日中戦争資料集9南京事件Ⅱ/洞富雄/河出書房新社/1973年より 前半部分日本語訳



南京地区における戦争被害

1937年12月 - 1938年3月

都市および農村調査

ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学社会学教授)と助手による

南京国際救済委員会を代表して1938年作製


    ま え が き

 南京国際救済委員会は南京地区の難民の援助に努めてきたが、その間、難民の経済状態の真相を相当正確に知る必要があると早くから感じていた。難民の被害の程度と性質はどんなものであったか? 生計をたてる機会と能力はどの程度そこなわれたのであろうか? 当地域の農家からどのような食糧の供給を予想できるであろうか? 農村および都市部において経済の正常化を阻む主要な欠陥あるいは障害はどんなものか?こうした疑問は救済対策や方法をおよそ徹底的に考慮する場合に基本となるものであった。これらの疑問に答えるよい方法はただ一つ、現場に行って事実を調べることであった。

 南京国際救済委員会はここに調査の結果を公表するのであるが.これは第一に当地区その他で救援事業にたずさわっている関係者への情報提供を目的としている。なお、これはどの国のことであれ戦争が住民にもたらす惨害に関心を寄せており、また寄せるであろう一般大衆のためのものである。われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」などの言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭においている。

 しかし、国際委員会の知るところでは、中国側は声明を発表し、そのなかで南京地区住民の被害について日本側にたいしてのみ大げさな非難をあびせている。また日本側も声明を発表して、中国側が放火・略奪をおこなったのを日本側が善意から阻止したといっている。以下の報告が両者に悪用されるのを防ぐために、調査で記録された被害の原因について簡単に事実を述べておくことが必要と思われる。

 南京の城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切なものであったかなかったかはわれわれの決定しうることではない。市の東南の道路にそっておこなわれた軍事行動と4日間にわたった南京市に対する控え目ではあるが容赦のない攻撃による住民の生命および財産の損害は、きわめて少なかった。事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から1週間すぎて12月19日から2月初めまで)。調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない。1月初旬以来、中国人市民による略奪と強盗がはじまり徐々にひろがった。その後、とくに3月以降は燃料争奪戦のために空家とたっていた建物の骨組みに大きな被害が出た。また、後には農村部において深刻な盗賊行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれをしのぐほどになっている。この報告の一部にはこうした原因の諸要素も見られるのである。

 われわれは人道主義の立場から敢えて指摘するのであるが、実際の戦闘行為から生じた生命および財産の損失は、この調査では全体の1、2%だということである。その他については、もし双方が、憲兵と警察による適当な保護をも含めて、一般市民の福祉を十分考慮することを望んだならば阻止できたものである。

 以下の調査を実施した国際委員会のメンバーのなかには、社会学の専門家である金陵大学社会学教授ルイス・S・C・スミス博士(Dr. Lewis S.C.Smythe) が入っているが、博士は調査の方法について全般的な経験をもつばかりでなく、この地域の惨害についてこれ以前にも二次にわたる調査に責任者として参加したのである。それは金陵大学農学部農業経済学科が全国水害救援委員会のためにおこなった経済調査(その報告は『中国における1931年の水害」〔The 1931 Flood in China]という表題で委員長のJ・ロッシング・バック教授〔J,Lossing Buck]によって発表された)と上海事変(1932)による農村部の被害調査で、財務部の依頼をうけて同じく農業経済学科がおこなったもの(未公刊)である。これら二つの調査は、地元官吏のはっきりしない、何らかの意図をもった報告にたいして、現実に何が必要とされているかをあきらかにすることを目的としていた。以下に発表する調査の完成については、スミス博士が国際委員会の会計係と書記を兼任していて十分に時間を割くことができなかったとしても、博士の比類のない手腕と精力に負うところが大きい。上にあげた二つの調査については全面的に感謝するものである。方法上の諸点、および結果の点検と比較について、これらの調査の助けをかりるところが多かったからである。またバック教授の指導のもとに最近完成して、『中国における土地利用』(Land Utilization in China)という著書へ地図および統計表付)に報告されている広汎な調査にも感謝したい。

    M・S・ベイツ

目   次

ま え が き

序言 調査の実施と方法

1 市部調査

I 人 口
2 戦争行為による死傷
3 雇用と収入
4 南京に残留している家族の損害
5 建物および収蔵財産の損害総額

2 農業調査
1 農地の被害
2 冬作作物と春蒔き
3 戦争と農民
4 戦争の影響=市部と農村の比較

3 調査の結果、その救済物資および救済計画との関係

4 附 録
A 調査の機構と方法にかんする覚書再記
B 家族ぐるみの移動、その居住者人口・移動・損害・労働力補給・死亡の報告にたいする影響の可能性
C 調査表

5 表

6 地 図
1 南京調査図
2 寧属区域農業調査地図

表のリスト
 1 調査家族と推定人口(市部地区別)
 2 調査人口の年齢別・性別分布
 3 家族構成(市部地区別)
 4 日付別による死傷者数および死傷原因
 5 軍隊の暴行による死傷者および拉致されたものの性別・年齢別分布
 6 以前の雇用および収入の職業別分布
 7 現在の雇用および収入の職業別・市部地区別分布
 8 調査前週の穀物入手経路市部地区別分布
 9 南京に残留した家族の建物および動産の損害とその原因


10 南京に残留した家族(元住所にとどまったもの)の建物および動産の損害の建物用途別・被害原因別・市部地区別分布
11 破壊あるいは略奪された建物の用途別・被害原因別・市部地区別分布
12 建物および収蔵財産の損害の市部地区別分布
13 建物および収蔵財産の損害の項目別・被害原因別分布
14 建物および収蔵財産の破壊・略奪による損害の建物用途別・被害原因別・市部地区別分有
15 主要実業街で破壊・略奪された建物の数の被害原因別分布
16 主要実業街の建物および収蔵財産の破壊・略奪による損害の被害原因別分布
17 寧属地区5県の人口および耕地面積
18 農業上の損害額
19 1戸あたり平均損害
20 農家の損害の項目別分布
21 冬作収穫推定量
22 春蒔作物用として必要とされる種子の総量
23 移動および労働力の供給
24 死亡者性別・年齢別比率
25 死亡者数および死因
26 建物の損害
27 役畜の損害
28 農具の損害
29 貯蔵穀物の損害
30 冬作作物を作付した面積
31 冬作作物を作付したうち完全に破壊された面積の比率
32 冬作作物を作付した面積のうち完全に破壊されてはいなかったものの予想平年作収穫率


序言 調査の実施と方法

* この序言は、調査がどのように実施されたかを一般読者に知らせるために書かれている。技術上のことに興味をもつ人は、附録Aの「調査の機構と方法にかんする覚書再記」を参照。

 国際委員会の調査は、たがいに複合してはいるが、実際には二部に分かれる。市部調査は主として南京市住民の家族を対象とする調査であって、それに入居中ならびに空家の全建物の調査を加え、さらにまた市内3、4ヵ所の地区に散在する市場向け野菜栽培者に食糧生産者として特に注意を払っている。農業調査は主として固有農家を対象とする調査であり、それに附録Bに記されている農村調査と、市場町における主要物価の作表を加えたものである。

1 実地調査の手続き

 南京の市部調査においては、’家族調査員は入居中の家屋50戸に1戸の全家族(every family in every 50th inhabited house)を家族調査表に記入するように指示をうけた。「家屋」(House)は、若干の場合には1番号に数軒のアパートや建物(building)があったけれども、「家屋番号」(house number)に従うものと定められた。3月には多くの出入口が封鎖され、どの家に人が住んでいるのか知るのは少しばかり困難であった。その結果、若干の家を見過してしまったかも知れない。脱落した地域を点検するのに対照地図が役に立った。各人は地図上で特定の地区を割当てられ、各自50戸ずつ人の住んでいる家を抽出して、住宅番号を数えてはそれに記入してうめてゆく。調査員は委員会の評判が良かったために親切に迎えられたが、調査員は、ただ事実を質問するために来たこと、委員会の通常業務の仕事を目的とする家族救済調査員として来だのではないことを注意深く説明した。これら両者の活動に参加した人びとのきわめてはっきりした考えでは、家庭調査の方が救済調査の場合よりもはるかに損失報告の誇張が少ないということだった。

 市部調査における建物調充員には2つの仕事があった。すなわち
(1)市内の各建物(building)を数えて、軍事行動・放火・略奪による被害をうけているかどうかを記述する。
(2)10棟に1棟の割合で(on every 10th building)損害の見積りをおこなう。
この目的のために1家屋番号が1棟と見なされたが、それは若干の場合には1つ以上の建物(structure)を含んでいた。熟練した建築技師が並型の建物(construction)にそれぞれ単位コストを割出したので、正確な見積りをおこなうのが非常に容易となった。さらに.2人1組になった調査負のうち1人は土木の方を受けもった。現在居住者のない建物(building)の家財の損害見積りは、その建物の性質および近所の人々にたいする質問にもとづいておこなわれるべきであるとされた。対照地図によって見落した地域が位置づけられ、そこは入念に再調査された。

 家族調査・建物調査の双方とも城内全域をカバーし、城門のすぐ外側にある若干の地域をも含めた。しかし、浦口その他の周辺小都市を含む旧南京地区全体を調査したわけではない。日本軍人および一般日本人の住む特定の小地域と点在する個人住宅のみが調査の対象外とされた。

 農業調査においては、3つの団体の通行証をもった2人の調査負が、6つの県へそれぞれ派遣された。調査員は主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。この一巡のさいに道筋にある村3つから1つをえらんで村落調査表を作製し、それらの村で帰村している農家のうち10家族に1家族を選んで農家調査表に記入することにした。市場町の物価表については、通過する市場町すべてで質問の回答を記入することになった。

     2 調査期間

 農業調査の実地の作業は3月8日から23日までおこなわれた。都市調査については、家族調査は3月9日から4月2日にわたっておこなわれ、4月19日から23日まで補足作業がおこなわれた。建物調査は3月15日から6月15日までおこなわれた。建物調査は長期にわたるものであるが.その間、損失の内容にはほとんど変化はなかった。しかし、若干の場合には建材の一部が盗まれることもあった。この期間中の再建は事実上、皆無であった。

     3 調査の集計

 調査員の訓練と図表作製作業の監督の点では、幸いなことに農業経済に通じた経験者を監督者として迎えることができた。その上、バック教授の図表作製部で以前働いていた数人の人もきて作業を手伝った。報告の作製と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学のM・S・ベイツ博士(Dr.M.S.Bates)の貴重な協力をえた。博士の経済史および中国の現状についての該博な知識は.調査統計の成果をいっそうあきらかにするものであった。

 農業調査・家族調査は、双方とも、全体の計算をおこなうことはせず、抽出サンプルにもとづくものであった。したがって、総計と総平均は調査した事例から知りえた結果にもとづく推定数である。しかし、当該箇所で説明するように、六合県の場合の籾を除いては、図表のよりどころとなっている推定数のデータは調査員の報告のままにしてある。
 バック教授が著書『中国における土地利用」(Land Utilization in China)でおこなっているように、農業調査においては、農家1戸当り平均を県単位で算出し、それを各県の農家の総数に乗じてある。総数は県総数の集計によってえられ、総平均はこうした総計から計算したもので、各県における農家数の比率に応じて算定されている。村落調査簿が全体の状況を広くつかむために使用されてはいたが、計算はすべて農家調査表にもとづくものである(附録Bを見よ)。

 市部調査のなかでも家族調査における総計は、入居中の家(house)50戸につき1戸の割合で調査してえられた各戸平均の結果を50倍して算定した。また建物調査における損害計算は10棟に1棟の割合で調査したものの総計を10倍して算定した。印刷した図表のなかで、小数点以下の端数は、読者の便をはかって、できるだけ切り捨ててある。総計は100単位であげてある。

     4 度量衡と貨幣の単位

 穀物と野菜の計量単位は「10担(シータン)」で、100「10斤(シーチン)」すなわち半キンタールに当る。これは50キログラム、あるいは110・28ポンドに当り、イギリスの重さの単位112ポンドにきわめて近く、0・83ピックルに当る。面積の単位として用いられる畝(ムー)は、農民の報告のなかにある、地元で使われている単位である。しかし、計算の上では江寧の畝が使用されており、調査した耕地の5分の2がこれによって表記されている。これは0・06067ヘクタールに当る。時折つかわれる「10畝」(標準畝)は、少し大きく、0・06667ヘクタールまたは6分の1エーカーに当る。

 報告のなかの貨幣価値はすべて中国貨幣によるものである。調査の期間中、1中国ドルは実際上、米ドルでは3ドル・40セント、あるいは英ポンドにすれば17ポンドのレートを維持していた。

    ルイス・S・C・スミス

1 市部調査

1 人 ロ

 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃がくり返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月11~13日)の人口は20万から25万であった。われわれが3月におこたった抽出調査で報告された人員を
50倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている22万1150人という人口数がえられる。この数は当時の住民総数のおそらく80ないし90%を表わしたものであろうし、住民のなかには調査員の手のとどかぬところに暮していたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題にするには、第1表の注を見よ。)

 2万7500名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので.調査人員の12%に当る。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは6万8000人で、全体の32%を占めている。調査の記述によれば建物総数のわずか4%があるだけであり、また城内総面積のおよそ8分の1にすぎなかった地域に、市の陥落以後、14週もたった後でも、住民の43%が住んでいたのである。こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持を示している。安全区内では事実上焼失が1軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても.外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している。
(1)12月後半と1月中の最盛期における収容人員は7万人であった。減少の理由はきまってはいないが、次のようなものであった。すなわち.一般的には、外部の危険と困難を考えて収容所の方をえらんだものの、収容所が混雑して居心地が悪かったこと、住居や財産の残りの管理ができるほど安全な時には、いつでもこうした管理にあたる必要があったこと、できる場合にはいつでも市の他の地区へ帰宅することを国際委員会側がすすめたこと、2月4日に収容所から強制追立てをするといっておどしたこと(幸いにしてこれは実行されなかったが、多くの不要な苦痛と遺憾な事件をもたらした)などである。

(2)われわれはここで調査の目的で使われた市内の区分をあとづけてみなければならない。安全区は、南側を漢中路、東側と東北側を新街ロから鼓楼を通って山西路にいたる中山北路、北側を山西路で限られ、山西路にっながる西康路が西側の境界となる。安全区内には収容所があって、その各個につき報告がある。安全区の南には城西があって昇州路にまでわたっており、その東側は中正路と中華路で限られていた。残りの市の西南の角は門西とよばれていた。北は白下路、東は通済門にわたる東南角は門東とされていた。中正路から東、城壁までの地区は城東と呼ばれていた。残りの北西部・北部・北東部(南は中山東路まで)は城北とされていた。建物調査のためには、城北東を城北からきりはなしてある。この北市の東部地区は中山北路から城壁にいたり、北側は鼓楼と北極閣で限られている。城外の地区の名を簡単にあげることができる。水西門地区は漢中門の外を北方にひろがる。(南京の市部調査地図を見よ。)家族調査によれば、通済門外の地区は無人地帯となっていた。したがって、この地区は家族調査には含まれず、建物調査には含まれている。

 城南のふつうは密集地区となっていた地区(城西・門西・門東)は、危機の時期には実際に完全に無人地帯となったものの、かなりの回復を見せた最初の地区であった。全体で、これらの地区には8万1000人の住民がいたが、これは全体の37%に当る。(市政府の登録記録によれば、6月までに住民数は2倍となっていた。)

 以上にのべた地区は実際に市全体の80%を占めるものであった。城外の調査地域にはわずか8550人の住民がいるにすぎず、中国軍による焼払いと〔日本軍の〕暴行によってひどい苦痛をなめており、3月になっても全体としてはまだ城内よりも危険な状況にあった。

 家族員数平均は全地区をつうじて4・7人であった。城外では、平均4・0人で、このことは家族をもたない男たちあるいは破壊された家族の多いことを示すものであろう。南京の同一地区における1932年の2027家族という数字と比較されたい。このなかから現在の住民の多くはでてきているのである。1932年の数字によれば、家族員数平均は4・34人であった。(1)おそらく平時には雇用上の理由でもっと多くの人が家族から離れるであろう。

 第1表は人口総計を示す。

(1)スミス「中国家族の構成」(Smythe, "The Composition of the Chinese Family," Nanking Journal, University of Nanking,November, 1935, v.5, No.2, p.371-393.)

性別・年齢別人口分布

 南京市の3月現在の人口はあきらかに戦時人口の特徴を示していた。この調査の報告によれば、全年齢にわたる市内各地域の性別の人口比率は男子103・4人(女子100人にたいし)であった(1)。1932年の調査では全年齢にわたって男子114・5人の割合であった。戦前の全人口のうち、男子の人口比率はきわめて高く.ある時には150人の割合であった。1932年以来、性別人口比率が9ポイント下ったことは、一部には南京で以前働いていたが南京出身のものでなかった男子の疎開によるものであり、一部には危機の時期における男子の死亡によるものである。もっとも重大なことは15歳ないし49歳の年齢層中の男子比率の激減であるが、これは大まかにいって、人口中生殖をおこないうる人びとを代表している。この層では124人が111人に、すなわち11%減少している。この変化によって多数の婦女子が家庭を支える男子を失ったという事実がわかる。年齢層の中を狭めて比較をおこなうと、各々の数字が少数の事例にもとづくものであるのでばらつきが見られる。しかし、青年のうち成熟者である25歳のものを調査してみた結果では、驚くほどの一貫性を見せている。1932年の数字を( )の内に示すと、15歳ないし19歳では108(123)、20歳ないし24歳では106(124)、25歳ないし29歳では100(128)、30歳ないし34歳では89(123)、35歳ないし39歳では105(123)であった。生殖可能の男子の減少はまた別の方法でも示すことができる。1932年の男子全体のうち、15歳ないし40歳のものは57%を占めていた。現在の調査によれば、それは49%で、14%の減少を示しているが、これは深刻な経済・社会問題となっている。これに応じて、男子全体のうち、50歳以上のものは1932年には13%であったのに、現在では18%となり、30%も上昇している。

(1)市政府の5月31日の登録数は、婦人についてはあきらかに不完全なものであるが、109・4という数字を示している。

性別人口比率の地区別分類もかなり重要である。全地域の比率は103であるのに、収容所内についていえばわずか80である。収容所は安全をもとめる婦人で超満員となっているからである。他方、安全度の低い各地区では、男子の数は相対的に多い。例えば城北の121、城内農村部の150、城外の144などである。もし安全をもっとも必要とする年齢すなわち15歳ないし39歳を考慮するとすれば、収容所内の性別比率はきわめて低くなり、5歳ずつの各年齢層に区分して、40から67となる。安全地区ではおよそ90である。城西では150以上、城外では200余となる。このように男子がまっさきに危険地区へ戻り、それに続いて老女・子供が帰宅する。しかし、若い婦人の多くは比較的安全な場所にとどまっていた。

 第2表に性別および年齢別人口分布を示す。

家族構成

 南京市内にとどまっている家族は「正常」のもの、すなわち夫婦、あるいは夫婦と子供が一緒に暮らしているものと、「破壊された家族」、すなわち夫か妻か一方が子供と暮らしているものと、「家族をなさないもの」、すなわち男か女の1人暮らしの3種に大別される。それからこれらの3つのうちそれぞれについて、「親類と暮らしているもの」という形で細分される。

 1932年の安定期に南京市民のあいだでおこなった調査に比べると、「正常な」家族の割合はかなり少なかった。夫婦のそろった家族は、当時の9・5%に比べると、現在はわずか4・4%である。夫婦・子供のそろった家族は33・1%から現在ではわずか26・ニ%になっている。このことはこの型の家族が4分の1減少したことを示す。1932年に比べると、「親類と暮らしている正常な家族」は29・8%から32・3%とわずかに増加を示している。いいかえれば、全家族の9・5%にあたる正常な家族が実際に失われたことになる。これは正常な家族のうち7分の1が減少したということである。

 正常な家族の減少は主として破壊された家族の増加によるものであり、この型は1932年にはわずか12・9%であったものが21・4%にふえている。これは4種類の破壊された家族が8・5%増加したことを示す。この増加分のうち6・9%は生計を支える男手を持たない家族、すなわち婦人と子供のみで構成される家族についてのものである。このことは破壊された家族の数がほとんど倍増しているということである。南京に残留している家族の構成員のうち14・3%が他所へ移っているのに、妻のうちわずか2・2%がこの移動によって夫を失ったにすぎないことを考えれば.破壊された家族の増加をいっそうよく知ることができる。これに加えて4400人の妻、つまり妻全体の8・9%は、夫が殺されたか、負傷を負ったか、あるいは拉致されたものである。これらの夫のうち3分の2、すなわち6・5%が殺されたか拉致されたものである。またさらに痛ましいことに、3250人の子供(子供全体の5%)は、彼らの父が殺されたり.負傷をうけたり、拉致されたりしたものである。これらの破壊された家族のうちごくわずかのものが市内に住むものとして分類されている。そのような報告は3%しかなかったのである。移動、殺害あるいは拉致されたもの、別かれ別かれになった家族といった3つの要因によって、5500家族、つまり南京に残留している家族の11・7%が破壊された。

*(訳注) この6・5%という数字は、夫を殺されたか、あるいは拉致されたかした妻が、妻全体の6・5%にあたることを示すものであろう。もっとも、これだと、そのパーセンテイジは5・9となる(8.9%×2/3=5.9%)。

 城内では各収容所は破壊された家族にかんして高い数字を示しており、とくに子持の婦人については、市内全地域で6・6%、また1932年の平時で3・4%に比べて、13・2%である。収容所の家族の14%は婦人と子供と親類のもの(後者はふつう扶養家族)である。あわせて収容所内の家族の27・2%は子持の婦人であり、若干の場合は被扶養者を伴う。収容所にいる家族の35%は婦人が戸主にたっているか、その他の住民についてはわずかに17%が婦人を戸主とするにすぎない。

 男子1人か女子1人のみの家族は城外居住者の場合、1932年現在の全地域につき7・4%に比べ、14%を占めている。なお、城外に住む家族の16・3%は、男子1人が親類の者と暮らしている。

 家族構成の分析については第3表を見よ。


2 戦争行為による死傷

死傷者数および原因

 ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。調査によってえた報告によれば、死者3250人は、情況のあきらかな軍事行為によって死亡したものである。これらの死者のうち2400人(74%)は軍事行動(1)とは別に〔日本軍〕兵士の暴行によって殺されたものである。占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由かある。実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあったことが知られているのに、それが1例も記録されていないことによっても強調される。

(1)ここで「軍事行動」による死者というのは、戦闘中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけで死亡したものをいう。

 負傷を受けた状況がはっきりしている3100人のうち、3050人(98%)は、戦争以外に日本兵の暴行によって負傷したものである。負傷しても何らかの形で回復(1)したものは、負傷を無視するという傾向がはっきりと見られる。

(1)当復興委員会に救済をもとめてやってきた1万3530家族が委員会に報告した負傷者のうち、3月中の調査によれば、強姦による傷害は16歳から50歳に到る婦人の8%を占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。12月・1月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、3月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである。日本兵の暴行による死者の89%および負傷者の90%が12月13日以後、すなわち市の占領の完了後におきている。

以上に報告された死傷者に加えて、4200人が日本軍に拉致された。臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては.ほとんどその事実を報告していない。6月にいたるまでこのよりにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。これらの人びとの運命については.大半がこの時期の初期に殺されたものと考えられる理由がある(1)。

(1)「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっきりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし.彼女らのうちだれ1人としてリストされてはいない。

 拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうちの1項目「事情により」というところに書きこまれており、調査の計画過程では必要とされもせず、予想もされなかったのである。こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された4200人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである(1)。

(1)市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、1万2000人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない。3月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた1万3530家族のうち、拉致された男子は、16歳から50歳にいたる男子全部の20%にも達するものであった。これは全市人口からすれば1万860人となる。救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。しかし、この数字と当調査で報告された4200人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう。

 多くの些細な事件を無視すれば.軍事行動による死傷者.日本兵の暴行による死傷者、および拉致された者は、23人につき1人、つまり5家族につき1人である。
 このような死亡の重大な社会的・経済的結果は、われわれの調査記録から直接計算しても、その一部を示すことができる。夫が殺害・負傷、または拉致された婦人の数は4400人(1)である。父親が殺害・負傷、あるいは拉致された子供の数は3250人である。

(1)救済を希望した1万3500家族を当復興委員会が3月中に調査した結果によれば、16歳以上の婦人全体の14%が未亡人であった。

 暴行によって死傷した6750人のうち、わずか900人(すなわち13%)が直接、軍事行動で不幸に見舞われたものである。

 死傷者数にかんする数字を第4表にあげてある。

     性別・年齢別による分布

 暴行と拉致にあった者の性別と年齢を分析すれば、死傷者のうち男子の割合は、全年齢を通じて64%で、30歳ないし44歳の者では76%という高い数字に達した。身体強健な男子は元兵士という疑いをかけられた。多くのものが手のひらにタコがあったのを銃をかついでいた証拠だとして殺された。女性の傷害のうち、65%が15歳から29歳の者であった。しかし、この傷害についての調査の質問には。強姦そのものによる傷害は除外してある。

 悲劇の現状をまざまざと示すものは、60歳以上の人のかなり多くが日本兵に殺されたということである。こうして60歳以上の男子の28%と女子の39%が殺されている。年輩の人びとは、家が危険にさらされても、しばしば家を去るのをもっとも渋ったのであって、前には、こうした人びとは残忍な攻撃から安全であると考えられていたのである。
 拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったとしう罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた。そういうわけで、拉致された者のうち55%が15歳から29歳の者であったことを知っても驚くに当らない。その他の36%は30歳から44歳の者であった。

 性別および年齢別死傷者の数字を第5表にあげた。

    3 雇用と収入

     調査された住民の以前の生活状態

 調査による人口の22万1000人中、5万8000人以上が以前は雇用されていた(男子5万3000人、女子5000人)。これは15歳以上の者の38%にあたる。婦人(以前雇用されていた人びと全体の9%は主に商業と雑務、2次産業と家事雑役に従事していた。 以前雇用されていた者全体のうち34%(2万人)が商業に従事し、18%(1万500人)が製造業および機械業、12%(6500人)。
500人)が農業、7%(4000人)が雑務、6%(3500人)が運輸、5%(3000人)が「製造販売店」(combined shop)(つまり品物を作って売る店で、製造業にも商業にも分類できない店である)、それぞれ3%(2000人)がほかに分類されない公共サービスと自由業、2%(1000人)が聖職に従事していた。

 被雇用者の収入の1日平均は全体につき1・01ドルであった。報告によれば、商業に従事するものについては平均1・20ドルであり、製造業および機械工業は1・08ドル、家庭内の仕事および個人サービスは0・96ドル、農業は0・73ドル、労務は0・34ドルであった。家族の収入平均は1日につき1・23ドルであった。
 以前の雇用にかんする数字を第6表にあげた。

     現在の雇用と収入

 3月現在の雇用と収入を同じ人びとの以前の状態の報告と比べてみると、悲惨なありさまである。被雇用者総数は2万500人で、そのうち950人(5%以下)が婦人である。この2万500人は、全人口の9%におよび、10歳以上の者の12%、15歳以上の者の14%にあたる。

 被雇用者全体のうち、67%(1万3500人)が商業(1)に、12%(2500人)が農業に、それぞれ5%(1000人)が製造業・機械工業と家内工業・個人サービスに、4%(1000人)が運輸業に、それぞれ3%(500人)が製造販売店と雑務に、それぞれ1%以下がほかに分類されない公共サービスと自由業に従事していた。1人あたり1日につき平均収入は、全体については0・22ドルであった。商業に従事する者については0・31ドル、農業では0・20ドル、製造業および機械工業では0・45ドル、運輸では0・42ドル、製造販売店では0・22ドル、雑務では0・25ドルであった。

(1)大部分は日用品の行商人と、自分や他人の残りの所持品を売る露天商人である。

 難民収容所と市の東部各区では被雇用率は最低であった。雇用率のもっとも高かったのは庭師で、全年齢層にわたっては17%、15歳以上の者についていえば26%であった。商人は安全地区と最初に開放された城西・門西両地区に集中しているのが目立った。上記の3地区には商人が比較的多く、それぞれ全商人の約40、20、20%を占めていた。城外の兼業地区は全雇用者の5%以下を占めるにすぎず、城東は4%以下であった。

 現在の雇用についての数字を第7表にあげた。
 無収入(no earning)と回答した家族の数は3万7050戸で、市内の家族全体の78%にあたる。収入(income)が生計を支えるのに足りないと回答した家族の数は4万4650戸で全家族の94%にあたる(1)。われわれの観察はこうした現状と一致している。隠匿物資その他の貯蔵品に頻って生活を続けているのである。こうしたものが血縁関係・友人関係・貸借関係のつてを通じて流通している。それに加えて組織的救済と、かなり少数の労務者にたいする報酬といった形を主としてとっている日本軍倉庫の不定期の放出物資で、埋め合わせをしている。

(1)辛うじて生存を続けてゆく最低線はひかえめに計算して1日に1家族あたり0・26ドルである。ギャンブルの「北京における中国人家族の生活』(Gamble, How Chinese Families Live in Peiping)の326ページを見ると、調査対象とした家族集団の上層部から下層部にいたるまで穀物の1カ月あたり消費量は1・39「10担」となっている。3月下旬の米の価格は212・25ポンド入り1袋につき10・63ドルであった。以上のデータからすれば、燃料費・住居費・衣料費および主食である穀物以外の食糧を除外しても、1日あたり0・26ドルという数字がでてくる。

     現在の収入の以前の収入との比較

 3月現在の雇用は、調査に回答した住民の以前の雇用の35%であった。被雇用者の収入は以前の収入の32%であった。これらの2つの要因からすれば、住民の総所得は以前の所得の11%となる。この悲惨な数字は現状をよく知っている者の観察に符合するものである。3月現在の家族の収入は1日につき平均0・14ドルである(以前は1・23ドル)。物価は安いが、現状の助けとなるほど低くはない。
 被雇用者の各グループを比べてみると、商業に従事する者は以前の数の3分の2となっていたが、収入は以前に比べわずか26%であった。農業では雇用数が半減し収入も以前の27%、家庭内の仕事と個人サービスでは6分の1以下の雇用で収入は以前の47%、製造業および機械工業では10分の1以下の雇用で収入は以前の35%であった。公共サービスの雇用は事実上なくなっているし、自由業についても同様である。一方、聖職者は文字通り見られなかった。

     食糧供給源

 中国においてはいつでも住民大衆の食物は基本的には穀物である。3月現在の経済状態では、食物は「僥幸」というものであった。というのは貧乏人は実際に野菜や油にさえも事かくほどであったから、まして肉や果実などなおさらのことであった。小麦粉を確保していた一握りの家族の他は、全部が通常はこの地域の主要穀物である米に頼っていた。市の全地区を考察すれば、住民の17%は無料食堂(1)(無料あるいは名目的の支払)から米を入手しており64%が小売商から、14%が自治委員会の監督する店から、5%が「その他」から入手していた。「その他」は、友人や親類の手を通じるもので、もとの供給者ははっきりしなかった。

(1)住民の17%はおよそ3万8000人であった。この無料食堂の利用についての回答は去る3月に国際委員会が約3万5000人を対象におこなった給食状態の点検の記録にきわめて近いものであるが、これ以外の食糧配給法とその他の組織を考慮すべきであるから、両者ともに少しばかり修正を必要とする。

 城外では無料食堂から食物を入手できた住民は1人もいなかったが、その反対に難民収容所内の住民、端的にいえば、平均して市内の極貧層の82%が無料食堂に頼っていた。安全区内では17%が無料食堂に頼り、城西ではそれは12%であった。この両地区とも開店中の無料食堂に隣接していた。
 食糧供給源にかんする数字を第8表にあげた。

    4 南京に残留している家族の損害

     1家族当りおよび全体についての主要な損害の項目別一覧

 戦争期間中、南京に残留していた家族は概して貧困者であったが、なかには小店主・家主なども多数含まれていた。彼らの損害を概観すれば南京住民の経済状態がきわめてはっきりと見てとれるが、市が蒙った経
済的打撃の全体を量的にも質的にも示すにはきわめて不十分である。
 1家族あたり損害の平均は838ドルで、そのうち271ドルは建物であり、567ドルは動産である。後者を営業用動産すなわち販売用の在庫品・店内設備・製造原料・機械・道具の類と、家庭用動産すなわち衣服・寝具・家具什器・現金・宝石・手持の食糧品の順に分ければ、両者はほぼ同額である(1)。販売用在庫品はもっとも額が大きく、1家族あたり187ドルをしめる。店舗設備は65ドルである。住民中残留者にとって機械および製造原料の損失は比較的すくなかった。衣服と寝具の損害は大きく115ドルであり、家具および什器は110ドルである。食糧と貯蔵品の損害の記録はわずか8ドル、現金と宝石は10ドルであって、これは回答がひかえ目であること、また多くの家族が貧困であることを物語っている。

(1)金額はすべて中国貨幣単位である。

 一部の市の比較的貧困者が調査対象となったにすぎたかったが、家族調査で回答のあった損害全体はかなり大きい。実際には主として以下の各項につき回答のあった損害は4000万ドルである。すなわち建物1300万ドル、販売用在庫品900万ドル、店内設備300万ドル、衣服・寝具500万ドル、さらに家具・什器500万ドルとなっている。

 南京に残留している家族の損害全体を原因別に分析すれば次の通りとなる。すなわち軍事行動によるものニ%、放火によるもの52%、軍隊による略奪33%、その他の略奪9%、不明4%である。建物の損害のほとんど全部が放火によるものであるが.動産の損害は31%にすぎない。実に動産の損失の半分近くが兵隊に奪いとられたものであり、その他による損失は7分の1である。軍隊による強奪は、営業用動産600万ドル以上、家庭用動産約700万ドルに及び、それぞれそれなりに南京住民の日常生活には悲惨な打撃であった。

 家族の損害の項目別内訳とその原因による内訳を第9表にあげた。

     損害の地区別・原因別分布

 3月中に南京に残留していた家族の損害総額4000万ドルを、これらの家族の旧住所の地区別に割りふってみると(旧住所で損害の大半が生じた)、その結果は以下の通りである。城東1200万ドル、門東700万ドル、城西600万ドル、門西および城北・東はそれぞれ500万ドル.その他は少額である。損害総額を営業用財産と住居用財産の2つに大別すれば、それぞれ1900万ドルと2000万ドルである。主要地
区では門東の放火による損害がもっとも大きく、損害全体の66%を占めている。城東では62%であり、放火による被害の少ない城西・門西では損害総額のそれぞれ34%と38%にあたる。営業用財産と住居用財産の損失の原因についてははっきりした差異が出ていない。予想されるように、この住民は主要商工地区の大火災による損害を大してうけてはいなかった。こうして、営業用財産の火災による損害は損害全体および財産全体の21%であった。しかし。住居用財産の損失はさらに大きく、30%にのぼった。

 市内各地区別の家族の損害を第10表にあげた。


   5 建物および収蔵財産の損害総額

     建物の数え方
 街区番号*の集計は3万9200で、そのうち、3万500は城内のもの、8700が城外のものである。城西・門西・門東など3つの密集地区が城内の建物のほぼ60%(1万7700)、実際には総数の45%を占めていた。

*(訳注)街区番号(street-number)は家屋番号(house number)の誤りか。

 建物の破壊あるいは損害についての回答が寄せられたのは、ただ損傷がかなりはっきりとしていて、調査員が通りすがりに注目したものに限られている。多数の特定の例について損傷が記録されていないことはわかっているが、できるだけひかえ目な数字にとどめることにした。

 建物全体のうち、2%が軍事行動により、24%が放火により、またその上に63%が略奪によって、破壊または損害をうけた。89%はあらゆる原因によって被害をうけており、11%は見たところ無傷であった。注目すべきことは、城内で焼失した建物の大半は焼失の前に内部のものを徹底的・組織的といってもよいほどにはぎとられていた。しかも、実際には幸いに無傷で残った11%の建物にも、例外なく兵隊が押し入って若干の強奪を働いたが、後になると空屋に一般市民の泥棒が入りこむようになった。

 城外では建物の62%が焼失し、通済門外では78%にものぼった。域内ではその割合に13%で、門東の29%をはじめとして、安全区の0・6%におよび、城北のような住宅の点在している地区では3・5%であった。

 軍事行動の結果が目立つのは市の南部・東部と水西門外のみである。しかし、焼失のひどかった諸地区では、その結果が若干の例については判然としなかったに違いない。

 城内の建物の73%が全部略奪の被害をうけているが、城外でその旨回答があったのはわずか27%であった。城外では非常に多くの家屋が焼失し、下関ではそれは34%にのぼった。城内各地区では略奪の割合が高く、城北では96%にものぼり、城北・東では85%であった。65%以下の唯一の地区は安全区であって、ここでは略奪による被害をうけた建物では最低の9%という数字が報告されている。

 各地区別の原因別の被害を考えてみると、城内各地区では85%の建物が被害をうけ、城外では90%が被害をうけているのである。城北では99・2%という悲惨な数字がでている。実際に城内全地区の被害は、安全区の10%と門西の78%を除いて、すべて90%以上となっていた。城外各地区では、通済門外が99・7%、下関が98%で、水西門外は幸いにわずか70%にとどまっている。

 破壊されたかあるいは略奪をうけた建物についての数字を第11表にあげた。

     項目別および市部地区別の損害額

 建物調査の示すところでは、全地区にわたる建物および収蔵財産の損害総額は2億4600万ドルであり、そのうち1億4300万ドルに城外の被害、1億300万ドルが城内の被害である。この総額のうち、動産は58%(1億4300万ドル)で、内訳は営業用のものが1億1400万ドル、家庭用のものが2900万ドルである。つぎに建物が42%で、その損害は1億300万ドルにのぼっている(1)。

(1)これらの2つの数字はたまたま同一であるが、事実その通りなのである。

 営業用動産の損害は城外ではとくに大きく、城内の損害が3200万ドルであるのに比べて8200万ドルにのぼっていた。一方、家庭用動産の損害は、城内では2300万ドルであるのに、城外ではわずか700万ドルにすぎなかった。建物については城外の損害がわずかに大きく、城内の4800万ドルにたいし5500万ドルであった。

 損害全体の中での個々の損害品目の割合を検討してみると、販売用在庫品が30%(7400万ドル)、店内設備が6%(1600万ドル)、機械・工具類がこれとほぼ同率で1400万ドル、製造用原料が4%(1000万ドル)、人力車が0・1%以下(2万7000ドル)であった。衣類・寝具は5%(1100万ドル)、家具・什器はおよそ4%(900万ドル)、手持の食料と貯蔵物資は0・7%(200万ドル)、現金・宝石は0・3%(7万ドル)、自転車はそれよりすこし低く、その他は約3%(600万ドル余)であった。機械・工具の損害のほとんどは城外でうけたものであり、また製造原料の大半および店内設備と販売用在庫品の3分の2についても同様である。

 市内各地区の建物および収蔵物の損害の内訳については多くの重要な点がある。下関の損害総計はきわめて大きく、主として輸送・倉庫・製造の中心地が破壊されており、損害額は1億1700万ドルにのぼった。城東・門東・門西の損害は2000万ドルから2600万ドルであった。通済門外の損害は1600万ドルを記録し、城北・東では1400万ドルであった。損害総額が最も少なかったのは、400万ドルの安全区と有名な水西門外の貧民地区であった。

 下関の損害額の1億1700万ドルのうち6900万ドルは営業用動産、4200万ドルが建物であった。営業用動産の損害が1000万ドルにのぼった地区はほかにはなかったか、若干の地区では600万ドル以上におよんだ。下関についで建物の被害が大きかったのは城東と門東であって、それぞれ1300万ドルと1200万ドルに達していた。安全区の被害は最低で、55万1000ドルであった。予想通り、家庭用動産の集中しているところはなく、大半の地区で損害は500万ドルから200万ドルであった。

 品目別および地区別の損害額にかんする数字を第12表にあげた。

     損害原因―全体と主要項目

 損害総額(あるいは貧弱な合計)2億4600万ドルのうち、1%(300万ドル)は軍事行動によるもので、主として建物の損害であった。67%(1億6500万ドル)は放火によるもので、そのうち9700万ドルは建物の損害、3000万ドルは販売用在庫品の損害、1300万ドルは機械・工具類の損害、1000万ドルは店内設備の損害であった。損害総額の31%(7500万ドル)は強盗によるもので、そのうち4100万ドルが販売用在庫品、900万ドルが衣類・寝具、500万ドルが店内設備の損害である。

 損害原因別の数字を第13表にあげた。

     営業用財産と住居用財産に区別した損害

 建物と収蔵物の損害額合計の2億4600万ドルのうち、営業用財産の損害は2億1000万ドル、住居用財産の損害は3600万ドルであった。営業用財産の損害の2億1000万ドルのうち、1億3100万ドルは城外で、うち1億1000万ドルは下関地区、1500万ドルは通済門外地区のものであった。城内の被害の7900万ドルのうち、2300万ドルが城東、1600万ドルがそれぞれ門西と門東、1000万ドルが城北・東、被害がもっとも少なかったのは安全区で200万ドルにすぎなかった。
 住居用財産の損害3600万ドルを大別すれば、城内では2400万ドル、城外では1200万ドルとなる。城内のうち門東が600万ドル、門西と城北・東が各400万ドル、その他は200万ドルから300万ドルであった。城外の損害1200万ドルのうち、700万ドルは下関、300万ドルは中華門外であった。

 原因を考慮すれば、損害の大きかった営業用財産の場合は以下の通りである。すなわち軍事行動による被害が1%、火災が69%、略奪が29%である。比較的損害の少なかった住居用財産の損害は、軍事行動によるものが4%、火災が59%、略奪が37%である。上記の差(*)を生じたのは、多くの住居が激しい攻撃をうけた南側城壁の諸城門の近くにあったということにもよる。さらに最も重要な原因であった火災については、商工地区一帯が故意に焼払われたことが注意される。

*(訳注) これは軍事行動による損害の比率の差をいうのであろう。

営業用および住居用財産の損害の比散の数字を第14表にあげた。

     主要実業街の損害

 家族調査や一般建物調査からは十分につきとめることのできない経済状態の1面をより明確に把握するために、8つの主要実業街の状況と損害を別個に調査項目に入れた(もちろん、これらは損害総額に含まれているものであって、それ以外の別項の損害ではない)。これらの8つの実業街は地番でいえば2800をこえ、1実業街あたり平均350地番となる。これらは主として城内の南東の一帯にある。

 建物の損害は、2・7%が軍事行動に.33%が火災に、それに加えて54%が略奪によるものであって(焼失した店の多くが兵隊による略奪を時おりうけた後、軍用トラック多数を使って本格的に略奪をうけた)、89%があらゆる原因による損害である。すべての原因を考慮に入れれば、白下路・中華路・建康路・太平路では97・8%の建物が破壊されたり損傷を受けたりした。その他のところでは70ないし80%である。よかった面からいえば、幸いに11%の建物が重大な損傷を免れたことである。

 各種の方法による暴力から生じた損害を個々の街路について見れば、中正路と中山路では軍事行動による損得が非常に顕著となっているが(それぞれ、建物の6%、5%に被害)、これによる被害が些細なところや全然それが記録されないところもあった。放火による損害の割合が最大であったのは太平路で68%、ついで中華路・建東路がそれぞれ51%と47%であった。のこった建物の大半は略奪をうけたものとして記録さるべきであるから、焼けなかった建物内の略奪は当然、放火による被害には入らない。太平路では建物のわずか27%につき略奪の被害が記録されているのに、中正路と朱雀路ではそれが76%となっている。

 市内8つの主要実業街の建物および収蔵財産の損害はおよそ5000万ドルにたっしたが、そのうち4700万ドルは商業用建物とその収蔵財産の損害であった。以下にかかげる記録で忘れてならないことは、これまでのところは建物の数で損害が記録されているのにたいし、損失した財産の損害見積り頓と差異が街路別にドルで表わしてあることである。中華路の被害が最も大きく、1250万ドルで8つの実業街の損害総額の4分の1を占め、中正路は1100万ドル、太平路は900万ドル、中山路は600万ドル、建康路・白下路はそれぞれ400万ドル、昇州路は200万ドル、朱雀路(太平路の南に統く)は100万ドルであった。

 8つの実業街の損害金額を原因別に分類すれば、0・7%が軍事行動によるもの、65%が放火、それに28%が略奪、6%が不明である。各実業街について見れば、放火によるものは、建康路では損害の98%を占め、中正路では87%、中華路では77%、白下路では69%となっている。それに伴う略奪については、こんどは焼けのこった財産が問題なので、街路は順位が逆になってあらわれる。すなわち、略奪による被害は.朱雀路では72%、中山路では61%、昇州路では47%、太平路では29%である。特に太平路・昇州路・朱雀路ではかなりの割合の被害が原因不明となっているが、放火と略奪によることは疑いない。この2つの原因による被害が記録全体にある程度まじりあっているに違いない。

 主要実業街の損害にかんする数字を第15表および第16表にあげた。

     以前からの住民の1家族当りの建物

     および収蔵財産の損害

 損害総額の大きさは、以前からの住民の1家族当りの損害額を推定することによっても知ることができよう。その算出はかなり概算となるであろう(1)。損害をうけた2、3の公共建築物や主要な公共団体の財産若干を含んでいるのに、市の占領以前にとり払われた個人の建物・公共建築物および公共団体の財産が除外されているので、ある意味ではこれらの数字は机上の計算である。それでも、これは、何億という数字を具体的に考えられるようにすることにも、また、南京に残留している相対的に貧困者の家庭から回答をえた低い数字から生じる誤った印象を正すのにも、役立つのである。

(1)損害総額、考慮された人口、家族員数などの係数を直接に使用することと、そして一方、考慮された以前からの人口中の家屋番号当り4・9家族というわれわれの数字によって割出された家屋番号当りの損害とのあいだには、密接な照合が見出される。

 損害総額の示すところでは、1家族当り平均損害は1262ドルで、そのうち527ドルが建物、582ドルが営業用動産、152ドルが家庭用動産の損害である。営業用動産の内訳は、販売用在庫品377ドル、店内設備80ドル、機械・工具73ドル、製造用原料51ドル、人力車1ドルであり、家庭用動産の内訳は、衣服・寝具58ドル、家具・什器44ドル、手持ち食糧および補給物資9ドル、現金・宝石4ドル、自転
車3ドルである。

以前の住民の1家族当りの損害額にかんする数字を第13表の右側の欄にかかげた。

     家族調査および建物調査で報告された損害の比較

 以前の住民についての1家族当りの損害を、南京に残留している住民の家族の損害と比べてみると、建物の場合はおよそ2倍になり(527ドル対271ドル)、さらに営業用動産の場合は実際に2倍に当る(582ドル対291ドル)。一方、家庭用動産の場合ではほとんど被害は半分である(152ドル対276ドル)。これらの記録は2つの状況をよく表わしている。市全体の損害総額は、住民の1家族当りにつき、南京に残留している家族の損害に比べて1倍半となっている(1262ドル対838ドル)。全市にわたる損害はあらゆる型の大きな財産、すなわち商業財産・工業財産・公共団体財産を含むものであった。他方、多くの家財が疎開した人びとによって特出された。それに、住民が市内に残していった家財の損害を十分に記録することができなかった。

 南京に残留している家族の損害と以前の住民の全家族の損害の比較は第9表と第13表で見ることができよう。

   2 農業調査

 農業調査では.南京周辺に集合して1つの自然的・伝統的単位をなしている6つの県を網羅しようとした。2つの県すなわち江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県こ高淳県がある。附録で調査の組織とその方法にかんして説明しておいた事情のために、3月中に高淳県と六合県の半分は調査することができなかった。この調査に含まれている4・5県にはそのとき、最高、108万人の農民がいたが、戦前にはおそらく120万から135万はいたであろう。このなかには市場町もいくつか入っているが、その以前の人口はおよそ27万5000人であった(1)。以前には南京市は100万の人口を擁していたが、3月にはおよそ25万にまで減少していた。このように4・5県の全人口は3月現在ほぼ150万であった(しかし、市場町の住民はこの調査の範囲外である)。4・5県の土地面積は2438平方マイルで(1)、デラウェア州の面積、あるいは英国のかなりの大きさの郡2つをあわせたものにほぼ相当する。この面積のうち、ちょうど3分の1にあたる819平方マイルが耕作されている(1)。江寧県の面積を農業調査で注目することは重要である。それは4・5県の耕地面積の41%を占め、農民人口もほぼ同じ割合である。

(1)バックの「中国における土地利用」統計(L.Back, Land Utilization in China, Statistics.)417頁の数字から推定。
(2)(3)バックの前掲書、24頁の示すところでは、正確な政府側の数字は6315平方キロと2122平方キロであって、それからこの平方マイルの数字が計算された。

    1 農地の被害

     被害の程度と大きさ

 農村の損害について報告された5つの型のもの(建物・役畜・主要農具・貯蔵穀物・作物の被害)の総計は、4・5県でおよそ4100万ドルにのぼったが、これは1家族当り220ドルの損害となる。注目すべき重要な事実は、華中東部の1農家当りのおよその年間収入が、平均的農家で1年に消費する物資をすべて換算したバック(Buck)の数字によれば、289ドルになっているということである(1)。貯金の利潤と農業資本を蓄積しうる率があまりに低いので、年間収入の4分の3を矢うことは、農家にとって、生産力からいっても生活水準の上からいっても、恐ろしい打撃である(2)。現在の災害のなかで1家族当り220ドルの損害は、1931年の洪水の被害の457ドル(3) および1932年の戦争による被害の147ドルと比較される(4)。1931年と32年の調査においては、今年の調査では回答のなかったような多くの小項目を含んでいた。それに、1931年に使用した単位価格は現在使われている低いものをかなり上まわっている。1家族当りの損害は、溧水県が最大で302ドルにのぼり、広大で人口稠密な江寧県は251ドル、六合県はわずか111ドル、句容県は147ドル、江浦県は平均の220ドルにもっとも近い239ドルである。

(1)バック「中国農村経済」(Chinese Farm Economy)387頁。金額の数字はすべて中国貨幣による。
(2)15年前の数字(わずか3つの地区にかんするもので、しかも最近、バックが挙げたものよりも価格が低い)については、バックの報告によれば江蘇省の農業資本は平均して478ドルである。この数字には建物・家畜類・物資備蓄・農業設備などが含まれているが、土地と樹木は含まれない。土地を含めた全資本について彼は1775ドルという数字を挙げているが、もちろん、これらは賃貸借および質入れの対象となる。前掲「中国農村経済」57頁。
 寧属地域でかなりの大きな要素を占める江寧県については、最近、743ドルという評価が平均的な農家の建物・農具・家畜・家具に対して与えられている。R・T・ツイ「江寧県の土地分類」(R.T.Ts'ui,"Land Classification of Kiangning Hsien") 『エコノミックーファクツ』(Economic Facts) にまもなく発表の予定。
(3)「中国における1931年の水害』(The 1931 Flood in China)13頁。
(4)別の計算では1家族につき135ドル。


     建物

 建物だけでも、報告された損害の全体の59%を占め、1家族につき129ドルであった。これは1家族につき建物の1・7間(1)、あるいはこの地域の農家建物全体の3分の2が破壊されたということであって、大半は焼失による。建物の損害が特にひどかったのは溧水県で1家族当り2・8間であった。江浦県では2間、江寧県では1・9間の損害であった。破壊をうけた建物は間数にして30万8000間で、その価額は2400万ドルになる。

(1)間(chien)はたる木とたる木の間の間隔をいい、平均しておよそ11'x16'、である。農家はしばしば4間、その他の農業用建物は2間である。第17表〔訳注 第18表の誤り〕の注1を見よ。

     役畜

 損害の分類中では役畜の損害の大きさは第2位を占め、全体の16%、1家族当り0・66頭にあたる。このあとの方の数字は大きく思われるが、とくに水牛にかんしては大きな割合を占めている。1931年の水害では役畜の被害の全体平均は1家族当り0・44頭であって、その調査では3種の動物が調査対象となっていた(1)。バックの報告によれば、揚子江の米麦作地帯では通常その数字はわずか0・71頭であるが、重要な江寧県では1・20頭で、その調査で記録しえた唯一の県であった(2)。戦争による家畜の被害率は江寧県ではかなり高く(0・84頭)、江浦県と六合県でも高い。その地域全体としての損害は12万3000頭(水牛・牛・そこで670万ドル、すなわち1家族当り36ドルにあたる(3)。

(1)「中国における1931年の水害」17頁。
(2)バック「統計」122~123頁。
(3)バックが何年も前に示したところでは、江蘇省の通常の役畜資産は53ドルになっていた。「中国農村経済」57頁。

     農具

 報告された損害全体のなかで、農具の損害は13%に当り、1家族につき3・5個であった。こうした損害の大半は、農具の木製部分が建物の焼失とともに焼け失せたものか、燃料として奪いさられたものかのようである。水田潅漑用の高価なたくさん翼のついたポンプ(*)では木製部分が大きな割合を占めている(1家族当り0・6台)。現在、主要農具の損害は1931年の水害の時よりも1倍半大きいように見える(1)。バックは現在の調査で記載されている農具のうち平均6・5種目の農具をあげている(揚子江米麦作地帯、中規模農家の場合(2))。江寧県と溧水県では農具の損害がもっとも大きく、江浦県では中程度である。全域にわたって農具の損害は6万1000個で524万ドル、あるいは1家族につき28ドルに相当する(1)。

(*)(訳注)竜骨車のことであろう。第28表注参照。

(1)「中国における1931年の水害』18頁。
(2)「統計」396頁。
(3)バックは早く江蘇省の通常の農具保有を64ドル相当のものと報告していた。『中国農村経済」57頁。

     貯蔵穀物

 貯蔵穀物の被害は全損害の10%に当っているが、量的には110万「10担」、あるいは1家族当り6・1「10担」となる。そのうち半分は米、6分の1は小麦、6分の1は大豆である。1家族当りの被害は、句容県では7・5「10担」、溧水県では7・2、江寧県では6・1で、これらのところの被害が最大であった。六合県はきわめて軽く2・7である。1932年当時の平均的家族の被害は2「10担」余であった。1931年の水害当時の平均損害は4・2ピクル(5・1「10担」)であった(1)。現在の穀物の損害は420万ドルにものぼっており、1家族当り22ドルである(2)。

(1)「中国における1931年の水害」12頁。
(2)バックは15年前の価格で江蘇省の穀物の通常のストックを29ドルと評価している。「中国農村経済」57頁。

     作物の被害

 作物の被害は幸いに少なく、全体のわずか2%に過ぎない。冬作小麦については、若い女をかくしたのと同じように、最悪の時期には一部を地下にかくしてあったからである。しかし、この項の被害は相対的に少なかったとはいえ、農家には現実的な重荷となっている。小麦を作付した面積の8%以上は、主として兵隊が動物に食わせたために台なしにされた。江寧県と句容県では集約的に野菜を栽培しているが、農民は野菜畑の作物の40~50%の損害をうけている。句容県では冬作作物の作付面積の破壊は最高で、1家族当り1・4畝(mow)にのぼるが、江寧県では最低で0・62畝である。破壊された面積は総計13万7200畝、あるいは1家族当り0・85畝であった。損害総価額は78万5000ドル、あるいは家族当り4ドルである。

 最近の戦争による損害は1931年の水害とは天と地ほども違う。損害価額からいっても現在の戦災で破壊された建物は作物の被害の31倍にものぼる(1家族当り129ドル対4ドル)。1931年当時には作物の被害は建物の被害の2倍であった(1家族当り215ドル対108ドル(1))。1932年の上海附近の交戦地域(農村部)はここ数ヵ月の寧属地域の状態と似かよっており、建物の被害は作物の被害の28倍である(97ドル対3ドル50セント)。

(1)「中国における1931年の水害』13頁。

 農作物の被害にかんする数字を第18・19・20・26・27・28・29・31表にあげた。最初の3つの表は一般的データである。

    2 冬作作物と春蒔き

     当地域における食糧生産の重要性

 当地域における食糧生産の重要性とその救済の必要との関係は2つの争実から強調されている。第1に、この調査を行なった4・5県はきわめて大きな市と町の住民をかかえている。南京はその人口が激減した状況にあっても、すくなくとも6万7000家族を擁していて、これは1年前の人口のおよそ4分の1に当る。市場町には通常、5万3400家族の住民かおり、このうちはっきりしない数のものが戦争による難民として除かれることになる。当初の農家は1万8600家族であったが、そのうち30%ほどは3月現在において家族としては居住せず、そのうえ、11%が個人としても居住していない(1)。もし、われわれが割引を考慮することなく、以上の3つの数字を集計して、地域の総数を算出するならば、農家の比重を誇大視することになる。しかし、これにもとづいてさえ、農家は全体の61%を占めるに過ぎず、これにたいして、南京市内では22%、市場町では17%である。揚子江米麦作地帯全域の比率を比較してみれば、農村部83%、市部5%、市場町12%である(2)。第2に、戦争状態にあっては、遠くから食糧を輸送してくることは、事実上不可能であったし.状況は見たところほとんど好転していない。南京市に今春搬入された米の多くは溧水県と高淳県から来たものである。

(1)第21表注(****)参照。附録Bをも見よ。
(2)バック『中国における土地利用』365頁。

     冬作作物、その重要性

 当地域の耕作面積の大部分は通常、冬作作物栽培にあてられている(1)。寧属地域について、リン(Lin)は70~80%という数字をあげている(2)。バックの報告は、揚子江米麦作地帯について62%、江寧県については92%と言っている(3)。江寧県について、ツイ(Ts'ui)は最近のくわしい研究で65%と言っている(4)。全般的に冬作作物をつくった同じ土地に夏作作物をつくる。その1方、耕作地の残りの部分に春作作物を栽培する。このようにして、土地の利用については、冬作作物は全作物の40%強をしめ.農業経営および地域全体の食糧生産のうえで大きな要素となっている。

(1)以下の各節においては、ことわり書きのない限り、小麦・大麦・菜種・ソラマメ・大豆のことを念頭においている。表のあるものには野菜についても記載がある。
(2)D・Y・リン(Lin)、1938年3月2日付の手紙。
(3)「統計」207頁。
(4)「江寧県の土地分類」("Land Classification of Kianenine Hsien")(『エコノミック・ファクツ』〔Economic Facts] に発表予定)

     昨秋の作付面積の規模

 昨秋の冬作作物の作付面積は、162万9000畝(1家族当り8・75畝)、つまり耕地の47%であった。ツイのあげた数字はそれ自体最も根拠があるように思われるし、バックの数字の最上のものによっても(地域についてのもの)裏づけられているが、彼にしたがえば、これは平時の作付の65分の47、すなわち72%の作付が実施されたことを意味することになる。活発な準備と爆撃の戦争状態が秋中この地域の各地に続き、ある地区では通常の作付の時期以前に激烈なものとなった。さらに天候が異常乾燥であったことも作付をおくらせ、農民のうちには12月初句までおくらせたものもあったが、そうするうちに、戦禍がおそいかかり、畑仕事は不可能となったのである。作付については、64%が小麦、20%が大麦であった。

     作物の破壊、その他の欠乏

 作付された冬作作物のうち9%が破壊されたと報告されている。被害推定量は17万2000「10担」で、被害価額にすれば76万5000ドルである。句容県の被害が最高であって18%、江浦県はわずか4%である。その他の被害は平均に近いものであった。各種の作物がおよそ同程度の被害をうけた。ただし、わずかの地所に集約的に栽培されていた野菜の33%は例外であった。他の収穫物が軍馬をひきつけていたように、野菜はたえず兵隊たちの注目の的となっていた。

 作付はしたが破壊されなかった面積(平時の72%作付、9%割引して、残り平時の65(ママ)%)にたいし、農民たちは、各種穀物につきまったく同率に平時の収穫の63%を予想していた。非常に乾燥した天候が3月まで続いた。また、雑草がはびこったことに加えて、破壊とはいえないまでも小さな被害が他にあった。しかし、以上の予想は低く思われるし、この比率は平時の全収穫を順においた農民の考えに影響されているかも知れない。その限りにおいて、この数字は予想と不足の包括的推定をなすものである。しかし、質問ははっきりとのべられ、調査員も農民も正確な回答がなされるようにつとめた。平時の作付の残り65%の63%をとってみれば、平時の収穫の41%という予想がでてくる。おそらく実際のところは41%から63%の間となろう。さらに2つの要素について言及しなければならない。3月から雨がよく降るようになり、事態の見通しは明るくなった。しかし、6月には、小麦の刈入れ時にある地方では雨が降りすぎて、脱穀前に大きな被害をうけた。

      消費面から見た収穫予想

 調査をおこなった県の住民とこれらの県に結びついた都市住民にとって、食糧の貯蔵の面で小麦および大麦の収穫は何を意味するであろうか? 1家族当り3・4「10担」の穀物のえられることが予想されるが、バックとギャンブル(Gamble)が農村および都市住民の穀物の消費についてそれぞれにあげた報告によれば(1)、これによって7週ばかり食いつないでゆけることになる。

(1)「統計」417頁の示すところでは、4・5県には町の住民家族をも含めて23万9450家族がいる。われわれの計算では南京には6万7000家族がおり、総計して30万6450家族となる。1家族あたり5・79人平均の穀物の消費量は、「統計」の105・107頁に見られる、江蘇省南部の3地区(武進1・同2・常熟)の平均によれば、1ヵ月当り2・3「10担」である。都市に住む家族にかんしては、ギャンブルが中程度の収入をえているものについてあげている数字(これはわずかの変化で下は1カ月当りー0ドルにいたるまで拡がっている)が用いられているが、それは1・39「10担」と算出している。これら2つの型の消費の平均を比較考量すれば、調査した地域の全家族にとって、1ヵ月につき2・1「10担」となる。「北京における中国人家庭の生活』(How Chinese Families Live in Peibing)326頁。

 冬作作物にかんする数字は第21・30・31・32表にあげてあるが、第21表は全体にかんするものである。

     種の不足

 この問題にかんするデータは、調査のなかでも、おそらくもっとも不十分なものであって、損害1覧に数えられていない(そこでは、もちろんこれらは穀物貯蔵の損害のなかに含められている)。質問をたくみにむけたと思われるところでさえも、この質問にたいする回答は、事実をたんに述べるというよりも、推定と欠乏とに関係していた。若干の種類の場合.品不足で不安定な時期には、種は食糧でもあった。しかしながら、調査の結果は極めて穏当なもので、全体的にみて農民と調査員の本質的な誠実さを確信させるものである。回答では1家族当り全部で2・87ドル、0・9「10担」未満が要求された。1931年の水害時のデータでは冬作・春作の種子の不足分全部で2・7ピクルス(3・3「10担」)、うち春作の種子の不足1・67ピクル(2・1「10担」)があげられていたが、それに比べると、後者だけで現在の調査の回答の2倍以上となっている(1)。

(1)『中国における1931年の水害』30頁。


     種子必要量の評価

 農民たちが回答したところでは、彼らは平均して通常、米作をする土地の18・5畝のうち1家族当り15畝近くに作付をしようとした。彼らは以上の田植えを予想すれば、1畝当り5「10斤(シーチン)」の種籾を必要とした。このような推定は不合理であったのだろうか? バックは揚子江米麦作地帯で米作全体の5%の種籾の使用をあげており、もっとも豊かな取穫の場合については、江寧畝当りの種子19・3「10斤」と算出している(1)。ツイの最近のデータでは、江寧県について26・6「10斤」という数字が示されている(2)。伝統的な定量はこれより低い。いずれにしても、農民のあげた数字は極端とは思われない。

(1)「統計」238・210頁。
(2)「江寧県の土地分類」

 必要とされる種子のなかで、価額からいえば、籾が66%、大豆が20%である。総額は57万ドルで、そのうち37万6000ドルが種籾である。個別的および地域的には重大な困難があったが、被害をうけた家族の多くが、何らかの方法を見つけて、今春の状況のもとで耕作用に準備しうる畑にまく種子を入手しえたということができる。
 種子の必要量にかんする数字は第22表にあげてある。

    3 戦争と農民

      農地からの移動

 調査員の報告によれば、3月現在の農家人口13万3000人(これらの農家の旧住民と推定されるものの11%)が、家を離れたままもどってきていない。全家族ではおそらくこの3倍以上の者がいまだに家を離れていることを念順におくべきである。しかし、情報が不十分なためにわれわれはこうした人びとの数を正確に考察することができない。13万3000人の移住者のうち、それぞれ11万1000人が江寧県、1万1000人が溧水県、8000人が六合県の出身者である。江寧県を離れた者は旧住民全体の20%と推定された。おそらくこの県の場合に離村者が特に多かったのは、南京にちかいこと、南京との交渉が多かったこと、個々人の政府や私企業との直接・間接のつながりなどの原因で、非常に多くのものが、1937年12月以前に転出してしまっていたからであろう(1)。

(1)この県内、あるいはこの県グループ内の移住者は、抽出調査が満足すべきものであるかぎり、この調査をおこなった地域内に家族を残している。もっとも、丘陵に逃げこんだ者も若干はいるであろうが。1931年の水害では、農家および各個人の移住者の総計はこの同じ県にとどまっていた移住者の70%以上となっていた。そして、明らかに20%余は隣りあわせ、あるいは離れたところの他の県へ移動したのである。『中国における1931年の水害」27・33頁。

      労働力の不足

 家族のうちの働き手のもともとの数、現在いる働き手の数、まもなく帰ってくると思われる働き手の数について、それぞれの調査がなされた。その結果の示すところでは、働き手の不足は江寧県では深刻であって19%にのぼる。しかし.家を離れている働き手の多数はまもなく帰宅する予定であって、予知された労働力の不足は1万8000人、すなわち当初の働き手の数の7%となっている。4・5県としては、事実上の不足数は15%であった。予想された不足は8%、すなわち4万8800人である。不足予想数は、溧水県では最高で12%、六合県では11%であった。(なおまた、全家族が離村したために起りうる不足数については、附録Bを見よ(1)。)

(1)当初の平均6・5人の家族で働き手が2・8人いたという報告は注目される。これは、農民自身の「働き手」という言葉の説明によれば、働き手と考えらるべきものが、家族につき約43%は存在していたことを示している。

 移動および労働力の供給についての数字は、第23表に記録されている。

     暴行事件による死亡

 調査で回答のあったこの100日中の死亡者総数は3万1000人、すなわち住民1000人につき29人で、年間にすれば106人の割合となる。中国における死亡者の年間平均敬27人と比較されたい(1)。死亡者の87%は暴行事件による死亡で、大半は兵士の故意の行為によるものである。7家族に1人は殺されており、アメリカ合衆国の農家に同じ死亡率をあてはめてみれば、総計およそ170万人が殺されたことになる。また全中国の農家数にあてはめてみれば800万人が殺されたことになる。おそらく日本本土についてあてはめてみても正確にいって80万人ということになろう。この地方の状況と調査の方法からみて.警察や警備員として働いていた2、3の地元民を含むことはあるにしても、実際上いかなる種類の兵士もこの調査からは除外されていた。殺人の割合は江浦県で最も高く、100日間に1000人当り45人であった。句容県では37人、江寧県では21人、その他では15人および12人、4・5県全体では25人である。

(1)『中国における土地利用』338頁。

 殺された人のうち男子の比率はきわめて高く、とくに45歳までのものが多く、全年齢層の殺害者敬の84%にのぼっていた。殺された男子2万2490人のうち15歳から60歳までのものは80%におよび、これは生産人口の枯渇を意味する。殺された女子4380人のうち83%が45歳以上のものである。若い婦人の多くは、安全をもとめて避難したか、危険が明白な場合には安全なところへ移されていた。若い婦人や身体強健な男子よりは危害を加えられることが少ないと思われたために、老婦人が留守番役以上の目にあったのである。

     病気による死亡

 病死者の数は回答のなかできわめて少なく、全部で4080人、すなわち百日間で1000人当り3・8人になる。これは報告数がきわめて少ないように見える。たとえば、5歳以下のものについては1人も病死者として回答されていない。同様な傾向が平時においても認められ、しかも、以前には冬になれば必ず多数の変死者が出ることが目立っていた。また、当初の質問では病死と殺害されたものの2者択1であったけれども、病死者のうち若干のものが殺されたものと混同されたこともありうる。そして、この混同による限界は、平時の死亡率と比較して検べてみれば、殺害されたものとして回答のあった数にいちじるしく影響するほど大きくはありえない。この100日間は2年続きの豊作に続く例になく温和で天候のよい季節であった。疫病や変った病気が全然なかったことは明らかである。
 1931年の大水害では、ほぼ同じ時期に1000人当り22人の死亡者が出たという報告があり、死亡者については、病死者と限定されたものは70%、24%が溺死者であった(1)。現在の調査の示すところでは、わずか12%が病死者であるが、完全な報告では多くてもこの2倍であろう。このことは殺された者の多いことを示すのに役立つだけである。

(1)「中国における1931年の水害」97頁。

 死亡者にかんする数字は第24表と第25表にあげた。

    4 戦争の影響=市部と農村の比較

 戦前には、調査した4・5県の農業人口は南京の人口よりも大して多くはなかったけれども、3月の調査期間には4倍以上も多くなっていた。残留した農家の場合、移動によりおよそ11%だけ人口を減じており、30%ほどのものは1家ぐるみ離村して遠くに行っていた。市部では移動によって残留家族の人口の14%が減じ、当初の全居住家族のおよそ75%であった。調査によれば、南京の人口は22万1000人で、農村では107万8000人であった。

 農家では7家族に1人が殺された。市部では5家族に1人が殺害・傷害・連行の憂き目にあっている。これによってほぼ同程度の社会悪と苦難がもたらされている。

 農村の損害は総計4100万ドルで、これには報告された家庭用財産は含まれない。南京に残留していた家族の損害総額は4000万ドルである。建物および収蔵財産の被害総額は全市で2億4600万ドルであった。

 家族当りの農家の損害(家庭用財産を含まない)は220ドルで、そのうち建物の被害は129ドルである。市部に残留していた住民の1家族当りの損害総額は838ドルで、その内訳は建物が271ドル、販売用在庫が187ドル、家庭用動産が276ドルであった。市部の損害総額を当初の住民数で割ると1262ドルとなり、その内訳は建物が527ドル、在庫が377ドル、家庭用動産が152ドルである。

 農村および市部の損害をそれぞれの全財産価格の比率にして計算することは不可能である。しかしながら、農民の損害はその主要財産である土地からみれば、市部住民の全財産のうちに占める損害ほどに、大きいものではないように思われる。いずれにしても、農民の基本的生産資本は破壊されることはなかった。それにたいして、多くの市部住民は主要な物質的生産手段をいっさい失ったのである。この評言は、多数の農民の困苦を軽視しようとするものではなく、この困難な年に当って、平均的農民は南京の平均的住民よりも、何とか苦闘してやってゆけるもの、苦闘するに足るものを多くもっていることを示唆するに過ぎない。

   3 調査の結果、その救済物資

      および救済計画との関係

 農家の建物全体の40%が失われたことは、農民の資本・生活水準・生産力にとって決定的な打撃である。住居がないために土地に戻ってくるのが遅れている家族や家族の1部がある。そのことは、労働力不足・生産の減少、さらには農民のいない間に省みられなかったり盗難に会ったりして事態をいっそう悪化したことさえ意味する。その上、家畜・農具・収穫物貯蔵の維持と世話が.建物がないために影響をうけている。最近の豪雨により、農民のなかには脱穀する前に刈入れた小麦をみすみす台無しにしてしまったものもおり、急造の屋内脱穀の場所さえ設けることができなかった。

 労働者・家畜・農具の不足によって労働能力も影響をうけている。労働者不足は以下の原因によるものである。すなわち、(1)とり返しのつかない死亡および傷害による損失と、散ヵ月では回復することのできない戦時避難による移動、(2)さらに大きくは、とくに婦人の場合に、身体に危険があること。政治の目的とその質に、このような事態の好転はかかっているか、救済事業に従事するものはこの分野に立ち入ることはできない。家畜も農具も不足しているが、農民たちは現在もっているものを互いに融通しあい助け合ってきりぬけてきた。家畜や道具や農具の刃と柄に必要とされる材木の搬入にたいする直接の援助が望ましい。繁殖用の家畜と家畜の子の購入と維持を助ける信用貸しが広汎に必要とされている。原則として、また通常、実際上からいっても、合作社を通じた信用貸しがもっとも有効であり、また、もっとも安全にこれを普及させることができる。
 今後、種子のことも切り離された問題とは思われない。しかし、穀物は主食であり、深刻な食糧不足のために、農民のうちには種子用に穀物をとっておくことが困難なものもあろう。

 現在の小麦の収穫は著しく平年作を下まわるので、農家の収入に打撃を与え、食糧問題全体の1要素となっている。しかしながら、わずかな購買力をもち、あるいは信用貸しをうけるものはすべて、雑穀を補給して秋の米の収穫までもちこたえることが十分できそうに思われる。さらに重要なことは今後の米作の問題で、田植のおわったあとの7月に調査を重ねてみなければ、正確な答えを出すことはできない。農民や様々な地方へ行った旅行者に質問したところでは、大いに異なった姿がでている。多くの地点では田植は順調とのことであるが、きわめて不十分なところもある。

 農民たちにとって、資本と生産力の損失を回復することはほとんど不可能であるが、これらの必需品の不足のまま、いまだに部分的な戦争状態および軍事占領状態のもとで仕事をしている。たとえば、南京周辺では、春の収穫がおこなわれるとすぐに、多くの農民たちは水牛を飼っておく危険を冒すよりは、これを売払って屠殺してしまった。洪水や旱魃にたいしては、なおさらのこと予備があるわけではない。2年続きの豊作の後では、気まぐれな自然は次の2年も豊作にすることはない。事実、この寧属区域は、長江の両岸にわたって拡がっているので、6月の雨で水びたしとなり、また揚子江中上流の水位が異常に高まり、さらに黄河と淮河の水が1つに合流して大運河からあふれることになれば(揚子江下流の河口部に増水すれば)、この地域に洪水が起こるのではなかろうかと、すでに大いに懸念されている。

 1931年の水害当時と比べて今年の救済問題を考えてみると、当時はこの問題に全体として取組み、大量の資材を救済にまわした政府のあったところに、はっきりした違いがある。現状においては、当局側は四分五裂という状態で(いくつかの地区ではそれもない)、その中で主要なものは軍事・政治作戦にあまりに緊密にかかわりあっていて、地元から定期的な収入をえることはほとんどないので、救済については相対的にみてあまり力を注いでこなかった。現存する当局者がどのような構成をもっていようとも、たしかに現実そのものは、農民たちに建設的な援助を与えるのに全力を尽すことを、彼らに訴えている。このような援助は人選上必要であるばかりでなく、共同社会と政府自体の経済的基盤を強化することになるし、大衆の善意と協力をうるには宣伝以上に限りなく大きな価値をもつものとなろう。さらに、物資の必要はきわめて大きいので、公的なものであれ個人によるものであれ、可能な限りの援助をあわせても、なお不十分なのである。中国国際飢餓救済委員会の経験と救済手段、あるいはその他のいかなる私的・非政治的救済団体のものであっても、政府当局がおこなうべき大規模な救済を有効に支えるものとして歓迎されるべきである。

 水路・鉄道・道路の自由な交通はどのような重要な復旧にも欠くことができない。実際上、このような交通の自由は、政策にもよるが、現実の安全にかかっている。交通の改善は、食糧およびあらゆる種類の家庭必需品の生産者・消費者の両者にとって、大いに必要となっている。燃料と原料は、それらがもっとも必要とされている所で、その入手が不可能となっている。

 平時においては信用貸の必要は大きかったが、その利子が高かった。現在では信用貸の正常な給付は概してないが、信用貸しの必要は倍加している。農村も市部も、あらゆる種類の銀行業務および現金と信用貸送金手段を必要としている。

 安全の必要は強調してもしすぎることはない。多くの場所では、1ヵ月以上にわたって、正常な労働と家庭生活が暴力によってたえず妨害されてきた。農家でも商店でも同様に、治安状態の悪いことから、交通や信用貸しが跛行的となり、労働意欲の刺激がそがれてきた。農民と都市労働者は逆境にあってもお互いに助けあって健気にやってきたが、これ以上の進展は、交通が十分に安全であること、兵士・盗賊その他あらゆる種類の泥棒から人身と私有財産を保護すること、ことに銀行や日用品の倉庫などの安全な施設にかかっている。もし政治・軍事状況のために、これ以上の安全が確保できないならば、悲惨な状況がひき続き、かつ増大するであろう。治安を欠く悲惨な状態が現在の不安の大部分をつくり出してきた。なんにしても、統一した強力で見識のある政府がなければ、この悪循環を断ち切ることは難しいであろう。

 戦争の影響を市部と農村について比べてみると、南京地区では手工業者・商店主・行商人などよりも、むしろ耕作者の方が一般に計画的な援助なしにでもやってゆけそうである。しかし、市部においてさえも、12月から3月にいたる交戦期のクライマックスの体験に耐えることができた住民に敬意を表すべきである。これらの住民のうち35%が、いまだに無料食堂あるいは現金買いのどちらかをつうじ、救済をうけて食糧の1部を入手しているのである。3月以来、好転してはいるが予備食糧は減少している。その上.物資は、農産物をのぞき、補充の機会をえないままに消費され続けている。物資の質的低下によって、毎日その悪影響が出はじめている。これ以上の経済的混乱が起ればはなはだしく困った状態になるだろう。しかし、アメリカ合衆国あるいはその他の諸国公共福祉関係者は、中国一般人民の忍耐と自分更生に驚嘆するであろう。さりながら、健康と生命維持をはかる機会にはらわれた犠牲はひじょうに大きかった。それでもうこれ以上その犠牲をはらわせるべきではない。

 南京における救済の主要な方法としては、もはや難民収容所は必要でないことが明らかになった。現在の減少した人口を収容するには、略奪されたり損傷をうけた家が十分にある。救済をもっともよく推進できるのは家庭と個人サービスを通じてであって、それは能力・熱意・方策のおよぶ範囲で食糧の配給・医療・雇用・信用貸や、離散した家族を再会させる助けなどをおこなうことである。しかし、公衆にとって燃料が手に入らなければ、共同炊事が必要となろう。都市のサービス機関、すなわち警察・保健・電気・水道・公共事業の回復と発展をできるだけ奨励すべきである。もし何らかのやり方でゴミ処理が行なわれるようになれば、健康状態は改善されるであろう。何らかの権威をもつ警察力があれぼ、物や人にたいする夜間の略奪行為を速やかに阻止することができよう。

 最後に、損害と必要物資の報告がその総額および平均額の形で必要となる。多くの人や家族や、農村あるいは市街が、統計や一般化した数字が示す以上に、はるかに深刻な被害をうけたことをけっして忘れてはならない。地域社会全体を考えて補償することは、平均以上に恵まれた側は、相応する品目があれば得をすることになるが、そのことは一層条件の悪い人たちに機械的に補償をすることにならない。救済の努力はそれをきわめて必要としている現実の個々の人たちに対して払わるべきであって、数字的報告だけによってはならないのである。


   4 附  録

    附 録 A

     調査の機構と方法にかんする覚書再記

  1 実地調査の手順

 J・L・バック教授がその調査のなかで行なっているように、「平均的な村」を設定する代りに、任意抽出のやり方に従って調査が進められた。現状のもとでの諸困難によって、調査員が現地に2度行くことが不可能となっていたからである。その上、1932年の上海周辺の農村地区で戦時調査をおこなった時のように、訓練された観察者の大集団を実地調査に向けることもできなかった。こうした機会もなく、1932年の戦争の被害がいかに部分的なものであったかを知っていたために.一定の間隔をおいて選ばれた任意抽出の方が、「平均的な村」をあわてて選定するよりも、誤りが少なくなると考えられた。さらに、このように一定の間隔ごとに間をおいて任意抽出を行なうことは、「代表的な事例」を選ぼうとするよりも、原則としては通常、より客観的なものであるといわるべき点がある。この方法でうまくゆかなかったように思われる一例は、江浦県の耕地調査の場合で、農家平均耕地面積と、それによる耕地面積の総計が多すぎるという結果になった。(第17表を見よ)

 この手続きは当初の予想以上に成功をおさめた。しかしながら、六合県では調査員が県の北部を掌握している中国人当局に身元を疑われ、委員会が手紙を出すまでスパイとして留置された。同じ困難が現地調査のはじまったときに高淳県でも起った。それでこの県は結果から落さなければならないことになった。六合県の方は南半部だけが報告に含まれている。溧水県では、中国側管理当局者は調充員に護衛をつけた。護衛は調査員に、彼らがえらんだ村へ、また村長がえらんだ村の家族のところへ行くように強制した。結果として、彼らのサンプルは悪い地域から出る傾向かあった。江寧県の西部では、調査員は10家族に1家族をえらぶうえで、地元の御都合主義の干渉にまかせた。サンプルとなった村を1つ1つ注意ぶかく点検すると、両方の誤りが明らかとなった。それにまた、それらがあまりでたらめなので、比較考量して誤りを正そうとしても、それを少なくするよりはむしろ増大させることになりそうである。それで、訂正はこころみられなかった。句容・江浦・六合の人々は抽出のさいの注意に非常に整然と従った。

 市部調査における建物調査をはじめるにあたっては、ただメイン・ストリートだけを網羅するつもりであった。しかし、それでは家族調査と建物調査をつき合わせることが難しいということがわかった。それは、市内に残留していた家族が当初の人口の4分の1にすぎず、しかも貧困暦の人々だからである。その結果、損害の全体を推定するために建物調査は市内の各建物におよんだ。もしこれが最初から予想されたならば、建物10ごとに1をえらぶよりもより少ないサンプルによって損害価格の推定が行なわれ、したがって.結果を出すには手っとり早かりたであろうが、これでは正確さは失われたと思う。

  2 集計上の手続き

 206家族につき1家族という農業調査の抽出サンプルは、1931年の水害調査の359家族当り1家族の抽出と、上海事変(1932年)の影響をうけた局辺農村の調査の79家族に1家族という抽出の中間になる。しかし、江寧県では抽出度はもっと低く(398対1)、溧水県では相対的に高い(140対1)。(第17表を見よ)

  3 正確度の点検

 (1)「既往の調査」は、『中国における1931年の水害』と、「上海事変1932年)の影響をうけた農村地域の調査」("Survey of the Rural Areas affected by the Shanghai hostilities")、およびバックの『中国における土地利用』といった形での調査を利用することができた。たとえば、1931年の水害調査で回答のあった種籾需要の県平均(第17表)を現在の調査の4・5県にあてはめてみれば、21万1000「10担」という数字が出てくる。ここでえられた結果(第22表)はわずか12万5200「10担」である。1家族当り平均損害220ドルは、この地域の破壊がもっと長く続いたことを考慮に入れるならば、1932年の上海事変当時の1家族当り平均損害147ドルと比べて、大して多いともいえない。比較はその都度、損害項目に応じておこだわれている。『中国における土地利用』は平時における実際の農家財産目録と報告された損害とを比較するのに役立った。

 (2) 「独自の数字」をできるところではどこでも手に入れた。関係ある全耕地面積の独自の推定は調査した農村作付面積を点検するのに使われた。(第17表を見よ)現在の南京市の人口に関しては、12月・1月に日本軍によって登録された人数と、5月31日現在で新市政府が発表した登録者総計とがある。南京における建物にかんする独自の計算あるいは評価額の資料は入手できなかった。都市の家族の損害と救済調査員に報告された損害を全項目にわたって比較するのは不可能であった。というのは、その報告ははるかに大ざっぱであり、建物については大部分の場合、損害価格をあげることができなかったからである。しかし、寝具・衣服・現金などの項目については、3月中に救済をうけた家族(9256家族)の1家族当りの平均損害は162・83ドルという記録であった。われわれの調査における項目についての1家族当り平均損害が124・96ドルであるのは、前者が「救済家族」(といっても市内の家族総数の20%がそうなのであるが)であった事実をみとめるにしても、ひかえ目な数字である。

 いろいろな地域や階層を代表する南京の住民の平時における状態を、残留した人だもの生活と比較するには、1932年のスミスによる2027家族の調査が利用できる唯1の労作である。しかし、それは「平時」からの偏差を若干推定することを可能にした。

 さらに市部調査における独自の点検は、調査をおこなうグループがその状況を体験し、かつどの点でも、調査の結果が既知の状況にそれぞれに符合するかどうかをきびしく検証することができるということであった。(しかし、調査の結果に変更を加えたところは1つもなかった。)もっとも驚くべき符合は軍事行動によってひきおこされた損害の程度の低さであって、この事実は容易に多くの人々によって12月14日に観察されたことである。逆に放火と略奪の規模と方法は目撃者によってしか理解されなかった。調査は実際の損害価格の額をもっと正確に計算している。

 (3) 農業調査・市部調査の双方における「内部的密度と適度」は、一般的結論と細部における多くの点を支えている。このような内部的点検は記録の過程をつうじてずっとおこなわれてきたので、ここでは2、3の例をあげておけばよい。農業調査において各県の調査結果の変動の度合は、既知の地方の状態をもっともらしく予想した範囲を越えるものではない。収獲物にたいする破壊(全体中では小さな要素)を除いて、各県の損害の順位は各項目中の相関関係をかなりはっきりと示している。

 市部調査において、各家族当りの平均損害は、家族調査の示すところによれば、貧民層が残留したという事実(けっして極貧層のみに限らないが)を考慮に入れれば、建物調査の結果ときわめてよく符合する。(第3表と第27表を比較せよ)殺害された者・拉致された者の性別・年齢別分布は.1932年現在の住民の数字と比較して、青年男子の比率の低下と符合する。家族構成の分析の示すところでは、破壊された家族の比率は移動者・殺された者・連行された者の数から考えて予想されるものと同様である。(第2表・第3表・第5表を比較せよ)

 調査の数字が適度であった例としては、農家の損害を推定するさいに用いられた価格が時価であって、それは平均を下まわっていた。貯蔵穀物の被害は5・9「10担」で、これは、1931年の水害と1932年の上海事変のさいのものとほぼ同じであるが、季節の点と、この地域における軍隊の移動と軍事行動が2年続きの豊作のあとにつづいたこととを考えれば、むしろ少ないといえる。さらに、今年の米の収穫は問題の期間の前に移動させる機会をほとんどもたなかったのである。

 市部の損害調査の数字も適度である。建物の損害271ドルでは、きわめてささやかな家を1軒建てることができるにすぎない(しかし、残留している家族のうち大きな比率をしめるものが自分の家を持っている)。営業用動産の損害291ドルは、残留している人びとの小さな商業グループの範囲に属するものである。家庭用動産の損害276ドルについても同様である。1家族当りの全財産損害838ドルは戦前の2年分の収入にひとしい額にすぎない。兵士による略奪がおこなわれたことを考えると、誇張が起りうるとされた項目は金銭である。しかし、これは1家族当り9・53ドルの被害にすぎず、救済をうけていない家族が各自に1カ月の生活を支える米代として支出するものよりも少ないのである。(第9表を見よ)


    附 録 B

     家族ぐるみの移動、その居住者人口・移動・損害・労働力補給・死亡の報告にたいする影響の可能性

 調査員は、農家調査の補足として、調査の道順における村のうち2つおきの村で少なくとも3人の指導者に、農家調査に含まれるのと同じ点にかんし村人についての推定数を注意深く質問するようにと求められた(1)。この方法は、1931年の洪水当時にも採用されたもので、バック博士の指導のもとにすすめられた「土地利用調査」ではもっと広く用いられた。3月にはこのような方法で224ヵ村、つまり平均1県につき50ヵ村(4・5県)についての報告がおこなわれた。この数字の主体は、農村調査の全体像を確認するものであったが、調査のなかでも個別的な結果では不規則に変化していた。これらの数字は部落に代って推定したもののみからなりたっていたので、現場でえられた各農家のより正確な個別報告ほどの価値をもたない。それゆえにわれわれは一般的な表と報告には村のデータを使用しなかった。

(1)寧属地区では、全農民が村に住んでいる。であるから、農家と村落家族は同意語である。

 しかし、この農村のデータはある1点ではこれ以外の方法では手に入らないような事実を解明してくれる。それらによって、移動したまま帰って来なかった全家族の推定数を知ることができる。ところが、農村調査では現在、農村に住んでいる全家族あるいは家族の一部にのみふれうるにすぎなかった。こうして、このような数字は、われわれの調査のなかでえられた人口・移動・損害・労働力補給・死亡率などの推定数を、補足したり訂正したりすることができることを示す。農村調査の推定数の細部については公表する価値があるとわれわれは考えないが.そこから出しうる最上の結論は、当初の住民のわずか70%しか3月、現在で居住していないということである。家族のメンバーのうち11%が家を離れているという農民個別調査の記録とこれとを比べてみると、戦時下の移動が通常、家族ぐるみおこなわれたことを示唆している。この結果は市部調査でも確認されており、1931年の水害の記録とも事実上一致するという点(1)で驚くべきものがある。

(1)「全住民の40%が家を離れなければならなかった。31%は家族ぐるみ、9%は個人として。」「中国における1931年の水害」27頁。

 移住したといわれている30%の家族のうちのあるものは、調査した県のうちでも調査員の手が十分にとどかない遠くの山地に今でもとどまっているということはありうる。それでも入手した抽出例はかなりよく全体をカバーしている。調査地域の損害推定額に家族移動を考慮して修正を加える必要はない、と考えるのも正当なこととされるであろう。というのは、推定額は、調査をおこたった家族1戸当りの平均損害に当初の家族数をかけあわせて算出したものだからである。市部でも農村でも共通して見られたことは、概して家を離れた家族は現地に残って家を守っていた家族よりも大きな損害を蒙ったということである。この移動した家族が時として家畜や持運びのできるわずかの家財を何とか移動させることができた場合に、両者のみぞが1部うめられたにすぎなかった。そして、その上に、ここに記録された損害の大半は、実際には簡単に動かすことのできない所有物の損害だったのである。

 もし30%という数字を信頼してよいならば、第23表にある家を去って戻らなかった人の数は、総計49万6590人に増加することになろうし(当初の住民の人口推定数121万1200人の41%)、働き手の現実の不足もはなはだしく増加することになろう(3月現在として表に示されている働き手の総数44万7400人から17万3600人(ママ)をさし引き、1家族につき平均2・8入の働き手の比率で計算すると、6万2000(ママ)家族になる)。しかし、それは戻ってくる意志があるかどうか報告されていないので、はっきりはしないが、これよりも数は減じるにしても、予想された働き手不足は増加するであろう。

 死亡者の数(第25表)は全部、調査家族についての割合で表わしてある。それで、これは、推定されている30%の家族が、居住民の多数よりもその死亡件数が多いか少ないか、いずれかであったと考えられるのでなければ、変更をうけることはない。おそらく、初期に移動した家族、またかなり遠くへ行ったか、あるいは南京市内でも比較的安全な地区にいた家族のうちには、他のものよりりまく暮らしてゆけたものもあろう。他方、ある家族が移動したまま帰ってこなかったのは、単に家族自体あるいは一緒に行った隣人たちが兵士による殺害・傷害・放火をすでに体験したからであった。

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