城壘22


丸MARU 1990年10月号 通算531号 連載22回 
極東軍事裁判にみる南京事件
 南京での戦から半世紀がたち、極東軍事裁判が終わってからも既に四十年という長い年月が過ぎた。そのときの極東軍事裁判の膨大な記録は、文書でそっくりそのまま残っており、また裁判の様子をたんねんに撮ったフィルムも現存している。法廷でのやり取りは四十年たった今でもほぼ再現できる。
 極東軍事裁判が開かれているとき、日本人は敗戦からくる衝撃だけでなく、毎日が食べることに追われていたから、その裁判を、勝てば官軍、と半ばあきらめて見ていた人がほとんどであった。
 しかし、四十年に及ぶ年月は、裁判という名前にかかわらず不公平さに満ちあふれていたことや、強制された儀式であったことをあらかた消してしまい、いま再現できる極東軍事裁判は、表面上のものだけである。
 記録というものは、たとえそれが虚偽に満ちていたものであっても、存在することでひとつの力を持つ。特に極東軍事裁判の記録は、分厚い辞典の十冊分にもなる膨大なものである。それを見ただけで、ただ盲目的に信頼する人も多いだろう。
 私は現在残っている膨大な記録の裏にある極東軍事裁判のもう一つの面を関係者から直接聞きたいと思った。特に南京事件についての一面を。
 極東軍事裁判の南京事件における関係者といえば、責任者として絞首刑になった松井石根大将と、その弁護を引き受けた伊藤清、大室亮一、上代琢禅の三人である。
 この三人の弁護人が松井大将の弁護を引き受けるいきさつはこうだった。
 極東軍事裁判の日本弁護団団長は鵜沢聡明が引き受けていたが、この鵜沢弁護人が各被告の弁護人について奔走し、伊藤清と親しかったことから、伊藤清に松井大将の主任弁護人を引き受けてくれるように依頼した。
 伊藤清は鵜沢聡明の依頼を引き受けることにし、松井大将の主任弁護人となった。しかし伊藤清一人では不十分だったので、伊藤清は旧知の大室亮一と上代琢禅に手伝いを頼むことにした。こうして三人の弁護人は決まった。
 三人ともそれまでの松井石根とは全く面識がなかった。このうち、大室弁護人は既に横浜で行われていたBC級裁判の弁護人をつとめていて、そして昭和二十三年十二月には法務省人権擁護局長になったから、実質的には伊藤清と上代琢禅の二人が松井大将の弁護にあたった。
 裁判が始まると、主任弁護人は常に法廷にいなければならない。そのために伊藤弁護人は法廷から動けず、上代琢禅弁護人と打ち合わせをする場合は常に法廷内で行った。王代弁護人は三十代と若かったこともあり、必然的に証拠集めなど外の仕事を中心にやるようになった。
 絞首刑となった松井大将はもちろんのこと三人の弁護人も既に亡くなっているが、上代弁護人は三年前までは健在で、亡くなる直前、会って話しを聞くことができた。
 そのとき、上代弁護人は八十歳を迎えようとしていたが、まだ第二東京弁護士会所属の弁護士として第一線で活躍していた。話しを聞いてまもなく死ぬなどとは思えないほど元気であった。
 上代弁護士から最も聞きたかったことは、弁護人たちは極東軍事裁判をどのように考えていたのか、すなわち、それはまともな裁判であると考えていたのか、あるいは単にセレモニーとしてとらえていたのか、ということであったが、その他にも尋ねたいことは。いくつかあった。即ち、極東軍事裁判の南京事件についての記録を読むと、中国側は数多くの証言を提出しているが、弁護側はこれに積極的に反対したり反対尋問をせず、結果として中国側の証言を認めた形になっている。これらの証言はあまりにも南京の実情とはかけ離れているが、松井大将や弁護人はどのように聞いていたのであろうか。また、松井大将は冒頭陳述で事件を否定しているが、のち日本軍の残虐行為を認めているような証言もしている。極東軍事裁判の記録を読むかぎりではそうである。本当はどうであつたのか。尋ねたいことはこういうことであった。
 約束の日に上代弁護士の事務所を尋ねた。虎ノ門から新橋にかけては弁護士事務所が並んでいるが、上代弁護士の事務所はその一画にある。
 案内された部屋に入ると、部屋は弁護士の部屋らしく、三方が法律書で囲まれ、大きい机の向こうには弁護士らしい知性をただよわせ健康そうな肌をした上代弁護人がいた。
 数ヵ月前から私が聞きたいことは書面にして差し上げていたので、上代弁護士は私の訪問の主旨はよくわかっていたはずである。会うまでに数ヵ月もかかったのは上代弁護士から簡単に返事が貰えなかったからである。最初手紙を差し上げたけれど、良い返事は貰えず、その後、私を上代弁護士に紹介してくれた人や質問の内容を何度か手紙に書いてようやく会えることができたのである。一言でいえば、歓迎されざる訪問であった。
 挨拶がすみ、歓迎されていないことから私はやや躊躇し、さて何から尋ねようかと思っていると、突然、上代弁護人の方から話し出した。
「東京裁判は一言で言えば演劇です。法律家から見れば裁判として全然問題になりません。常識外のことでした」
 執務机の向こうで上代弁護士は立つたままこう言った。年でもあり、弁護士という職業柄言い方はソフトであるが、言っている内容は厳しいものである。私は驚き、あまりのことに返すべぎ言葉がなかった。
 すると、上代弁護士は続けた。
 「東京裁判の性格というものは、法廷が開かれてすぐに清瀬弁護人が管轄権の動議を提出しましたが、これにつきると思います。
 裁判所はそのときこの動議を却下しましたが、最後までその理由を述べることができませんでした。こういう中での裁判ですから裁判の名に値しません。
 それは私か学んだ刑法理論か通用しない裁判でした。
 毎年、暑い夏になると、南京事件があったとかなかったとかそれぞれの立場から発言がありますが、私はそれを聞くたびに胸が塞がる思いがします。松井大将は死刑になりましたが、誰が南京で大虐殺があったと考えていますか、誰も南京で大虐殺があったと思っていないでしょう。東京裁判がどういうものかわかっているなら、論争がおこるのはありえないことです。毎年、夏の論争にはむなしくなります。
 南京事件に限らず、東京裁判で取り上げられたものはすべて私が学んだ刑法理論が通用しない裁判でした。今、南京事件について論争している人は、法廷で繰り広げられた演劇を事実と思いこんで論争しているのです。
 南京事件を歴史的事実として論争しているのならなにをかいわんやです」
 最後の方はほとんどあきらめているように述べた。
 上代弁護士の言ったことは、清瀬一郎、林逸郎、滝川政次郎など東京裁判で弁護人をつとめた人達が裁判後に書いた手記などと同じである。これらの手記はよく知られているが、しかし、活字を通して知ることと、このように直接言葉として聞くのとでは全く違う。しかもその言葉は厳しさを持っている。
 「そうですか」
 ようやく私か一言いうと、上代弁護士はさらに続けた。
「東京裁判を詳しく知りたいのならパール判事の判決書をごらんください。パール判事の判決書には日本人弁護人の考え方が述べられています。
 パール博士は法律的に日本人の考えを代弁しています」
 こういいながら、上代弁護士は法律書が並んだ書棚から一冊の本を取り出し、頁をめくった。何度も読み返していると見えて、ところどころ赤くアンダーラインが引いてあるのが見える。

裁判記録にない弁護人の発言
 極東軍事裁判には連合国十一力国から一人ずつ判事か選ばれたが、インドを代表してパール判事が判事団に加わった。パール判事の意見は少数意見であったため、判決には全く反映されなかったけれど、時がたつとともに評価され出した。パール判事自身は裁判が終わってから帰国したが、その後再び来日している。
「パール判決書の最後の部分に東京裁判についての見方が要約されています。
 読んでみましょう。
 『感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は教育的というよりは、むしろ興行的なものであった』
 『時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった時には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう』」
 上代弁護士はこのようなパール判決書の最後の部分を読み、そして読みおえると再び私の方に向かって言った。
 「パール判決書のこの部分は名言だと思います。後世はパール判決書をきっと評価してくれるでしょう。」
 裁判官は判決について何も述べないことになっていますが、東京裁判に関して、私は法律家として弁明には意味がないと思っています。そういうことを理解した上でおたずねください」
 極東軍事裁判に関する上代弁護士の考えはこのようなものであった。上代弁護士から見れば、私も極東軍事裁判という演劇について論争している一人である。上代弁護士が、毎年夏の論争にはむなしくなります、と話したことは私に対する非難でもある。
 このようにはっきりと極東軍事裁判が演劇であったと言うのなら、これまで手紙で差し上げていた質問を改めて尋ねるのも無意味である。私は上代弁護士が話したことを頭の中でもう一度思い返してみた。
 そうやってしばらく私が沈黙していたので、上代弁護士はさらにこう言った。
 「東京裁判というものは裁判に値しないものでした。勝者が敗者を裁いただけのことです。ただ涙をのむしかなかったのです」
 私はもうおいとましようとした。
 すると上代弁護士は、既に私か差し上げていた質問に対し、これも一方的に答えた。私は上代弁護士が言うことをただ聞くだけであった。
 上代弁護士が答えたことは、私の質問ととも。に列記するとこういうことである。
 質問一 多数の中国側の証人が日本軍の残虐行為を証言したが、なぜ弁護側は反対尋問をしてその偽証をあばかなかったのでしょうか。「日本軍が南京を占領したとき兵隊による不道徳はあった、と弁護側は考えていました。それは戦場の常です。南京に限らず、上海でもあったでしょう。古今東西戦場ならどこでもあることです。
 弁護側は、この兵隊の不道徳に対して松井軍司令官に責任があるかどうかという点で争うつもりでいました。つまり、不道徳は不道徳で兵士の問題であり、戦場ならどこでもあることですから、松井軍司令官の責任はないとおさめようとしました。数人の参謀しかいない軍司令官に責任はないと考えていました。ですから、事実や数で争うつもりはなく、中国側が主張する不法行為などをつぶすことは最初から考えていませんでした。それで反対尋問はしなかったのです。
 法廷で述べられた数多くの証言についていえば、私はまゆつばで聞いておりました。今、記録を読んだ人がどう受け取るかわかりませんが、当時、法廷では皆がありえないことだと考えていました。まわりの誰もがそのときの証言を偽証だというのを知っていました。だから全然問題にしていませんでした」
 質問二 中国側から提出された証拠に対して、これもなぜ中国に行って検証するなどしなかったのですか。作られた証拠が明白だとしても積極的につぶすべきではないでしょうか。
 「最初、埋葬表など見せられたとき、これは全くありえないことだと思いました。それは他の証拠についてもいえます。
 しかし、検証は裁判所から許されないし、そういう申請を出したとしても、裁判所は却下します。東京裁判を普通の裁判と考えること自体が間違いなのです」
 質問三 南京にあった金陵大学のスミス教授は南京陥落後に南京市の戦争被害に関する調査を行った。その報告は市民の被害を示してはいるか、中国側の提出した証言や証拠が桁はずれに膨らまされていることを示している。弁護側はこれを提出しようとは思わなかったのですか。
 「スミス教授の統計につきましては弁護側が用意しましたが裁判所が取り上げなかったのです。軍令など公文書は取り上げましたが、その他の弁護側が提出するものはとりあげてくれませんでした。
 証拠集めや証人の依頼は私がやり、中山寧人さん(当時、中支那方面軍参謀)などの証人のアフィダビット(宣誓口供書)も私が作りました。
 証拠となるものならなんでもと思い、宣撫班の写真や絵葉書なども集めましたが採用になっていません」
 質問四 全体として、弁護側の証人や証拠より検察側の証人や証拠が数量においてまさっていると思われますが。
 「弁護側のものは裁判所が却下することが多かったのが一つ。それと、武藤さん(章大佐、当時中支那方面軍参謀副長、のち陸軍省軍務局長、極東軍事裁判で被告の一人になり、絞首刑になる)の考えですが、中支那方面軍の下に上海派遣軍として第十軍があり、上海派遣軍の司令官が朝香宮でしたので、兵士の不道徳行為の責任が朝香宮にいかないようにしようということになり、そのため証拠をぽかすようなことがありました。ですから、松井大将に有利な証拠でも提出しなかったものがいくらでもあります。
 また証拠、証人集めに走り回った私として、復員局は持っている資料を見せてくれて協力的でしたが、それ以外の所は冷たいものでした。協力的だったのは軍関係者だけでした」
 質問五 松井大将は南京でどの程度の残虐行為があったと考えていたのでしょうか。虐殺を認めていたような記述、発言もありますが。
「松井大将は、軍隊がああやって南京まで行ったのだから、軍紀に反するようなことや不道徳はあったと考えていましたが、虐殺があったとは考えておりませんでした」
 こういいながら上代弁護士は、裁判が終わってから松井大将が上代弁護人に贈った漢詩の内容について説明してくれた。詩は五言絶句である。
 囚窓当両歳
 如夢仏心安
 裁鬼将来襲
 何時到涅槃
 「この句にあるように、松井大将は東京裁判を裁鬼と表現しています。松井大将にとって東京裁判は裁鬼と表現するほどのものだったのです。ですから裁判所の主張は認めてはいませんでした。
 しかし、松井大将は裁判で自分に関する事実だけを述べ、刑に対しては弁明しませんでした」
 質問六 極東軍事裁判の被告にはアメリカやイギリスの弁護人が一人ずつついて、松井大将にはマタイス弁護人がついていましたが、マタイス弁護人とどのような働きをしたのですか。
 「マタイス弁護人は熱心にやってくれましたが、日本人と感覚が違っていたので困りました。我々が集めた証拠を無駄だと提出に反対したり、基本路線でも食い違いがありました。それはアメリカ流の弁護士だから仕方ないと思います」
 以上が私の質問に対する上代弁護士の答であった。
 極東軍事裁判後、南京事件はしばしば話題になつた。しかし、関係した弁護人たちはほとんど発言しなかった。裁判当時、新聞を賑わした中国側の証拠や信憑性がいかはどのものだったのか、もっともよく知っていた人たちであるからもっと発言してしかるべきだと思われた。しかし、なぜ発言しなかったのかは上代弁護士の説明が説き明かしてくれた。それは、極東裁判は演劇であり、言及する価値すらないからだというのだ。
 上代弁護士の話しは膨大な裁判記録には載っていない。しかし裁判の実態を伝える話である。
 上代氏はそれから一年ほどして亡くなった。多分、これが南京事件についての最後の発言であったに違いない。(つづく)

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