城壘05


丸MARU 1989年5月号 通算514号 連載第5回
志願兵鎌田一等兵
 南京、上海、杭州を結ぶ三角形のほぼ中央に太湖がある。琵琶湖の何倍も大きい湖で、湖の中には大小さまざまな島があり、多くの人が生活していた。この太湖には昔から海賊がいて、太湖の中にある島と沿岸一帯はこの海賊が取り仕切っていた。海賊は力で統制しているだけでなく、税金を徴収したり治安を担当したりしてその力は強いものであったから、国民政府の軍隊も一切手を出すことはできなかった。
 その海賊たちも日本軍だけはどうにもならないらしく、いつごろからか全く姿を消してしまった。そのため上海が日本軍のものになってから陸軍も海軍も太湖まで進んだけれど、だれも海賊を見たことがなかった。
 上海から南京に向かうコースも、杭州から南京に向かうコースも、途中にこの太湖があるため、太湖をはさんで進むようになる。いわば、北回りコースと、南回りコースである。
 杭州湾に上陸した第十軍は、第五師団の国崎部隊が先頭になり、第十八師団、第百十四師団、第六師団と、南回りコースを進むことになった。距離からいえば杭州から南京に向かう距離の方が上海より数十キロほど短い。
 南京攻略が正式に決定された時、第六師団の都城第二十三連隊第三大隊は南回りのコースを下泗安に向かっていた。
 下泗安は、杭州と南京のちょうど真ん中で、それぞれから百八十キロの所にある。この辺りは、太湖を過ぎ、ようやくクリークも少なくなって、めずらしく舗装された立派な道路が続いていた。もともと軍用道路として作られたもので、武器を輸送したり、兵隊を移動するためのものであった。それだけに、道路の中央を自動車が通っても、その両脇を二列縦隊で兵隊が行軍できるくらいの広さがあった。
 都城の第三大隊は、しばらくの間は戦闘もなく、ひたすら中国の平野を進んでいた。
 一面の平原の中を真っすぐに伸びている立派な道路も、クリークにかかると、橋は、焼くか破壊するかしてあり、部隊は迂回して進まねばならなかった。
 第三大隊第八中隊の鎌田一等兵はあとで知らされたのだが、ちょうどこの日上等兵に昇進した。
 宮崎市から北に二十キロほど行った西都の農家に生まれた鎌田年明は、学校を卒業すると家業の農業を継いだ。
 鎌田年明は小柄だったが、そのころ、男の子は何にもまして体の丈夫な大人に成長して、立派な兵士になることが一番だと言われ、鎌田年明も小さいころから、それが国のためで、男として当然のつとめであると教えられて育った。
 兵役は男の義務として二十歳をむかえてから服する決まりになっていたけれど、立派な兵隊こそ立派な人間だと思った鎌田年明は、二十歳を待たずに兵役を志願した。そのため普通より一年早く都城にある二十三連隊に入隊した。この年の一月のことである。
 そんな兵隊だったから第一期検閲が終わった後、真っ先に一等兵に進み、さらにその後、熊本にある教導学校に入ることになった。教導学校は。兵隊の中から優秀な者を選んで教育し、下士官を養成するための学校であった。百人近くの第九中隊の中からは鎌田一等兵たち四人が選ばれただけであった。
 そうするうちに七月になり蘆溝橋事件がおき、都城二十三連隊は、まっ先に北支に向かうことになった。
 蘆溝橋事件がおきたとき、三個師団が中国派遣を予定されていながら和平の機会があり、延期されていたけれど、北京では本格的に日本軍と中国軍が衝突したため、応急動員されることになったものである。
 応急動員を受けたため、普通なら予備役の兵隊を動貝したうえで出動するが、都城の連隊は、兵営にいる現役の兵隊と一部の予備役の兵隊だけで出兵することになった。
 この動員のため鎌田一等兵の教導学校入学はとりやめになり、第三大隊第九中隊第三小隊第二分隊の一兵士として出征することになった。
 鎌田一等兵たちは列車に乗って門司に向かい、門司から船に乗って釜山に上陸し、そこからさらに列車に乗って北京に向かった。北京に着くと、蘆溝橋で知られている永定河を渡り、拒馬河を渡り、保定、正定、石家荘を攻めた。「文字通りの破竹の勢いであった。
 第六師団は日本に数ある師団の中でもい南九州の強者からなる豪勇な師団として知られていた。中国に行づて戦うようになると、その名は中国にも知れ渡り、第六師団は日本軍の中で最強の師団だという伝説を生み出したけれど、その伝説が生まれる最初はこの北支の戦いであった。
 それだけに兵隊たちは都城の兵舎にいる時に考えられないほどの体験をしていた。

小隊長の亡霊をみた
 正定を攻める時、第六師団では都城連隊が第一線となって攻めたけれど、その時のことである。
 正定には中国の軍官学校があり、正定城はこの軍官学校の教官と生徒が守って、激しい戦いになった。
 都城の二十三連隊は、十月七日に正定城のニキロ手前まで進み、翌朝、一キロ手前まで進んだ。いよいよこの日、総攻撃を行うことになった。
 第一大隊第二中隊第三小隊の佐藤正一小隊長は、正定城を目の前にした塹壕の中で、小隊を前に、「人間、畳の上で死ぬのも、長生ぎして死ぬのも、長い目で見れば針の先のように同じものである。
 いま正定城を前にして、国に命を捧げるのは男として本懐ではないか」と訓示した。それを聞いてみなは、小隊長が命を預けてくれと言ってるのだと思い、それぞれの心の中で命を預けることにした。
 やがてその日の攻撃が始まり、都城連隊のうち、第一大隊はほとんど壊滅状態になりながら夜の十時に城壁を占領した。佐藤准尉の率いる第三小隊は七名を除いて全員が戦死するか傷つくというありさまで、佐藤小隊長も戦死した。
 翌十月九日は早朝から中国軍を追って遊撃戦に移ったけれど、特に第二中隊は隊の形をなさなかったので、軍旗中隊として、師団司令部とともに正定に残ることになった。七名だけになった第三小隊は、正定城の中の民家に宿営することにした。
 七名は戦友を失った悲しみと、激しい戦いの後 の虚脱感で、十畳ほどの民家でぼんやりと過ごしていた。生き残ったことから言えば、幸せであっ たが、みなから取り残されたことを考えると寂しい気持ちになった。
 民家の中は土間で、小さい窓がひとつあるきりであったから、家の中は薄暗かった。中央には幅が一メートルとニメートルの高机があった。
 午後になり、この辺りでとれるというスイカをゴボウ剣で割って、岩塩を振りかけて食べた。食べ残しのスイカと、岩塩の固まりは高机の上に置かれたままであった。
 しばらくすると、外に出ていた七人のうちの一人である杉田一等兵が戻ってきた。小隊長の当番兵だった杉田一等兵は戻るなり、「部屋が臭い。猫でも死んでいるような臭いがする」と言い出し、高机の上にあった岩塩を部屋の四隅に撒き始めた。部屋にいた他の者たちは、杉田一等兵をみて、変なことをすると思いながらも、虚脱感から、特別それに対して何かを言う者などいなかった。杉田一等兵が岩塩を撒き終わると、部屋は再び静寂になった。
 その時、中隊本部の平尾軍曹が遠くから、「点呼」と叫ぶ声が聞こえてきた。
 虚脱感に襲われていた七名も、その声には素早く腰を上げ、民家の前の通りに整列しようと部屋知ら外へ出た。
 ほとんど同時に外に出て、民家の前数メートルに整列しようとした時、そこからさらに数メートル前に、昨日夕方、城壁上で心臓を打ち抜かれて死んだ佐藤小隊長が立っているのが見えた。
 それを見ると、七名は自分たちの髪が「サーツ」と音を立てて逆立つのを感じた。「小隊長」と呼ぶ者も、部屋に逃げ戻る者もいなかった。全員、体が激しく震えて、金縛りのように身動きがとれなかった。
 佐藤小隊長はおよそ三秒、七人の兵隊をみつめたまま、それからさっと消えた。あっという間であった。
 佐藤小隊長が消えると、金縛りから解けた七名は先を争って部屋に戻った。部屋の中までわずか二、三メートルを駆けただけで七名とも、全速力で走ったかのように激しい呼吸をして、高机にすがって喘いだ。
 しばらくして、ようやく一人が、「今の小隊長よな」と、言った。その言葉を、誰も否定はしなかった。しばらくすると、もう一人が、「確かに小隊長だ」と言った。それ以上誰も言う者はいなかった。
 不思議なことに七名とも佐藤小隊長の目を見ただけで、他にどこも見る余裕はなかった。手には何を持っていたのか、何を履いていたのか、誰も分からなかった。
 やがて、中隊の平尾軍曹が七名のいる民家の前まで来て、 「第三小隊は何をしているのか」 と怒鳴ったのであわてて七名は外に出て、整列した。
 佐藤小隊長が七名の前に現れたのは確かであった。佐藤小隊長は、小隊が次つぎにたおれ、その途中に自らもたおれたため、第三小隊はどうなったのか心配で見に来たのだと七名は考えた。
 都城連隊が最初に戦った戦場ではそんなことがあったのだ。
 兵隊は指揮官に命をあずけ、指揮官は死んでまでも部下を思う。第六師団が弱かろうはずはなかった。

めざす南京は五十キロ
 北支で三か月に戦ったあと、第六師団は塘沽まで戻って船に乗った。一体どこに行くのか分からなかった。けれど、船に乗っているうちそれが中支だと分かり、同じように北京に行っていた第五師団の国崎部隊と、十一月五日杭州湾に上陸した。
 都城の連隊は、杭州湾に上陸すると、松江まで行って、そこから第一、第二大隊が嵐山まで攻め、第三大隊が平望鎮を攻めた。杭州湾上陸は成功し、上海の中国軍は総崩れとなり、退却する中国軍は、主に二手に分かれた。一方が揚子江と並行に南京方面に逃げ、一方が太湖から蕪湖方面に向かって逃げた。
 嵐山まで攻めた第一、第二大隊は中国軍を捕捉殲滅することはできなかったため、反転することになった。
 嵐山に向かったのは都城の第一、第二大隊だけでなく、第六師団の主力であったから、反転することになった時、第一梯団と第二梯団に分かれた。第一梯団は第三十六旅団長の牛島満少将が指揮し、都城の第一、第二大隊と鹿児島の連隊からなっていた。そして第六師団司令部、熊本連隊、大分連隊が第二梯団となってその後を進むことになった。
 しばらくすると、第二梯団の大分と熊本の連隊では、コレラ患者が発生し、途中で嘉善に一週間ほどとどまったため、第一梯団からは百キロほど遅れることになった。
 鎌田一等兵たち第三大隊は、平望鎮を占領していたが、平望鎮は、上海を囲む要衝蘇州と嘉興を結ぶ重要な拠点であったため、第三大隊には第十軍司令官柳川中将から感状が授けられた。都城連隊は、北支の戦いでも香月第一軍司令官から感状を受けていたから、これで二度目で、第六師団の中でも特に目覚ましい働きをしていた。
 第一梯団はやがて平望鎮を通過し、太湖の南を迂回して進んだ。
 平望鎮を占領していた第三大隊は、第一、第二大隊が平望鎮を通過してしばらくしてから、第一梯団を追うことになった。平望鎮は、南京から二百数十キロも先の所にあったから、このとき鎌田一等兵たちは、南京などは考えもせず、中国兵を追撃する、という気持ちで出発した。
 そうやって進むうちに、第一梯団の先頭は、十一月三十日に下泗安まで進み、南京追撃の命令が出れば、そのまま一気に南京をめざす準備もできた。
 東京で南京攻略が正式に決まった十二月一日、第一梯団を追っていた鎌田一等兵たちの第三大隊は下泗安まで進み、先遣隊より丸一日の距離まで追いついた。
 十二月二日も鎌田一等兵の第三大隊は前を行く第一梯団を追い、下泗安から二十キロ先の広徳に向け、ひたすら歩いた。
 行軍中の休みは、突然やってくる。遠くから大休止、の声がかかると、兵隊は一斉に止まり、体を投げ出すように道路に腰を下ろした。一息つくと、空腹だったことに気がつき、すぐに、水、薪を探し始める。
 杭州湾に上陸した時、兵隊たちは地下足袋に履き変え、背のうに歩兵銃という姿で上陸したけれど、遠浅の杭州湾では野砲、車輛、馬などは揚陸できなかった。そのため、野砲や輜重部隊は埠頭のある上海に回ることになり、上陸部隊は最低限の弾や食糧しか持たなかった。そのためここでも食糧は徴発にたよることが多かった。
 第六師団は勇敢な兵士が多いと言われていたけれど、若者であることには変わりなかった。よく笑い、騒いで、失敗もやる。
 徴発のために、民家に入ったときのことである。飯倉を洗うのに手頃な桶があった。模様が描いてあって、きれいなものであったから、これで飯盒を洗った。
 ところがしばらくして、この桶は中国の女性が夜に便器として使うものだということがわかった。模様が描いてあるだけに、どの兵隊もそんなものだとは知らず、後で聞いてから、そのため飯がまずかったのだ、とわらって納得した。しかし、そんなことがかえって次の行軍の活力となった。
 第一梯団を追っていた第三大隊はついに十二月二日、広徳まで進んでいた第一、第二大隊に追いついた。広徳は城郭で囲まれた大きい町であったが、住民たちの多くは疎開していた。
 この日遅くなり、第一梯団にはあらたな命令が出された。六十キロ先の定埠を占領して、南京追撃を準備するようにとの命令であった。いよいよ第六師団も本格的に南京をめざすことになったのだ。
 もし鎌田一等兵が普通通りの徴兵で入隊していたなら、今ごろ故郷の西都で家業を手伝っていたはずである。南京攻略という名誉に出会うことはなかった。もちろん南京攻略戦に向かっている兵隊の中では、最も若い兵隊であった。
 このころ、南京方面に向かっていた他の師団はおおむね南京から百キロの線に達して、さらに進んでいたが、第六師団の第一梯団が進出していた地点は南京からまだ百五十キロもあった。一緒に杭州湾に上陸した部隊は、第六師団が嵐山に進んでいる間、まっすぐ太湖方面に進んだため、国崎部隊も第十八師団も第百十四師団も第六師団より数十キロ先を進んでいた。そのため、第一梯団では、命令が出ると軍用道路を離れ、最短距離を南京に向げて進むことになった。
 十二月三日、広徳を出発した。軍用道路をはずれると道は急に悪くなった。途中、部落を通過すると、中国人が「皇軍歓迎」と書いた旗を持って日本軍の行軍を不安そうに見ている。急いでいる兵隊たちは、小休止、の声がかからなければそれらを横目に見て進むだけであった。
 町を離れるとあたりは一面に広い平原になる。このあたりは第十八師団と、第五師団の国崎部隊が通過していたので、中国軍はどこにもいなかった。それでも午後になり、中国軍と戦っている第十八師団に追いつき、第一梯団も中国軍と戦うことになった。第一梯団は戦いながら進み、四日には向天山の近くまで進んだ。
 五日昼には、郎渓を通過、夜になると、さしあたっての目標である定埠まで進んだ。しかし他の師団は先を進んでいる。そこで第一梯団はさらに進むことになっていた。この晩は特別に厳しい冷え込みであった。
 前夜からの厳しい寒さの続く六日も、朝早くから出発し、この日だけで三十五キロも行軍し、深夜になり、溧水に到着した。連日、駆け足のような進軍であった。そのため、この日行軍が終わったとき、南京まであと五十キロの所まで進んでいた。
 しかし、同じコースを行く宇都宮の部隊は、すでに二日前に溧水に到着していた。そして都城の連隊たちが深水に到着した時にはさらに三十キロ先の秣陵関を攻め始めていた。秣陵関は南京まで二十キロの地点で、溧水から南京へ向かう街道の最初の中国陣地のある所だ。
 このため部隊は、二時間の大休止をとって食事をした後、睡眠もとらず再び出発することになった。二十数キロ後を進んでいた師団司令部も同じように二時間ほどの大休止で行軍を開始した。
 結局、七日の昼近くまで行軍を続け、禄口鎮まで進んだ。(つづく)

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