻略戦に参加した一兵士として、この記事をこのままにしておいては大変だ、何も知らずに読んだ人が本気にしてしまうと思った。
 軍隊時代に頑健だった栗原さんは七十歳を過ぎてもきわめて健康で、一日五、六時間寝れば充分である。停年退職してからは武道を教えていて、 一日家にのんびりいることはない。ラジオの君が代を聞いてから寝て、朝はラジオ放送が始まるのを聞きながら起きる。
 朝早く毎日新聞を読んだ後、新聞社が始まるころまで待って編集局に電話をした。自分も南京攻略戦に参加した兵隊だがあの記事はおかしい、と自分の思ったままを述べると、数日して記事を書いた記者が栗原さんの家にやってきた。栗原さんは、自分の見聞するかぎり三十万人という虐殺はありえない、と言って改めて自分の体験した話をした。そして、当時持っていたスケッチなども見せた。その記者は熱心に栗原さんの話を聞きながら、スケッチーブックをお借りしたいといって帰っていった。
 それから二週間ほどした八月七日、突然、「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万人虐殺 自動発砲説覆す」という見出しの記事が毎日新聞に載った。記事の内容は、自動発砲説といわれていた南京の幕府山事件は虐殺だった、その証拠であるスケッチを栗原氏が持っている、というものである。南京虐殺はなかったと抗議したら、南京虐殺の証言者にさせられたわけである。
 毎日新聞には栗原氏の住所も載っていたので、新聞を見た人からは、勇気ある発言だという励ましと、日本軍の恥をさらすなという非難が半分ずつ来た。
 栗原氏は毎日新聞の記事に、記事の内容が違うこと、住所や名前など了解もなしに書いたこと、そして、そのため非難の手紙が来ていることを抗議すると、今度はそれが「記者の目」コーナーで、「反論あれば堂々と、匿名の中傷やめて」という記事になった。今度の内容は、八月七日の記事を見て証言者にいやがらせの手紙をよこす人がいる、反論があるなら匿名でなく堂々とすべきだ、というものである。そこではじめて栗原氏は毎日新聞に抗議するだけ無駄だと連絡を断った。
 栗原氏の話を聞いたとき、まさか新聞記者が証言者のいわんとすることと逆の記事を書くことはないだろう、記者にも言い分があるのではないかと思った。そして記者に会いに行くことにした。会って、まず一番気になっていることを話した。
 「栗原さんはあの記事に怒っていますよ」すると、記者は、「そうでしょうね。知っています」
 とこともなげに言った。記者は栗原氏の証言を意に介せず、自分の意図する記事を書いていたのである。
 そんなことがあった翌六十年三月、栗原さんは、顧問をつとめる武道学園の第三次日中友好少年文化使節団の一貝として中国にわたった。それまでも何度か中国への旅行をすすめられていたが、いつも万里の長城や北京を見るというものであったので断っていた。中国に行くのならたくさんの戦友の死んだ上海に行って供養したいと思っていたからである。
 そのときは上海と南京に行くというので行くことにした。
 「上海に着いたとき、皆と別れて郊外に行ってみました。そうするとね。クリークは昔のままで、確かに見覚えのあるトーチカの跡もありました。それを見たとたん、昔のことがいろいろ思い出され、涙が流れ、どうしても止まりませんでした。
 日本からお酒と花を持っていきましたから、それを供えて戦友の冥福を祈り、。それでようやく落ち着きました」
 上海の後、南京に行った。戦争当時は船で揚子江を渡り南京を後にしたのだが、その揚子江に行ってみると、近代的な橋が架けてあり、あまりに立派なのでびっくりした。南京城壁も一部が壊されていたが、聞くと、古いものはすべて取り壊す方針だと言う。
 栗原さんは軍隊生活について、
 「教育の場としては軍隊以上のところはないと思います。気配りもおぽえ、実行力もでます。裁縫も覚えます。私の幼なじみで満足に文字も読めなかった者が軍隊に入って手紙の書き方をおぼえ、その後、社会に戻ってから社長にまでなりました。社会生活での最低必要なことを教えてくれるところですよ。
 軍隊はピンクをもらうひどい所というが、それは怠けているからで、怠け者には軍隊はつらいでしょう。軍隊生活は共同生活を行い、その体験は人間社会にとって本当に必要です」と言う。
 栗原さんも軍隊生活がその後の人生での支えになっている。

 都城連隊の鎌田上等兵は、兵役が終わってからも軍隊に残り、終戦まで軍人として生きることになった。終戦時には准尉まで進んだ。昭和十五年、支那事変の論功行賞が行われたときには当然のことながら金鵄勲章を貰った。
 小柄な体といい、素朴な話し方といい、鎌田上等兵と南京城突入を結びつけるのはむずかしいほどである。その鎌田上等兵を支えていたのは国を思う心である。「あのころ、自分のことは何も考えませんでした。国のことだけです。それは私だけでなく、昔そうだったと思います」と言う。
 軍人として最後はブーゲンビルに行って戦った。そこでは重傷の者は自決するという不文律であった。鎌田准尉はここで右脛貫通銃創を受けたが、すんでのことで自決しないですんだ。
 「九年間を振り返りますと、気にかかるのは多くの部下を死なせたことです」
 と軍隊時代を一言で語った。
 戦後、都城連隊の連隊会が結成されたとき、すぐに第九中隊の世話人になり、それ以来、戦友との親睦につとめている。連隊会は毎年開かれているが、世話人なので受付をやったりしてゆっくり戦友と話もできない。
 その連隊会に結成以来の出来事が昭和五十九年におこった。
 昭和五十九年八月四日、朝日新聞が、都城連隊の兵士が南京虐殺を告白している。写真もあると報道し、その南京虐殺の証拠という写真を載せたからである。
 連隊会では驚いてさっそく調査に乗り出したが、朝日新聞が報道するような人物はおらず、南京の写真というのも満州での匪賊の写真と酷似している。連隊会は朝日新聞のデッチあげと断定した。
 さっそく朝日新聞に抗議したが、朝日新聞は、報道は事実であり、兵士の名前は公表できない、と撤回しようとはしない。会談は度々持たれ、連隊会は白黒をはっきりさせるため取材源をはっきりさせるよう求めたが、朝日新聞は取材源の秘匿は当然と逃げるだけ。とうとう連隊会は裁判に持ち込むことにした。連隊会といっても定年を過ぎた老人ばかりで、裁判といえば少なくとも数百万円単位のお金がかかる。しかし、連隊会は黙っているわけにはいかなかった。
 結局、連隊会と朝日新聞の間で会談か持重れ、昭和六十二年一月、朝日新聞が紙上で謝罪する代わりに連隊会は告訴を取り下げた。解決するまであしかけ四年かかった。
 「朝日新聞に虐殺の写真だというのが載っていましたが、虐殺だという話は一度も聞いておりませんでしたから、朝日新聞はどうしたのかと思いましてね。私は絶対そういうことはないと信じて疑いません。
 朝日新聞もお詫びして、ようやくあの記事にも決着が着きました。六十二年の連隊会ではそれを祝いました」という。
 軍隊生活は鎌田さんの戦後の生活にとってどうだったのかとたずねると、
 「結果として敗戦となりましたから、どうだったといっても仕方のないことです。
 私個人としては農業という仕事でしたので仕事自体には軍隊の知識は結びつきませんでしたが、人間的に大いにプラスになりました」と語った。

高松元伍長の証言
 福知山連隊の山室伍長は南京攻略から二年後の昭和十四年十月、連隊の凱旋とともに故郷に帰った。大東亜戦争が始まって再び徴兵になり、今度はフィリピンに行ってアメリカと戦った。
 しかし、アメリカ軍との戦いは中国軍とのようにいかず、さんざん痛めつけられ、仕上げに砲撃でやられた。砲撃を食ったとき、肩口が割れ、傷口を押さえようとした右指四本がすっぽり傷口に入ったほどである。
 昭和六十三年、日本の商社貝がフィリピンで誘拐され、指を切られたと報じられた。その報道に接した山室さんは、フィリピン当時のことを思い出したのか。「本人は痛いとも何とも感じないでしょう。気が張っていますからね。私も肩口が割れたときは痛いと思いませんでしたよ」と言った。  「南京での戦いでは辛いこともありましたし、戦友が死んで悲しいこともありました。でも何年かしてフィリピンで戦ってみると、南京での辛さは物の数ではなかったんですね。辛さ、悲しさなどは限りがないものです。
 しかし、アメリカ軍には負けましたか、アメリカ兵ば日本兵がいそうなところを遠くから機関銃で撃つだけで、怖いから撃つとそのまま帰ってしまいます。やはり日本兵が一番勇敢だったと思います」と戦争体験を話した。
 戦争が終わってからは毎日が仕事で忙しかった。戦前戦中は戦場での戦士、戦後は復興の戦士である。仕事に明け暮れていたので、自分から誘って戦友と会うことはなかったが、それぞれの戦友会があって、会合の通知が来れば必ず行く。
 「戦争のことを思えば、仕事でどんなにつらいことがあっても苦になりませんでした。それと、軍隊での皆で一緒にやる、命令は守る、ということは仕事の上で大いに役に立ちました」
 と言った。復興の戦士として山室さんは中堅企業の工場長までつとめた。
 宇都宮連隊の高松伍長は第六十五連隊が宇都宮に戻った昭和十四年九月に家に戻った。
 その後、大東亜戦争で再び召集されている。
 高松さんのまわりで南京事件がいいだされたのは昭和六十年代に入ってからである。それまで話題にもなっていなかったが、日本軍の将校の集まりである偕行社が調査をするようになったのがきっかけとなった。雨花台で一緒に南京城を攻撃した軽装甲車の兵士が近くに住んでいて、ある日高松さんが雨花台で中国兵を剌殺したことを話すと、捕虜を殺すのは国際条約違反だといわれた。
 そのことに関して高松さんは、「あのとき、あの中国兵は殺すものだと思っていました。中国軍ですら中国兵を殺していましたから。私かやったことが南京虐殺といわれているものなのかどうか自分ではわかりません。しかし、戦争とはそういうものだと思っています」 と答えた。高松さんは巷間、虐殺だと言われている事柄の当事者である。どのように答えるのかと思っていたが、昔の人らしく、中途半端に答えたりしない。はっきり答える。それはほかの質問でも同じだ。
 軍隊生活は自分にとってどうだったかとたずねると。
 「厳格な生活は身のためによかったと思っています。軍隊生活を経験していない今の者と私達を比べるとはっきりした差があります。今の者からみれば軍隊生活は夢のようなことですから言ってもしょうがありませんが、整理整頓とか目に見えるところでもはっきり違っています」と答えた。
 五、六年前までは昔の戦友と定期的に集まっていたが、一番若かった高松さんでも米寿で、病院に通う体である。ここ五年ほど戦友に会ったことはない。第四中隊の人達の様子を知らせると、
 「手塚中隊長はまだ元気ですか。それはよかった。
 それにしてももう中隊会が行われることはないでしょうね」 と言った。
 松井大将から中支那方面軍の嘱託を命じられて同行した岡田さんは、生まれや育ちなどから中国で仕事をする運命にあったようだ。松井大将が凱旋帰国しても岡田さんは残り、結局、終戦まで中国にいた。
 戦後はすぐに松井大将の裁判の手伝いをすることになり、それを三年間続けた。
 岡田さんも戦後は新しく生活を始めなくてはならず、事業をおこしたが失敗して遺産の土地をほとんど失った。やがて医学書の出版をすることになり、こちらの方は日本医師会と提携してどうにか続けることができた。世話好きでもあり、自分の卒業した東亜同文書院の同窓会の世話をしたり、昭和五十九年に結成された「孤峰会」の副会長をつとめてもいる。
 孤峰とは松井大将の雅号で、孤峰会は松井大将の徳を忍び、その遺志をつごうとして結成されたものである。毎年五月十八日に熱海の興亜観音に会員が集まって供養するが、松井大将と縁故のある人たち数十人が全国から集まってくる。中には九十歳になろうとする人もいる。この人達は、松井大将と聞くとどうしても行かなくてはおさまらないのだ。松井大将がなくなって既に四十年にもなるが、松井大将の偉大さがしのばれる。
 昭和六十二年の集まりで岡田さんは久し振りに松井大将の養女久江さんと会った。岡田さんはまるで青年のように目を輝かせて喜んだ。
 この年の集まりでは、供養をした後、岡田さんが皆の前で松井大将の思い出を話した。
 「東京裁判のとき、松井大将をなんとかしてもらおうと、山田純三郎氏を通して蒋介石に働きかけたことがありました。蒋介石からの答えは、南京でも漢口でもどこでもいい、誰か一人をやらないと中国がおさまらない。そういう答えでした。
 それを松井大将に伝えるとね、大将は黙っていました」そんな思い出を話しながら、最後に、
 「体の動くかぎり、皆さんとここでお目にかりたいと思います」と挨拶した。(おわり)

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