城壘10


丸MARU 1989年10月号 通算519号 連載第10回 
一晩中鳴りひびく砲声
 福知山連隊は、南京城東方十五キロほどの所で二日も阻まれていたが、ようやく八日までに中国陣地を制圧した。
 九日は朝七時、制圧した梅塘から出撃し、第一大隊が先頭になって大城山、大連山などの三つの小高い山を進んだ。しかし、山越えは山室分隊たち重機関銃隊にとってたいへんな行軍である。二十キロ以上もある重機関銃を四人で担ぐのてあるが、四人の歩調が揃わなければならないので、それまで度々経験した冷たいクリークを渡ることよりはるかに苦しかった。しかも中国軍が松林の中に隠れて撃ってくるので、交戦しながらの山越えであった。
 しかし、これらの小高い山を越えるといよいよそこは名実ともに南京であった。
 前方には小さな丘が続き、その北よりにはひときわ目立つ山がある。この山が南京城の北東に接している紫金山で、紫金山のふもとには白く長い階段と塔が見える。中国革命の父である孫文を祭ってある中山陵と、元を倒した朱元璋のいわゆる明の孝陵である。明は三代目の永楽帝が都を北京に移したため、ほとんどの皇帝の陵は北京に残っているけれど、初代の朱元璋は明をおこしたとき、南京を首都と定めたので朱元璋の陵だけが南京にある。
 南京市に入ると中国側から撃ちだされる迫撃砲が落下しはじめた。福知山連隊は迫撃砲の中を進むことになり、五キロほど進んで、夕方蒼波門に達した。
 夜になり山室分隊は爆撃されて壊れた家に入ることになった。中国陣地に近付いたため、中国陣地からは銃撃も始まり、砲声と銃声が鳴り響き始めた。
 十日朝になると、福知山連隊は蒼波門から馬群に向かった。途中の丘陵や松林などはすべてが中国軍の拠点で、ここから撃ってくる中国軍と戦いながら進む。進むにつれて中国軍の抵抗は激しくなり、日本軍と中国軍は入り乱れるようになり、山室分隊がこの日進むことができたのはニキロほどで、ようやく夕方、紫金山ふもとの中央運動場近くまで進んだ。
 中央運動場は六万人も収容できる大きい近代的な運動場で、全国大運動会などがひらかれたところである。あたりはまばらな松林が続き、政府高官や高級軍人の別荘などの立派な建物も建っている。
 山室分隊はグラウンドのそばの立派な洋館に宿営することになった。洋館は中国軍の中将の家らしく、立派なものであったが、入ると、部屋の中のめぼしいものは中国軍が持ち去ったあとで、どの部屋もくまなく荒らされていた。
 中国軍はこの夜も砲撃を止めるようすがない。昨日もそうであったが、夜になるとかえって激しく撃つ。夜の砲撃は相手の位置を正確にとらえることができず、その効果も確かめることができないので日本軍はめったなことでは撃たないが、中国軍は恐ろしさのためむやみと撃っているようであった。
 兵隊たちはいつものようにすぐに食べ物を探し始め、食事の用意にかかった。火や煙を中国軍に発見されないように洋館の陰で炊くことになり、炊いたその場で食べ始めた。
 食事を始めたとたん近くでまた迫撃砲が作裂した。そのため皆は頭から土をかぶったけれど、それでも誰も食事をやめるものがいない。迫撃砲が近くで作裂したくらいではかまっていられないのだ。
 食事が終われば後は寝るだけで、山室伍長は久し振りに椅子の上に寝ることになった。
 しかし、寒さと砲撃の音でなかなか眠れない。
 真夜中、あまりに寒くて目が覚めると、中国軍の砲撃は依然やまず、近くで作裂するたびに家が震え、窓からは作裂する迫撃砲の火が見える。
 一晩中寒さと砲撃の音でうとうとしていたが、十一日は午前七時、まだ暗いうちに起こされた。
 中央運動場からその先の中山門前にかけても小高い丘が続いていて、この丘にはトーチカや塹壕があり、ここからひっきりなしに中国軍が撃ってくる。山室分隊たち第一線部隊はここに向けて進むことになった。
 日本軍の野砲はこの日前線まで進み、午前九時から中国軍に砲撃を始めた。軽戦車も近くまで進んできたが、軽戦車は鉄条網、地雷などのため思うように進めなかった。
 昼になり、山室伍長は昨夜炊いておいた南京米を食べたが、南京米は寒さで生の米のように堅くなっていた。温かいうちはなんとか食べられるが、いったん冷えると全くまずい。
 そんなことを思いながら急いで食事をしていると、突然、敵の迫撃砲が二十メートルほど後方で作裂し、一緒に食事をしていた橋本一等兵が右人差し指、野村一等兵が顔に破片を受けて負傷した。
 山室伍長はこのときも運よく怪我ひとつ負わなかった。鉄帽の中に御守りを入れて、千人針の腹巻きをしめていたが、これが守ってくれると確信していたから、近くで何か爆発しようが気にならない。
 午後二時になると、第四中隊とともに紫金山の南に連なる西山の攻撃に向かうことになった。西山は中山門からほぼ東、ニキロほどの所にある小高い丘で、中山門を守るように聳えている。この西山を越せば、目の前は中山門である。
 西山の攻撃に移ると、西山の北側にある紫金山からはさっそく迫撃砲がきた。何発目かの迫撃砲が桜井一等兵の背嚢に破片が当たり南京米が散乱したが、連日、最前線にいる山室分隊にとって生と死は紙一重で、恐れる者は誰もいなかった。
 午後三時過ぎに西山の八合目ほどまで進んだが、頂上に行くにしたがって中国軍の抵抗は頑強になる。福知山連隊は麓からしらみつぶしに西山を進んだわけでなく、そのためまだあちこちに中国兵が残っており、今日じゅうには攻めきれそうもなかった。

敵味方、至近距離で対峙
 まもなく上から、現在地に壕を掘るように命令がきた。今夜は掘った壕で過ごそうというのである。早速、壕を掘り、入ることになったけれど、敵とは直接距離にすれば二十メートルほどである。松林がさえぎってお互いに顔は見えないが、中国軍側からは手榴弾がとんできたり、チェッコ銃の弾がとんでくる。山室分隊のいる壕は最前線なので前方からだけでなく、後方からも中国兵の弾がとんでくる。
 敵味方があまりにも接近しているので、相撃ちを避けるため合言葉を使うことになった。合言葉は「おおの」と「にしざき」で、連隊長と大隊長の名前からとった。
 月が早くも明々と出た。掘った壕に入ったが、寒い上に山頂からの攻撃が続いて心の休まる暇がない。夕食も生の南京米をかじるだけで、紫金山から西山にかけては砲声がうなりつづけている。
 山室分隊は空腹と睡眠不足に加え疲労が重なっていたけれど、暗い壕の中で、全員、国のためなら命を捨てても惜しくはないと語り、不満を訴える者はいなかった。山室伍長は、南京を落とせば日本に帰れると励ました。山室分隊をささえるのは若さと国を思う気持ちで、二十四歳の山室分隊長が最も年上で、あとは二十二、三歳の若者である。
 この日まで第十六師団では、津の部隊が紫金山の第二峰を占領し、奈良の部隊は紫金山の北側を迂回し、京都の部隊が中山陵の麓まで進んでいた。結局、中山門の正門に向かっていた福知山の部隊が最も南京城に接近している。その福知山の部隊の中でも、西山を攻めた第四中隊と山室分隊たちの重機関銃隊が最も最前線に進んでいた。
 一方、第十六師団と並行して進んだ第九師団の富山の連隊はこの夜、中山門からやや南よりの城壁前まで進出していた。中山門前から南はちょうど深い堀になっていて、その堀の直前まで進み、城壁からの突入を狙っていた。このままでは、第十六師団より早く中山門を攻めるかもしれない。
 南京城を象徴する紫金山を攻撃している第十六師団には上海派遣軍のほうから何度も激励がきており、それだけに最も進んでいる山室分隊たちの責任は重いものがあった。
 山室分隊が、暗闇の中を偵察すると、壕から五十メートルほど右のほうに中国軍が掘った壕があった。しっかりした壕であったので、夜明とともにここから攻撃しようということになり、十二日午前四時にこの壕を改修しはじめた。山室伍長は分隊の半数を新しい壕に移し、機関銃を据えた。
 五時五十分ごろ川勝一等兵が、「分隊長、外套を前の壕に置いてきます」といった。川勝一等兵は第一補充隊として、山室伍長と一緒に来た兵である。夜明けにはまだ一時間以上もあるので、「今のうちに行ってこい。明るくなれば危険だからすぐ帰れ」と山室伍長は答えた。中国兵と日本兵は入り乱れているが、それまでの経験から中国兵は夜が明けるまで攻撃はしてこないだろうと考えたからである。
 ところがちょうどそのころ、十人ほどの中国兵が闇の中を山室分隊のもといた壕の背後に迫ってきていた。近くにいた日本兵がこの一団に気付き声をかけると、日本語で、 「友軍だ」と答えた。日本軍は友軍だと思って一瞬安心すると、油断したすきを狙って一斉に撃ってきた。
 日本兵はつぎつぎ倒れ、六人が即死した。ちょうどそこに川勝一等兵が戻ってきて、右胸を銃剣で剌されてたおれた。
 中国軍の夜襲に回りの日本軍はすぐに反撃し、中国兵は六人が殺され、残りは逃亡した。
 中国兵が襲ってきたとの報告が山室伍長のもとに届いたのは川勝一等兵が行って三十分もしてからである。山室伍長がかけつけると、何人かの兵とともに川勝一等兵がたおれていた。雑嚢をはずしてやると、まだ体は温かかったが、顔は蒼白で、即死だったと思われた。山室伍長は、あのとき止めておればと悔やんだが、悔やんでももう遅かった。

真昼の南京城攻略戦
 十二月十二日、鎌田上等兵たち都城の連隊は暗いうちから南京城の西南角をめざして攻撃を始めた。南京城の南にひろがる丘陵の端から城壁前までにはわずかに建物があり、中国兵がこもっていたが、丘陵地帯にあるようなトーチカや塹壕はなく、午前九時には城壁前三、四百メートルまで進むことができた。連隊砲もその後を進み、城壁を目標に砲撃準備を整えた。
 一方、中華門をめざした熊本の部隊は城壁から二千メートルほどの地点で中国軍にはばまれ、それ以上進めなかった。
 このため、野重砲は急遽昨晩の方針を変え、熊本連隊についていた第二中隊をも都城の連隊に協力させることにした。第六師団てはそれまでむしろ中華門に重点をおいてきたが、状況から西南角に重点を置く方針に変えざるをえなかった。
 十時になり、牛島旅団長は都城の連隊に対し、午後四時を期して城壁を奪取せよとの命令を出した。
 支援する野重砲は十時四十分ごろにはすっかり西南角城壁を攻撃目標とする準備を整えた。
 都城連隊ではそれまで第二大隊と第三大隊が第一線になって進んでいたが、攻撃が始まる直前になって、突入路が狭いため第三大隊が先頭になって突入することになった。
 第二大隊の兵隊は三日間にわたり第一線で戦ってきただけに、いざ突入というとき第三大隊に先陣を譲ることになって残念がった。
 第三大隊の鎌田上等兵は自分で一番乗りしたいという強い気持ちがあり、第二大隊の気持ちが痛いほど分かったが、その一番乗りまでには連隊全休の協力があってはじめてできることて、一番乗りする兵はたまたまその順番に巡り合わせた兵隊であることを知っていた。もともと西南角は大分の連隊が攻める予定だったか、途中から、都城連隊が攻撃することになったものである。また都城連隊でも本来ならそれまで第一線だった第二大隊が先頭になって攻撃するはずだった。それが第三大隊が攻撃することになったのは、すべて巡り合わせだと思った。
 第三大隊が突撃することになり準備を進めるうちに第三大隊の中でも鎌田上等兵の第九中隊が先頭で突入することになった。これを聞いて鎌田上等兵は、いくら巡り合わせとはいえ自分の巡り合わせに喜び、こうなったからには少しでも早く一番乗りしようと思った。
 西南角からの突撃にはまず城壁を破壊し、さらに城壁の前を流れるクリークを渡らなければならない。クリークの幅は二十メートルはあり、中ほどは相当深いように見えた。そのため工兵隊が橋を架けることになった。この間、鎌田上等兵たち第九中隊は、城壁上での中国兵との銃撃戦にそなえて掩体として土嚢を作ることになり、それぞれ米袋などに土を入れ、五キロほどの土嚢を作り始めた。
 土嚢を作ってから鎌田上等兵たちは城壁上と左前方から撃ってくる中国軍の銃撃に応戦しながらクリークの前まで進んだ。そうするうちに、中華門と西南角の中間を目標にしていた大分の連隊が目標とする城壁前まで進んできていた。
 大分の連隊は城壁まで進んで野重砲が配属になっていなかったので、城壁前まで進むとそのまま城壁攻撃に移ることにした。まず第三中隊から六人の決死隊が選ばれ、竹梯子を登って城壁上まで登ることにした。梯子は二つの梯子を結び付けたものであるが、十数メートルもある城壁では城壁の上から四メートルのところまでしか届かない。そこで決死隊はそこから煉瓦を登ることにした。
 決死隊は城壁上から撃ってくる中国軍と銃撃戦を行いながら城壁の上まで登った。中国軍の守備は薄いとはいえ、守備についていた中国軍も必死で、そのため六人の決死隊のうち五人がたおれた。それでも大分連隊は新しい決死隊を送り込み、十二時二十分になり、城壁上に日の丸を立てることができた。城壁上を占領してその上に日の丸を立てたのは日本軍の中では初めてであった。
 その地点から五、六百メートルほど西南よりの城壁の前で鎌田上等兵はこの様子を見ていた。鎌田上等兵の所から城壁に梯子が架けられるのは見えたか、兵隊が梯子を登っていくのは見えなかった。兵隊が梯子を登っていくとは考えもつかなかったからやがて城壁上に日の丸がはためくのが見えたとき、それは梯子の先に日の丸の旗が結わえ付けられたものと思った。しかし、ともかく、城壁上には日の丸がはためいているので都城の兵隊も早く城壁上に攻め登らなくてはとあせった。
 水西門や城内の清涼山から撃ってくる中国軍の砲撃は激しく、このまま城壁突入しても成功はむずかしいように思われた。
 中国軍の砲撃に対して日本軍からも砲撃が行われ、あたり一面すごいうなりが響いている。三時ごろになり、連隊砲、野砲の城壁への攻撃が始まった。攻撃は正確であったが、城壁の上部は幅十五メートルもあり、煉瓦で覆われている。一つ一つの煉瓦は長さ九十四センチ、幅八十八センチ、厚さ三十六センチもある大きいもので、少しも崩れなかった。
 そうするうちに工兵隊が高梁の藁を束ねたものを運んできた。藁の長さは三、四メートルほどあり、それを直径一メートルほどの太さに束ねたもので、これを次々つないで仮橋にするというのだ。工兵隊は束をクリークに投げ込むと、一人一人クリークに入り、水中から高梁の東を支えた。体を敵にさらしたままで、仮橋の支柱になるのだ。すべての準備はととのった。
 四時三十分、今度は野重砲の一斉射撃が始まった。野砲や連隊砲ではびくともしなかった城壁であったけれど野重砲の十五榴弾の一発が命中すると、とたんに最上部が大きく崩れた。砲撃は三分間続き、五十二発中四十発が命中し、城壁はあっという間に幅十一メートルほどにもわたって破壊された。十五メートルほどの厚さの城壁は半分ほどえぐり取られ、十八メートルの高さのうち上部の半分以上が崩れ落ちた。落ちた瓦磯が城壁の下に積み重なり、それを見ていた鎌田上等兵は、崩れた瓦磯から登れば登れるだろうと思った。
 後方からはまだ連隊砲などの日本軍の砲撃が続き、城壁の前て爆発するものもある。砲撃の最後を示す発煙弾が撃たれたのかもしれないが、野重砲のすさまじいうなりと、城壁が崩れる砂塵などで鎌田上等兵には今が突撃のときなのかどうかわからなかった。
 そのとき、近くにいた萩原軍曹が飛び出し、高梁の橋を渡り始めた。高梁で作った橋は一人を支えるのが精一杯で、また、一斉に渡れば狙い撃ちされるので一人ずつ渡るしかなかった。萩原軍曹が無事渡り終わろうとするころ、もう一人の兵が飛び出した。
 そうやってつぎつぎクリークを渡っていった。途中、敵の銃撃でたおれる兵もいたが、十人ほどが渡った。後方からは、破壊口を広げて登りやすくしようと、連隊砲の砲撃は続いていたが、十人ほどが渡ったころ、鎌田上等兵も五キロほどある土嚢と四キロの銃を持って飛び出した。
 仮橋はもともと浮いている藁を水中から工兵隊が支えているだけだから、足をのせるたびに揺れる。左前方からの中国軍の銃撃は続いており、日本軍の砲撃による瓦礫の破片も前方から飛んでくるので、これらを避けなければならない。その上、土嚢と銃を持っているからうまくバランスを取らなければ渡れない。そう思ったとたん、鎌田上等兵はバランスを崩してクリークの中に落ちてしまった。それでも銃と土嚢だけは離さなかった。しかも、渡り始めたところだったのでクリークは胸までの深さだった。鎌田上等兵は夢中で高梁にすかりつきはい上がった。
 再び高梁の橋を渡り始めた。クリークの中ほどは深いので工兵隊も水中から支えるわけにはいかない。足を踏み出すたびに高梁の橋は沈み、左右に揺れる。バランスを取りながらようやく二十メートルほどのクリークを渡った。
 クリークを渡り切るとそこから城壁まではさらに五十メートルほどある。左前方にいる中国軍はクリークを渡った日本兵を狙って撃ってきており、クリークを渡ってもまだ危険な状況は続いていた。クリークを渡った所では真っ先に渡った萩原軍曹が砲撃の破片で足をやられてたおれていた。城壁近くでは清武一等兵がたおれていた。左から来た弾が清武一等兵のこめかみから目に抜けたらしく、眼孔から目玉がたれさがっていた。目玉がこんなに大きいものかと驚いたが、それも一瞬のことで鎌田上等兵は城壁へ向かって走った。
 城壁前まで来ると、左からの中国軍の銃撃には死角になり、銃撃の心配はなくなった。
 しかし、クリークをはさんで見たとき、城壁前の瓦磯は斜面をなし、簡単に登れそうに見えたが、いざ登ろうとすると、ほとんど垂直で手をかける先から瓦礫が崩れだした。
 鎌田上等兵は十数メートルの瓦礫をほとんどすいつくようにして登った。手と足はすがりつくのに精一杯だったため、肩とあごで銃と土嚢を押さえなければならなかった。登る時間は一瞬のように感じたが、実際は数分間かかったのかもしれない。そのころになってようやく後方からの砲撃がやんだ。城壁上には激しい日本軍の砲撃のため、一人の中国兵もいなかった。城壁上にあったトーチカの中で五人ほどの中国兵が死んでいた。
 城内を見下ろすと城壁近くまで民家が密集していたが、近くから撃ってくるということもなかった。城壁は内側もほぼ垂直で、何本かの竹梯子がたてかけられてあった。中国軍は先ほどまでこの竹梯子を使って城壁上に登り降りしていたらしかった。
 第九中隊の兵隊たちはすぐに持っていた土嚢で西南角の方と中華門よりの方に掩体を作り、軽機関銃をすえ、中国兵が攻めてきても応戦できるよう準備を整えた。時に四時四十四分であった。依然、日本軍の野重砲は城内の中国軍砲台をめがけてすさまじいうなりをあげていた。
 第九中隊の兵隊はつぎつぎ登ってきたが、半分以上が城壁上に登ったころ、後方にいるはすの牛島旅団長が登ってきた。牛島旅団長は少将であり、既に四十九歳である。まだ中隊長はおろか、大隊長も連隊長も登ってくる前で、城壁上はいつ中国軍の逆襲が行われるかわからないときである。城壁の下で旅団長を見つけた中隊長が止めようとしたが、旅団長は大丈夫だといってそのまま登ったというのだ。鎌田上等兵たちは牛島旅団長が登ってくるのを見て、驚き、そして感動した。
 牛島旅団長は、この春、少将に進級し、第三十六旅団長として鹿児島に赴任して来た。都城と鹿児島の連隊を統べる旅団長である。
 鹿児島にいたとき、牛島旅団長はどんなことがあっても怒ることなく、兵隊一人一人を暖かく包みこんでくれた。第六師団の先遣隊として南京に向かって進む間も気軽に兵隊たちに鹿児島弁で声をかけ、強行軍で疲れている兵を励ました。旅団長に声をかけられた兵も、遠くから旅団長を見るだけの兵も牛島旅団長の下の一兵士であることを誇りにしていた。
 戦場では旅団長も兵隊も同じ生活をするが、牛島旅団長は朝になると兵隊たちと野原に並んで用をたすこともあった。三日前、牛島旅団長が一人で朝の恒例の用をたしている最中、突然四人の中国兵が現れた。旅団長はそれを見ると、手招きして中国兵を呼んだ。旅団長の雰囲気にのまれたのか、中国兵はおとなしくついてきた。まさに無手勝流で、四人を捕虜にしてしまった。それ以来、旅団司令部ではこの中国兵を使役として使うことにした。そのような旅団長だったから、旅団長が来たからにはたとえ中国軍が逆襲してきても必ず撃退できると兵隊たちは思った。間もなく中隊長も城壁上に登ってきて、そこで中隊長の発声ではじめて万歳三唱をした。牛島旅団長も大声で万歳を三唱した。まだあたりは明るかった。(つづく)

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