城壘01


丸MARU 1989年1月号 通算510号 連載第1回

将軍と兵士
 中国の首都南京が陥落したのは、あと半月で昭和十二年も終わろうとしていたときであった。そのころ、一国の首都が陥落するということはめずらしいことで、しかも、陥落は、攻略命令が出さ れてからわずか十二日間でのできごとであった。
 中支那方面軍司令官松井石根大将は、十二月十七日に南京に入城し、五日間南京にとどまった。
 この間、南京では、入城式と慰霊祭が行なわれ、松井軍司令官は二十二日に水雷艇で揚子江を下った。
 上海に戻った松井軍司令官は、南京を占領したこともあり、多忙をきわめた。上海にいるアメリカとフランスの艦隊司令官を訪れ、パネー号事件について陳謝し、上海の租界地について話し合う 一方、上海、南京一帯のこれからの行政について、大みそかまで中国の要人と話し合いを続けた。
 松井軍司令官の頭には、まず第一に、早く中国人による行政府を作り、民心を安定したものにしたいという思いがあった。
 大みそかまで話し合いを続けた後、昭和十三年の正月は軍司令官官邸でむかえた。天気は良く、上海では初日を拝むことができた。
 明治十一年生まれの松井軍司令官にとって、この年は還暦の年にあたっていた。南京が陥落し、中国との流れもいよいよ変わるような気配が見えていた。
 しかし、正月とはいえ、各地では作戦が展開されていたので、元旦に祝っただけで、いつもと変わらない軍司令部での生活が続いた。
 二日には、東京に派遣していた塚田攻中支那方面軍参謀長が戻ってきたのでその報告を受けた。松井大将は、すでに地方に逃げた蒋介石に代わり、新しい中国人による政権を作ることに意を注 いでいたが、それについて東京とは大きいずれがあった。
 三日からも東京から来る人々と会ったり、作戦の打ち合わせで忙しい日が続いた。
 上海は東京とほぼ同じ気温で、この年の正月は晴れの日が続いていた。
 松もとれたある日、松井軍司令官は軍司令部から一人で外に出た。
 軍司令官が外に出るときは、戦線視察や上海にいる各国の大使、軍司令官、新聞記者との会談などにかぎられ、それはいつも前もって決められている。それ以外に軍司令官が外に出ることは珍しいことであった。
 その日の軍司令官は特にこれという目的があった外出ではなく、しかも突然のものであったため、いつも同行する専属副官や参謀たちはもとより、護衛のための衛兵など、誰も同行するものが いなかった。衛兵たちの指揮官である衛兵長がたまたま松井軍司令官の外出を見つけ、急遽一人で軍司令官の後を従うことになった。
 軍司令部は上海の郊外にあり、回りはすぐ畑になる。松井軍司令官はその郊外に向かって歩いていった。あたりに人はほとんど見えない。
 しばらく歩いていくと、軍司令官ども知らずに一人の日本兵が軍司令官の前方を通りすぎて行った。日本兵は、寒かったためか、軍服の上に中国のチョッキを着ていた。
 それを見つけると、松井軍司令官は兵士を呼びとめ、「そのチョッキはどこから手に入れたか」 とたずねた。
 チョッキを着ていた兵士は突然の質問に驚いたようだったが、すぐに、これは中国人からもらったものだ、と答えた。
 すると、松井軍司令官は、「中国人の着ているものをもらうとはなにごとか。中国人の中には着るものにも困っている人がたくさんいる。もらったにしろ日本兵が着るとはもってのほかだ」 と叱った。
 決して大きくはないが、凛とした声に兵士は圧倒されてしまった。兵士は、郊外のこのような辺りを軍司令官が一人で歩いているとは思ってもみないだけに、相手が誰かわからなかったが、相当 偉い人だとはわかったらしく、うろたえてそれ以上何も言えなかった。
 それを見ると、軍司令官は、「わかったか。すぐに中国人に返しなさい」と、静かに言って、ふたたび郊外に向かって歩きだした。
 戦場にしろ、平時にしろ、陸軍大将が一兵士をつかまえて注意を与えるということは全く異様な出来事であった。階級が何段階にも分かれている軍の中で、大将が一兵士に注意を与えるというこ とはほとんどありえないことである。このとき、日本陸軍には松井大将のほか、現役の大将は、閑院宮参謀総長、植田謙吉関東軍司令官、寺内壽一北支那方面軍司令官、杉山元陸軍大臣、畑俊六教 育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官の六人しかいなかった。一兵士にとって大将はまさに雲の上の人である。

衛兵長ひとり
 松井軍司令官の後ろ十メートルをつかず離れず従っていた衛兵長は、この光景を見て驚き、あまりのことにわれを忘れていた。
 衛兵長の高木威勲大尉は、ニカ月ほど前まで千葉県習志野にある騎兵学校の教官をしていた。十一月、中支那方面軍司令部を警護する衛兵隊が編成されることになり、東京近郊の歩兵、砲兵、騎 兵の各連隊より優秀な兵士たち百二十名が選ばれてその任についた。二十七歳の高木大尉はその衛兵隊の隊長として指揮をとるように命ぜられて、上海に向かった。
 上海に着いて、高木大尉はただちに任務に従った。
 衛兵は交代で常に軍司令官を警護している。軍司令官が軍司令部を出るときには高木衛兵長が二十名ほどの部下を従えて必ず同行する。オートバイで先導する時もあれば、衛兵とともにトラック に乗って後を従うこともある。外出先に着くと、衛兵たちは入りロや外で護衛するけれど、高木衛兵長だけは軍司令官の見える場所まで行って待機する。それが一番の任務であった。
 こうして、十一月から二ヵ月以上仕えていたけれど、この間、松井軍司令官から何か問われることも、また、高木衛兵長から何かを申し上げるということもなかった。庶務的なことは専属副官の 角良晴少佐がすべてを行ない、作戦については塚田参謀長、武藤章参謀副長以下、参謀が相談にあずかる。だから常にそばにいるといっても、衛兵長が問われることも、申し上げることもない。松 井軍司令官はいつも静かで、おとなしい人のように見えた。
 その軍司令官が目の前で叱っている。しかも、二十万を越える中支那方面軍を叱咤するのではなく、一兵士の着ているものに注意を与えている。高木大尉がわれを忘れて見ていたのも当然であった。
 やがて高木衛兵長は気づき、自分が兵士の所まで行って、注意を与えるべきだと思ったが、そう思ったときには、軍司令官が歩きだしていた。
 高木大尉は、上海に来るまで、陸軍大将について、偉いとか、尊敬するとか、そういうことは考えてもみなかった。高木大尉にとって、大将とはそういう考えが浮かばないほど自分から離れた人 であった。それが突然、松井大将の衛兵長を命ぜられた。
 上海に来てみて、最初に驚いたことは、軍司令部には中国人がよく出入りしていることであった。それまで内地にいた高木大尉にとって、戦っている相手国の人間が軍司令部に出入りするのはどうしても理解できなかった。
 そのうち、松井軍司令官は、毎日数力国の新聞をとりよせて目を通しているということを知った。そのこともそれまでの自分の回りで起きたこととは相当違っていた。
 しばらくすると、軍司令部の参謀たちが、
 「軍司令官は日本より中国人の方がかわいくて仕方がないのだ」
 というのを聞いた。参謀には公平匡武中佐、中山寧人少佐などという錚々たる参謀がいたが、参謀たちの口調は、軍司令官を非難するといったようなものではなく、軍司令官の中国人に対する考 えには心から感嘆しているといった言い方であった。
 そんなことが重なるうち、高木大尉は、なぜ中国人が軍司令部に出入りするのか分かるような気がした。軍司令官は高木大尉が考えることのできないほど幅のある人らしいのだ。
 そしてそれらが分かるにつれて、軍司令官から何かが伝わって来るような気がして、いつの間にか心の中に軍司令官を尊敬する気持ちが生まれてきた。
 ふたたび松井大将の後を従った高木衛兵長は、このような今まで軍司令官について見たり聞いたりしてきたことが次々と目の前に浮かび、いつもはおとなしい大将がなぜ一兵士をあんなに叱った のか自分なりに分かった気がした。

随一の支那通
 その年、還暦をむかえた松井石根中支那方面軍司令官は、明治十一年七月二十七日、名古屋で生まれた。家は代々武将で、祖先には、今川義元の家来として織田信長と桶狭間で戦って死んだ松井 宗信や、御普請奉行として今の名古屋の町づくりをした松井武兵衛などがいる。
 このうち、松井武兵衛の名はいまも名古屋市内の中心地に、武平町と武平通として残っている。武平町は町名変更のため一区画しか残っていないが、そこには大きいビジネス・ビルが建ってお り、また、松井武兵衛が住んでいた所は栄公園になっている。
 士族の子として育った松井石根は、中央幼年学校から陸軍士官学校に入学し、明治三十一年、二番の成績で陸軍士官学校を卒業した。陸士第九期と呼ばれたこの期には特別に優秀な者がそろって いて、後に大将まで進む真崎甚三郎、本庄繁、阿部信行、荒木貞夫などの逸材がいた。これら教育総監、侍従武官長、総理大臣、陸軍大臣などをつとめるような人と比べても松井石根の力はすぐれていた。
 松井石根には二歳違いの弟がいたけれど、この七夫も士官学校を優等で卒業して、のちに中将まで進んでいる。
 明治三十四年に陸軍大学に入学したが、在学中に日露戦争がおこり、二十六歳の松井中尉は、最前線の指揮官である中隊長として出征し、日露戦争初期の遼陽の戦いで大腿部貫通銃創でたおれ た。日露戦争の後半は第二軍司令部で働いた。
 日露戦争が終わってふたたび大学に戻り、明治三十九年、首席で卒業した。
 陸大在学中から、松井石根は、同郷の士であり、アジアの復興を志しながらわかくして死んだ荒尾精を尊敬するようになった。
 アジア十億の民衆は長い間欧米の収奪と圧政にあい、数千年の古来の文化は欧米の覇道文化に侵食されていた。しかし、アジアは地理的、人種的だけでなく、文化的、政治的、経済的にも一個の運命共同体である。
 松井石根は、そう考え、やがて、自分の生涯のすべては、日中をふくめたアジアの自主自立に捧げよう、と心に決めた。そのため、陸軍大学卒業後は自ら中国駐在武官を志願し、陸軍大学の優等が派 遣されるフランスにも派遣されたけれど、自分の希望する中国にも度々派遣されるようになった。
 陸大卒業の翌年、松井大尉は中国に渡った。
 そのころは清の時代であった。日本とともにリーダーとなりアジアを興すべき清国は、精神、物質ともに欧米の侵食を受けていた。
 明治四十五年、辛亥革命がおきて清朝が倒れた。しかし、。権力者は、袁世凱や段祺瑞に代わっただけで、こんどは軍閥の争いが始まった。
 このころ、松井石根は国民党の指導者である孫文、胡漢民らと親しく交わり、孫文とは、アジアは運命共同体だとする大アジア主義で考えが一致した。
 その後、松井石根はウラジオ派遣軍参謀、ハルビン特務機関長、三十五旅団長を経て、大正十四年、陸軍の情報をつかさどる参謀本部第二部長の地位に就いた。このとき、第一部長に就いたのが同期の荒木貞夫である。
 同じ大正十四年、孫文が死んで、国民党は汪兆銘を中心にして孫文の遺志を継ぐことになったが、国民党による中国統一の道はまだ遠いものであった。
 やがて、アジア自主自立のためには、中国が統一されることが先決であると考えていた松井石根は、中国を統一するものは蒋介石であるとの見通しを持ち、そのため、かげになりひなたになり蒋 介石を助けるようにつとめた。
 第二部長時代の昭和三年、田中義一首相と蒋介石の会談の根回しをし、台湾軍司令官時代の昭和八年には、福建人民革命政府の蒋介石への帰順工作を行なった。
 松井石根は、軍人として、フランスに派遣されただけでなく、ジュネーブ軍縮会議に全権委員として派遣されもしたが、中国への関心がいつも頭の中にあり、陸軍では随一の支那通といわれていた。
 昭和八年三月、松井大将は、近衛文麿、広田弘毅などと大亜細亜協会を作った。
 大亜細亜協会はその前年の春、下中弥三郎、中谷武世などによって作られた汎アジア学会がもとになっている。汎アジア学会はアジアの問題を研究する団体であったが、これを知った松井は自ら入 会を希望し、あるとき事務所を訪れた。しかし、松井が軍人だということから入会は断わられた。
 いったんは断わられたが、松井の強い希望で、改めて、陸軍の代表としてではなく、松井個人として入会が認められた。
 汎アジア学会に入った松井は、この団体を単に学究的なものではなく、国家に影響力のある大きいものにしようと提案し、自ら近衛文麿などに働きかけた。

運命の皮肉
 昭和七年暮、大きい組織にするための創立準備会が開かれ、松井はその会合の座長を務めた。このとき、これからの運動は日本と中国が中心になるべきなので、孫文が提案した大アジア主義にち なんで、新しい会の名前を大亜細亜協会えすることに決めた。
 こうして、大亜細亜協会が発足したけれど、その創立総会には、当時人気絶頂の荒木貞夫陸軍大臣が出席して挨拶し、満場をわかせた。荒木陸軍大臣の出席も松井のつながりからであった。
 大亜細亜協会の考えは、アジア諸国が反目することは欧米の干渉を許すことになり、それはアジアの不幸だけでなく、世界平和の障害となる、そのためアジアはお互いが理解しあって、連合体と なり、そして世界平和に貢献すべきである、というものであった。
 このため、松井石根は自らアジア各地をまわり、大亜細亜主義を説き、各地に大亜細亜協会を作るように努力した。
 台湾軍司令官を一年つとめた後、松井大将は昭和九年八月からは軍事参議官をつとめたが、昭和十年八月十二日、永田鉄山軍務局長斬殺事件がおきると、責任を感じて、その月の三十日には自ら 予備役願いを提出し現役を退いた。
 名古屋生まれの松井石根は、陸軍主流の長州閥でも、それに対立する九州閥でもなかった、中国通では松井石根の先輩にあたる宇都宮太郎大将が九州閥であり、松井石根の同期生にはその流れを くむ荒木貞夫、真崎甚三郎がいたが、派閥というのに関心がなかった。松井石根は、軍の下剋上の雰囲気をきらい、自らは毅然とした態度をとり、そのため軍務局長斬殺事件がおきると、決然、軍 事参議官の職を退くことにしたものであった。  予備役になってからも松井の中国に対する関心は変わらず、昭和十年から昭和十一年にかけて北支那から南支那まで回り、広東に拠って蒋介石に対立している李宗仁、白崇禧の両広派とも会った 上、南京で蒋介石と会談した。ここでも松井は大亜細亜主義を説き、中国が分裂している弊害とソ連と結ぶ愚を説いた。
 しかし、大亜細亜協会の努力が実らないままに、日中の現実は松井石根の考えているものとは少しずつかけ離れたものになっていった。
 それは、中国が長年の間、欧米の思想に侵され、彼らの手先になって日本に対立するようになっているからだ、と松井大将は考えた。
 そして松井石根が大アジア主義のため、南京で蒋介石と会談してからわずか一年半後の昭和十二年八月、上海事変が勃発した。松井石根は上海派遣軍司令官に任命され、自ら助けてきた蒋介石と 戦うことになった。そのときの気持ちを松井大将は後にほぼ次のように記している。
  三十年間、支那と親睦を図り、相互の融和提携を祈念し、その信念は一日として変わらなかったが、自ら軍を率いて支那に向かうに至ったのは真に皮肉の因縁である。
 このように書いていた松井大将は、この戦いを、中国が憎いからではなく、かわいさ余って、反省を促すものであり、この戦いは日中両国民の怨恨となることなく、かえって今後の親善提携の基になることを願った。
 そのために、上海で中国軍と戦っているときも、このことを部下に徹底させ、また中国官民を宣撫愛護するようたびたび訓示した。
 松井石根をよく知る者は、しばしば、松井は日本人より中国人を愛している、という言い方をしたが、それは、中国は日本とともにアジアの中心にならねばならぬと考えているから自然そのような考えになるのだと理解していた。
 日本軍はこうした軍司令官をいだいて、上海に、南京に戦うことになった。(つづく)

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