城壘02


丸MARU 1989年2月号 通算511号 連載第2回
石原"参謀総長"
 松井石根大将が蒋介石と戦うようになったきっかけの蘆溝橋事件は、昭和十二年七月七日、七夕の夜に起きた。
 北京と天津にいた日本人は一万二千人で、これを守っているのは田代皖一郎中将を軍司令官とした五千人の支那駐屯軍である。この回りには四十万ほどの中国地方軍がいた。
 北京郊外で起きたこの事件は、簡単に解決するかに見えたが、小競り合いはおきてはおさまり、それを何度か繰り返していた。
 このとき、東京では、日本陸軍がソ連に対する防衛の準備に追われていた。
 陸軍の新しい国策は、ソ連を仮想敵国としていたが、その時の日本陸軍の兵力は、列強諸国の中では最も少なく、ソ連や中国の兵力数と北べると六分の一以下であった。ソ連に備えるためには、まず早急に鉄鋼、石炭、電力などの産業を拡充して国力を増強しなくてはならず、この年からまず満州で「重要産業五ヵ年計画」がスタートした。遅れて日本でも二ヵ月前に「重要産業五ヵ年計画要綱」が決定され、これから乗り出そうとしていたところである。
 参謀総長は閑院宮載仁親王であったため、実際は参謀次長がその役を果たしていた。しかし、事件勃発のとき、今井清参謀次長は病気で伏せっており、その任務は第一(作戦)部長の石原莞爾少将が代行していた。つまり、石原部長が事実上の参謀総長ということになる。
 石原部長は昭和十年八月の人事異動で参謀本部に来て以来、参謀本部第一部の機構を変え、宇垣首班を阻止し、すぐれた実行力をみせた。それらはすべて新しい国策のための布石であった。
 このような布石をしてきた石原部長の国策理念は、アジアを白人から解放して、日中親善を作り上げることであったから、いうまでもなく中国と事を荒立てる気持ちは全くなかった。
 しかし、それまでの一年の間だけでも、中国各地では、日本人に対しての数々のテロが頻発していた。さらに、親日中国人の暗殺もおきていた。そういうことから、中国には、蘆溝橋での衝突が紛争拡大を呼ぶ下地は十分にできていた。
 このような中国に対し、中国との友好が日本の国策ではあったけれど、なにかが起きたら中国軍をたたくべきだとする機会主義者が日本にも少なからずいた。
 当初、現地部隊は早急に解決することをめざし、中央の不拡大方針も現地に指令されていた。
 しかし、小競り合いが繰り返されているうちに、参謀本部には、徐州近くにいる中国の中央軍四個師団が北上準備中との情報が入った。もし中央軍がそのまま北上すれば支那駐屯軍と在留邦人が非常に危うくなる。軍人である石原部長にとって、この危機感を無視することはできなかったのであろう。
 そのため、中国軍とことを荒立ててはならぬと思いながちも、七月十日、ほぼ五個師団の派兵を決定した。
 派兵を決定しながら、石原部長は翌日の正式決定の閣議の前になり、近衛首相に五個師団の派遣を閣議で否決してくれるように申し入れた。
 石原部長をよく知る人は、彼は、強烈で堅い意志を持っていたという。その石原部長が自分で決裁したものを翌日には否決するよう工作した。それは派兵が国策を根本的に覆すものであったからで、石原部長にとって、その決断がどれだけ揺れ動き、どれだけの苦悩だったのか想像にあまりある。
 閣議は予定通り五個師団の派兵を決定したが、さしあたり満州と朝鮮の二個師団だけで、内地の三個師団の動員は一時延期された。
 ところがこの派兵決定を聞いて、国民政府は本格的に中央軍を北京方面に進め、さらに七月十七日には蒋介石の最後の関頭声明が行われた。
 七月二十五日には、北支で日中が本格的に衝突した。
 日本は二十七日に延期していた内地の三個師団の派兵を決めざるをえなかった。
 蘆溝橋事件の知らせは直ちに中国各地に伝えられた。北支と違って中支では揚子江を利用して日本人が奥地まで進出していた。一番の奥地は上海から千五百キロメートルも入った重慶であった。この距離は青森から下関にあたっている。
 重慶では二十九人の日本人が商売をしており、租界地があり、領事館もあった。そのため、砲艦比良が警護にあたっていた。
 蘆溝橋の衝突が重慶に伝わると、市内にはアジビラがまかれ、比良が投錨している対岸の山々にはつぎつぎ機銃陣地が構築された。あっという間に重慶の町は険悪な雰囲気になった。
 このような急変は重慶だけにかぎらず、日本人のいる都市ではすべてそうであった。そのため、漢口より上流の重慶。宜昌、沙市、長沙などにいる日本人は漢ロに引き揚げ、漢口より下流の日本人は上海に引き揚げることが急遽決められた。
 八月一日、重慶の日本人たちは財産をそのままにして全貝宜陽丸に乗り漢口に向かった。このとき、誰もが二、三ヵ月も漢ロにいれば再び重慶に戻れると思っていた。
 ところが漢ロに着いてみると、そこは重慶の比ではなく、全員は再び船に乗り上海に向かわざるを得なかった。
 漢口に着いた日本人はすぐさま漢ロを離れて、外交官を乗せた最後の岳陽丸は八月十一日に漢口を出発した。岳陽丸は途中南京によって、ここにいた日本人を乗せて上海に向かった。
 岳陽丸が江陰まで下って、上海まであと半日となった時、突然、中国軍艦に停船を命じられた。
 岳陽丸は中国側の言うままに、十三日夕方には再び南京に戻らざるをえなかった。
 江陰から戻った岳陽丸の一団と南京に残っていた大使館関係者など数十名は、中国の内陸部にぼつんと取り残されてしまうことになった。数十名を守る軍隊はいなかった。
 そこで彼らは南京にある国民政府外交部と交渉し、その結果、陸路北上して、済南経由で青島に向かうことになった。
 八月十六日、一行は午前と午後の二手に分かれて出発した。真夏ではあったけれど、列車の窓を閉め切った上、黒いカーテンで覆い、決死の覚悟であった。
 中国人に見つかれば全員殺されるかもしれないという危機感が列車をおおった脱出であったけれど、幸運にも、十六日夕と十七日朝、全貝無事に青島に着くことができた。

上海攻防戦
 一方、上海は、上流から引き揚げて来た日本人と、もともと上海にいた日本人を合わせて二万二千名にふくれあかっていた。この人達を二千八百人の海軍陸戦隊が守っていたが、八月九日、陸戦隊の大山勇夫中尉らが射殺されるという事件が起こり、上海も安全な場所ではなくなってきた。
 そのため、海軍は、八月十一日に千二百人の陸戦隊を上海に送った。しかし、中国の中央軍三万は日本人居留地を取り囲み、数千の海軍陸戦隊だけでは守ることができなくなった。
 ここにいたって海軍は陸軍の出兵を要請した。
 石原第一部長は蘆溝橋事件が起きたとき、万事やむをえず北支に派兵したが、再びそれが中支でも起きようとしていた。
 八月十三日、上海に対しても陸軍派兵の閣議決定が行われた。ちょうどそのとき、上海では、中国軍が陸戦隊を機銃射撃し、日中間で全面的に争いが始まった。
 このため上海の日本人は一斉に引き揚げることになり、婦女子を中心に十五日から二十二日までの間に引き揚げた者は一万四千三百人に及んだ。
 閣議決定をうけ、十五日には第三師団と第十一師団からなる上海派遣軍の編組が発令され、上海派遣軍司令官に松井石根大将が親補された。
 松井大将はこの知らせを富士山の麓の芦ノ湖畔の別荘で聞き、ただちに上京して宮中で勅令を受けた。
 上海派遣軍が編組されたのはこれが二度目である五年前、満州事変が起きた翌年、上海が不穏になり、三万人の居留民の安否が気づかわれ、三個師団強からなる上海派遣軍が編組されたことがある。このときは二月一日、まず一個師団強が上陸して戦い、一ヵ月後の三月一日、さらに二個師団が上陸した。中国軍との戦いはそれから三日で勝負がついた。
 しかし、それから五年の間で中国軍はすっかり変わっていた。
 蒋介石は国民党の実権を握ってからドイツ陸軍軍事顧問団を招いていたが、ドイツ陸軍にとって、第一次世界大戦で敗れて軍備を極度に制限されていたこともあり、招聘は願ってもないことであった。そのため、第一次世界大戦後にドイツ陸軍司令官をつとめ、敗戦直後のドイツで最も権限を握っていたフォン・ゼークトやファルヶンハウゼンといった一流の将軍を送っていた。
 ドイツ軍事顧問団は第一次上海事変の教訓から、上海市街をとりまく郊外に何重にもトーチカを築くことを指導した。上海は網の目のようにクリークが走っており、守る側にとって有利な地形である。中国軍は、このクリークを利用してトーチカを築き、塹壕を掘り、もし日本軍が攻めて来ても、持ちこたえられるようにした。ドイツは長年フランスと国境を接して対決し、ジークフリートーラインで知られるように陣地構築が得意だったから、ドイツ軍の指揮で作った上海の陣地も堅固なもので、これらの防御線はブォンーゼークト将軍の名前を取ってゼークトーラインと呼ばれていた。
 この他に、ドイツ軍事顧問団は、日本に対する敵愾心を持つことが中国軍の質を高めることだとしてその教育をし、それとともに蒋介石直系の軍にドイツ式訓練をほどこした。
 松井上海派遣軍司令官は、かつて国民党の中で軍事力を背景に成長した蒋介石に期待をかけていただけに中国軍の実力をよく知っており、中国軍が五年前の中国軍とは違っていることも認識していた。
 また、第一次上海事変では、蒋介石が剿共に主力をおいて日本軍に対しては精鋭を投入していなかったけれど、一年前におきた西安事件を境に国民党と中国共産党は手を握り、蒋介石は日本軍に直系軍をあてる覚悟でいた。
 こういう中で松井大将の率いる派遣軍は、二個師団という、少数ではないが、かといって中国軍と戦うにはあまりにも少ない軍を率いて上陸をすることになった。
 最初増員した海軍陸戦隊が上陸した八月十二日の段階で、上海にいた日本車は約四千であったが、中国軍は約三万が陸戦隊を囲んでいた。
 八月二十日ころに日本軍は約六千三百人になったけれど、中国軍は約七万に増えていた。
 八月二十三日、上海派遣軍はいよいよ第三師団が呉淞に、第十一師団が川沙ロに上陸し始めた。予想通り激しい戦いになった。特に第三師団の敵前上陸は熾烈で、上陸船の舷側から首を出すとともに戦死者が出る状態であった。このころ中国軍は一日一個師団以上の割合で戦線に投入していた。
 日本軍は九月七日過ぎまで、両師団で四万人近くが上陸したけれど、そのころ中国軍は十九万にふくれあがり、さらに後方には二十七万から二十八万の軍がひかえていた。
 上海派遣軍は上陸したものの、第三師団は上陸点から二、三キロ、第十一師団も五、六キロ進んだきりで、軍司令部も設置できない状況であった。松井軍司令官は上海沖で待機していた。
 軍の作戦上、攻撃する軍は守備する軍の三倍は必要といわれている。一方、日本軍は一個師団で中国軍の三個師団に匹敵する力を持っているといわれていた。このことは単純にいえば、上海を攻略するには中国軍と同程度の兵力が必要だということになる。しかし、中国軍は常に日本軍の五倍から十倍の兵力を維持していた。
 ようやく軍の中央部も二個師団だけでは足りないことに気がついた。このため参謀本部は第九師団、台湾の重藤支隊のほか、特設師団である第十三師団、第百一師団を派遣することに決め、これらの部隊は九月十八日から十月上旬にかけて上海に上陸した。
 石原部長の不拡大方針は、北支、中支と派遣が続いた上、さらにこれら三個師団強の増派で完全に破綻した。策定した国策は無意味なものになりつつあった。このため、自ら転出を希望し、多田駿参謀次長の要請をけって、九月二十七日には関東軍参謀副長として都落ちすることになった。
 十月上旬までに日本軍は七万近くの兵力を上陸させ、合計十一万ほどになったが、中国はそれ以上のペースで戦力を投入し、このころには七十万ほどに達していた。
 上海のクリークでは激しい戦闘が繰り返され、日本軍の戦死者の数はうなぎのぼりのように増えていた。
 富山日報の従軍記者として、郷土の第九師団についていった長崎正間は、そのころ第九師団司令部で前線視察に来た松井軍司令官を見た。連日降り続く雨で、師団司令部の回りの道路は泥濘と化していた。その中を松井軍司令官が到着した。降りしきる雨が軍司令官のマントを濡らし、戦局が軍司令官の顔を青ざめたものにしていた。軍司令官という勇ましいイメージとは似ても似つかぬその横顔を見て、長崎正間は深い衝撃を受けた。
 このため参謀本部は、あらたに第十軍を編成して杭州湾に上陸させ、上海の中国軍を背後から衝く作戦を立案した。
 そうは決めても参謀本部の参謀たちの頭にはソ連軍の脅威があり、国内の常設師団はこれ以上出せない。このため、北支で戦っていた第六師団と、第五師団の国崎支隊を持ってくることにして、さらに国内からは特設の第十八師団と第百十四師団をあてることにした。また、杭州湾だけでなく、揚子江上流の白卯江にも北支で戦っていた第十六師団などを上陸させることにした。
 第十軍は十月十二日動員になり、柳川平助中将が軍司令官に親補され、参謀長には田辺盛武少将が就任した。編成にあたり、多田参謀次長は田辺参謀長に、軍紀を厳正にするようにとの注意を与えた。この意向を受けて、柳川軍司令官は十月十五日、隷下部隊に、軍紀を厳守するように命令するとともに、支那住民に対する注意として、上海方面では老人、女、子供も間諜をつとめ、単独の日本兵に危害を加えることがあるので注意が必要であり、もしその場合はいささかも仮借することなく断固たる処置を取るべしとの命令を出している。
 第十軍の上陸とともに、第十軍と上海派遣軍の上に中支那方面軍が設けられ、上海派遣軍司令官の松井大将が中支那方面軍の軍司令官も兼ねた。
 十一月五日、第十軍は杭州湾に上陸し、上陸作戦はみごとに成功した。上陸直前、上海派遣軍が大場鎮から蘇州河に向かっていたため、杭州湾上陸の知らせに上海の中国軍は動揺をきたし、一挙に崩れた。
 第十軍が上陸した四日後の十一月九日、日本軍はようやく上海を手中に収めた。

南京攻略命令下る
 結局、上海制覇のために投入した兵力は上海派遣軍が六個師団強、第十軍が三個師団強で、合計九個師団強であった。
 上海上陸以来三ヵ月近くもかかり、戦死者はその後の戦病者も入れると一万五千人を越えた。日露戦争の戦死者八万数千人を別にしても。日清戦争の一万人、シベリア出兵一千人、満州事変一千人、第一次上海事変三千人と比べれば、上海攻略戦がどれほど多い戦死者であったかがわかる。
 この甚大の死傷に対して松井軍司令官以下、上海派遣軍司令部は沈滞していた。
 十一月上旬、中支那派遣方面軍参謀副長武藤章大佐が上海派遣軍司令部に行ったとき、松井軍司令官以下は甚だ不機嫌でとりつくしまもない始末であった。また十一月十八日、参謀本部の河辺虎四郎作戦課長が訪れた際、飯沼守参謀長、上村利道参謀副長などは来意を告げてもほとんど見向きもしない状況であったという。
 しかも、上海を手中にしたものの、第一次上海事変のときと違って停戦のきざしは見えなかった。日本からは和平条件が提示されたが、ブリュツセル会議をあてこんだ蒋介石からの返事はなかった。
 このような中で、杭州湾に上陸した第十軍は、すでに上陸直前、中国軍が後退しつつあるのを知って、単に背後を衝くだけでなく、太湖から常州に向かい中国軍を捕捉殲滅すべきだと上海派遣軍と参謀本部に意見具申をしていた。
 この第十軍の意見具申には軍司令官柳川中将の意向が大いに反映されていた。
 上海、南京、杭州の三点を結ぶ三角形は、揚子江が何千年かの間に作り上げた肥沃の土地で、米、麦、綿など多くの農作物がどれ、中国の経済の中心地をなしていた。柳川軍司令官は、一気にここを押さえ、その代わり、これ以上は進出しない、そこで外交的にこの紛争を解決する、という考えだった。この中国軍を捕捉殲滅するといった考えは戦術的には正しいものであった。
 しかし、もともと参謀本部は、上海派遣軍の目的を上海における中国軍の掃討と考えて、南京まで攻める考えは持っていなかった。上海事変勃発からIヵ月ほどした九月には早くも和平工作に動きだし、石原部長の命令で第二部員馬奈木敬信中佐が上海に向かっている。中島参謀次長の後任である多田駿中将も上海から一歩も出る考えはなかった。
 第十軍の意見具申に対し、参謀本部からは十一月七日、作戦の制令線は蘇州~嘉興の線までと返事があった。参謀本部の考えは、上海を確保することに変わりはなかった。
 それでも、第十軍は十一月十九日に制令線の嘉興まで進んで再び南京追撃を具申した。
 積極的な第十軍に比べ、上海派遣軍は、退却した中国軍を討つため、上海より六十キロの蘇州まで攻める考えを持っており、中支那方面軍はさらにその三十キロ先の無錫まで攻めるのが得策だと考えでいた。
 しかし、第九師団が簡単に蘇州を占領するとともに、中国軍が南京方面を根拠地としつつあることを知った中支那方面軍は、南京追撃の意見に変わり、十一月二十二日には「事変をすみやかに解決するため南京を攻略すべし」との電報を参謀本部に打った。
 参謀本部は二十四日、とりあえず蘇州~嘉興までという制令線を廃止した。
 このような状況で、もともと南京攻略の考えを持っていた下村定参謀本部第一部長以下、参謀本部の大方は南京攻略の考えに傾き、月末には、それまで強硬に反対していた多田参謀次長もついにこれを認めた。
 十二月一日、南京攻略が決まった。
 ただちに多田参謀次長は上海の大場鎮南方の助産教育学校に設けられている中支那方面軍可令部に向かい、松井軍司令官に南京攻略命令を伝達した。
 この時、上海派遣軍では、第十三師団が江陰を攻略中、第十六師団は常州から丹陽に向かっており、第九師団が常州から金壇に向かっていた。
 第十軍では、第百十四師団が溧陽攻撃に向かって、国崎支隊、第十八師団、第六師団は広徳に進みつつあった。
 こうして中支那方面軍の半数が南京に向かうことになった。約十二万の大軍であった。(つづく)

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