城壘21


丸MARU 1990年9月号 通算530号 連載21回 
問われた南京虐殺の責任
 昭和十二年に行われた南京攻略戦は、八年間にわたる戦争のはじまりで、日本は支那だけでなく、さらにアメリカ、イギリス、オランダを相手にし、最後には敗北した。
 日本が受諾したポツダム宣言は戦争犯罪人を裁くことを述べており、進駐してきた連合国側は一と月もしないうちに戦争犯罪人の逮捕をはじめた。やがて東京市ヶ谷に極東国際軍事裁判所か設けられ、侵略戦争を始めたり、非人道的行為をした者として二十八名が起訴され、裁判にかけられることになった。南京を攻略した日本軍の最高司令官であった松井石根大将もそのなかの一人であつた。
 裁判所は昭和二十一年五月三日に開廷し、裁判はそれから二年六ヵ月続いた。
 判決公判は、昭和二十三年十一月に始まり、十一月十二日午後三時五十五分から刑の宣告が行われた。
 松井石根大将に対する刑の宣告は絞首刑であった。他の被告と違って、戦争の共同謀議とも、戦争を遂行した罪とも関係なく、いわゆる南京事件の責任だけを問われ、しかも絞首刑を宣告された。日本軍が南京を攻略したとき、投降者、市民などを不法に虐殺したというのである。南京事件はそれほど極東軍事裁判で重大なできごとだとみなされていた。
 この判決では松井大将の他に六人にも絞首刑か宣告されたが、絞首刑の宣告を受けた七名は、他の十八名と区別され、巣鴨拘置所に戻ると、別の棟に移されて、そこの独房に一人ずつ入れられた。この棟には五十以上の独房があったが、使われたのは七つの独房だけである。
 独房に入ると、二人一組の監視兵が六時間交代で七人を監視することになった。その他に衛生下士官が十五分ごとに七名の呼吸と脈を調べ、その上、監視の長である将校と軍曹も異常がないかどうか十五分ごとに調べる。自殺されては困る、七人は処刑するのだ、という連合国側の気持ちが表れていた。人生の最後を迎えるにあたってうるさすぎる警備であった。
 一方、判決が下りると、弁護団はただちに裁判所条例の規定による再審の申し立てを占領軍総司令部に行った。
 この申し立てに対して、判事団の各国代表が集まったが、申し立ては簡単に却下された。
 刑の執行はただちに行われるはずであったが、ファーネスなど何人かのアメリカの弁護人がさらにアメリカ法に基づいてアメリカ連邦最高裁判所に人身保護の申し立てを行った。このため占領軍総司令部は十一月三十日処刑をいったん延期した。
 処刑が延期されたため、十二月一日には突然七名に対する面会が許可されることになった。判決後最初の、そして最後になった面会である。
 この面会で松井大将は自ら面会人を指名した。
 松井大将の指名した面会人は四人で、文子夫人、養女の久江さん、実弟七夫中将夫人、それに岡田尚の四人である。
 面会が行われると決まったとき、これが最後の面会になるだろうと弁護人からいわれていたが、面会人を指名してきたことからもそれが本当てあることを四人は知った。
 四人のうち、三人は松井大将の親類縁者であるが、岡田尚だけは違っていた。岡田尚の父は有民といい、頭山満、萱野長知などと同じように孫文の中国革命を援助した日本人の一人である。明治の半ばから中国に渡り、商売をするとともに、教師をもしていた。尚はそのころ、杭州西湖で生まれた。
 大正の半ばになると、有民は国民党西山派を援助し、昭和に入り、福建人民政府が樹立されたときは当時の台湾軍司令官松井大将とともに福建人民政府と国民政府との間に立った。そんなことからも松井大将とは昔から親しくしており、尚も子供のころから松井大将を身辺に知っていた。松井大将は子供がいなかったせいもあり、尚を子供のようにかわいがった。岡田尚は松井大将を「おじさん」と呼び、松井大将は岡田尚を「たかし」と呼んだ。
 尚は上海で育って、中学時代を日本で過ごした。その後、東亜同文書院に入学するため再び上海に戻った。
 東亜同文書院卒業後も中国にとどまり、昭和十年、松井大将の推薦で国策会社・興中公司に入った。仕事の場は主に中国であった。
 昭和十二年、松井大将が上海派遣軍司令官に親補されたとき、岡田尚はたまたま日本にいたが、東京大森にある松井大将の自宅に呼ばれ、軍司令部嘱託・軍司令部付として同行するように命ぜられた。
 岡田尚は、いわゆる公用中国語である北京官話だけでなく上海語もでき、小さいときの環境から中国の要人に知り合いも多い。そのため、上海ではこれら要人と連絡を取り、和平工作などをするためだという。
 松井石根は軍人として大将まで進み、名をなしたが、心の中ではどうやったら日中間が仲良くできるかばかり考えていた。そのため、現役を引退したころは軍人としてより、政治家として中国との交渉にあたる仕事をしたいと思うようになっていた。そういうことから、軍司令官に任命されると、すぐに和平のことを考え、岡田尚を連れて行こうとした。
 上海に上陸すると、さっそく岡田尚は上海租界で旧知の中国人と連絡を取り合い、情報収集にっとめた。
 やがて南京が陥落し、南京に入城して上海に戻ったが、ほどなくして、松井軍司令官に呼ばれた。
 軍司令官室に行くと、和平工作の話であった。外交ルートを通した和平工作は東京で行われていたが、うまく進んでいない。そこで松井大将は経済人を通して和平工作を行おうと考えた。日中の経済人同士で和平を進め、国民政府がその話にのりやすいようにしようというのである。
 当時、中国の経済人で最も力があったのは宋子文であった。宋子文は浙江財閥の一つである宋一族の長子で、姉妹三人は孔祥煕、孫文、蒋介石の夫人となっている。宋子文自身国民政府の財政部長をつとめており、国民政府内で大きい影響力を持っていた。

作られた南京維新政府
 松井軍司令官は、交渉の相手として宋子文が適任と考え、岡田尚に宋子文と連絡を取り、この話を打診するように命じた。
 岡田尚はさっそく河北政務委員最高顧問であった李択一にその計画を打ち明け、宋子文と連絡を取ってくれるように依頼した。やがて李択一から返事が来て、宋子文は香港にいるが会ってもいいという。
 そこで岡田尚は年明け早々の一月四日、上海を出発して香港に向かった。十一日に香港に着き、十四日李択一とともに宋子文に会った。
 要件を述べると宋子文は主旨を了解し、早速政府と連絡を取ってみるので数日待つてほしいと返事をした。順調なすべりだしに岡田尚は喜び、さっそく祝杯をあげ、香港にとどまって返事を待つことにした。
 ところが十六日午前、突然、李択一から、日本政府は蒋介石を相手とせす、との声明か新聞に載っているがどうしたのかとの電話があった。岡田尚はあわてて日本領事館に行き、中村領事に問い合わせた。中村領事も新聞を見て知ったばかりでそれ以上にことはわからない。岡田尚は改めて宋子文に面会を求めると、宋子文は気持ちよく会ってくれたが、このまま話を進めていいのかどうかとたずねてきた。
 政府からこのようなはっきりした声明が出れば条件は一変しているはずである。岡田一人が逆らってもどうしようもない。断らざるをえなかった。追いかけるように翌日、上海の臼田大佐から工作を打ち切って上海に戻れとの命令がきた。こうして宋子文工作は終わった。
 上海に戻った岡田尚には新しい仕事が待っていた。今度は南京の維新政府設立のための仕事である。松井軍司令官は、日本軍が占領した地域については、いつまでも占領のままにしておかないで、中国人による行政を行うのが良いと考えていて、中国の行政機関の設立を進めるよう指示していたけれど、岡田尚にも協力するようにというのである。
 岡田尚は早速上海と南京で新しい仕事に携わりはじめたが、そうしているうちに松井大将は畑俊六大将と交代して東京に帰ることになった。
 軍司令官をやめるに際して、松井大将の気掛かりは新しい政府のことであったから、岡田尚としてはなんとかして松井大将の在任中に維新政府の骨格を決めたかった。
 二月下旬、松井大将が帰る直前になりようやく梁鴻志以下の維新政府の陣容が決まり、松井軍司令官と維新政府の首脳との会談をすることができた。岡田尚はほっとした。
 岡田尚は一緒に戻れるものと思っていたが、松井大将の命令でそのまま残ることになり、三月の維新政府発足を見届けた。しかし、そこでも手を引くことはできず、維新政府顧問部事務局長として引き続き仕事をすることになった。

 判決が下りるまでの面会は共同の面会場で行われ、隣の面会人との間は数メートルも離れていなかった。絞首刑が宣告されたあと七人は別棟に収容されたため面会場は変わった。
 面会場は新しい棟の中にあった。四人は指定された部屋に入ると、部屋には椅子があり、そこに座って待つことになった。部屋は大きく、中央には金網が張られ、こちら側と向こう側とに分けてある。金網の向こう側の部屋にもドアがついている。松井大将はそのドアから入ってくるらしい。岡田尚は金網の前で待ちながら、ふと何度か前の面会場でのことを思い出した。
 そのときの面会では松井大将の隣に板垣征四郎大将がいた。岡田尚が松井大将の前に行くと、金網の向こうで松井大将が板垣大将に向かって、  「これが岡田の息子だよ」
 といった。板垣大将も中国とは関係が深かったから、二人の間で父の話が出たのだろう。その板垣大将も松井大将同様絞首刑を宣告されている。  そんなことを思い出しながら待っていると、下駄をがたんごとんさせて来る音が聞こえた。やがて金網の向こうのドアが開いてアメリカ軍の憲兵が現れ、そのあとから松井大将が入ってきた。
 いつものように瓢々として、判決前に会ったときと少しも変わらない。ただ以前は国民服であったが、今日は白い着物のような獄衣を着て、サンダルを履いている。その服装か今日は今までと違うことを示していた。
 三人の女性は、松井大将を励ます立場であったけれど、松井大将を見るととたんに涙ぐんでしまった。逆に松井大将が、
 「涙をこぼしてもしようがない」
 と励ました。松井大将の話しぶりはいつもと全く変わらなかった。
 松井大将は極東軍事裁判で身に覚えのない南京事件を持ち出されたから、絞首刑になろうとは思ってもいなかった。ただし、満州事変や支那事変の際、軍の中枢にいたわけではないが、上海・南京戦のときの軍の最高司令官であったし、最後は負けた戦いだから、有期か無期くらいはあるかもしれないと思っていた。
 岡田尚が以前面会に行ったとき、松井大将はそのような見通しを話していたし、岡田尚自身、南京では松井軍司令官と終始一緒にいて、検事側か述べたようなことは見たこともなかったので絞首刑は予想もしなかった。文子夫人も久江さんも七夫中将夫人も松井大将から同じことを聞いていたから、絞首刑の判決には腰が抜けるほど驚いた。
 松井大将は、「こうなったのも国の犠牲だから」 ともいって三人をなぐさめた。
 三年ほど前、松井大将に出頭の命令が出て、巣鴨の拘置所に入ったとき、既に七十歳であり、胸もやんで体が弱くなっていたから、たとえ有期になったとしても、生きて自宅に戻れるとは考えていなかった。出頭を命ぜられたときも肺炎をわずらっていて四ヵ月も延ばしてもらったほどである。そのため、巣鴨に入ってからはよく写経をして心を静めていた。
 だから絞首刑を宣告されても今までと変わりがないのだ、と松井大将を見ながら岡田尚は思った。

刑場の露と消えた松井大将
 松井大将は、三人の女性を励ますと、やがて四人を前に訥々と話し出した。松井大将は兄弟の中で唯一人の生き残りとなっていたので、生家の先祖の位牌を家に置き、いつも拝んでいた。松井大将の頭の中にはこの松井家の位牌のことが最もあったらしく、これを弟七夫の長男にお守りさせようと考えた。そこで、文子夫人と七夫氏の夫人にそうするように命じた。
 次に松井大将は一人おいていく夫人のことを思った。
 二人の間には子供がいなかったので常日頃松井家はこれで終わりだと思っていた。ところが、敗戦で戦犯に指名され、巣鴨に入ることになり、文子夫人を一人おいていくことになった。そのため、一人で淋しい思いをしてかわいそうだと、急遽女中の久江さんを養女にすることにした。
 久江さんは大正八年、松井大将が姫路の連隊長をしていたとき、女中として松井家で働きだしたもので、そのとき十四歳だった。それから松井家の女中として、松井大将が移るたびに一緒に移って家族同様に過ごしてきた。
 松井大将は、夫人のためできるだけのことをして巣鴨に入ったが、これからは本当に文子夫人を一人にしてしまう。
 その文子夫人に、これからは興亜観音をお守りしながらやっていくようにいった。
 松井大将は昭和十三年上海から戻ると、上海と南京で死んだ日本と中国の兵士をとむらいたいと思い、また、同時に日中親善を願った。そのため上海の激戦地の大場鎮の土と、戦場で荼毘に付された戦死者の灰を芯にして観音像を作ろうと思いたった。中国から土と灰を持ってくる役は岡田尚が命じられた。松井大将は岡田尚に、特に血のある土を、と命じた。
 上海から戻ってきた松井大将は、東京の大森から熱海に引っ越していたが、観音像ができると、これを興亜観音と名付け、熱海の伊豆山の中腹にお堂を建ててここにおさめることにした。そして多くの人の寄進を受け、興亜観音は昭和十五年に開眼式を行った。それから松井大将は毎日観音堂まで登り、堂守りをしてきた。日本の戦いが激しくなったときもそれは変わらなかった。
 松井大将は、夫人にこの興亜観音を守るように言うとともに、養女の久江さんにも夫人と一緒に守るようにと言った。
 次に、松井大将は岡田尚に向かった。
 岡田尚と松井大将の関係は、親と子、おじと甥といったような間柄だったから、岡田尚は今日もいつものように松井大将が何かをいうのを待つという気持ちでいた。
 松井大将は、岡田尚に向かって、自分の遺骨は返してもらえるのやらどうやらわからない、また松井家はこれで終わりになる、だから自分の位牌は黒住教の本部に持っていって永代供養してもらうようにと命じた。また、天皇陛下から賜った銀の花差し一対を黒住教本部に寄贈するようにとも言った。
 松井家の家宗は神道で、冠婚葬祭は神道にのっとって行っていた。たまたま岡田家も神道で、黒住教であった。そういうことでこのように頼んだものである。
 岡田尚には興亜観音に関しても命じた。
 松井大将の存命中なら維持もお守りもできるだろうが、いなくなってはそれもむずかしくなる。そこで、熱海市に話をして市の力を借りるなりして将来も残すようにと。また、そのことについては興亜観音奉讃会の常任理事でかつて中日実業の社長であった高木睦郎とも相談するように言った。なんとかしてお守り続けるようにということである。
 松井大将は最後に岡田尚に対して、文子夫人のことをくれぐれもよろしくと頼んだ。
 こうして松井大将は。先祖の位牌のこと。夫人と養女のこと、興亜観音のこと、自分の位牌のことを四人のそれぞれに話しかけたが、すべてがお互いに共通していることであった。それは今までも何度か松井大将が話していることでもあった。
 それだけで、時間にして二十分ほどである。最後の面会は終わった。
 アメリカ連邦最高裁判所はアメリカ弁護人の申し立てにより、十二月十六日から十八日まで聴取会を行うことにした。そして二十一日、最高裁判所は評決をしたが、六対一で人身保護の訴願受理の管轄権はないとした。これで絞首刑が確定した。
 占領軍総司令部は、アメリカ連邦最高裁判所が否決した翌々日の十二月二十三日午前零時から処刑を行うことにした。
 予定通り深夜の零時一分三十秒に処刑が行われ、松井石根大将は零時十三分に死亡した。(つづく)

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