城壘20


丸MARU 1990年8月号 通算529号 連載20回
元第二大隊副官の証言
 南京の戦場の話は、第一大隊以外の兵士からも聞くことができたけれど、そのうち捕らえた中国兵に関する話は次のようなものである。
 第二大隊関係者
 「捕虜かいたとか、それをどうしたとかということは知りません。雨花台ではどうやったら勝って生きて行けるかだけを考えていました。虐殺ということは戦後になって始めて聞いたことです」
(田村猛小隊長)
 第二大隊の兵士の頭にあることは、田村小隊長をはじめとして、雨花台での激しい戦闘だけである。捕虜とか虐殺という話は聞けない。
 第三大隊関係者
「虐殺の話はどういう場面なのか全然わかりません。十一日ごろだったと思いますが雨花台のほうにたくさんの捕虜がいたのを見たことがあります。捕虜の数は、本当かどうか七、八千人とか一万人とかと聞いたこともあります。その後、私らは城壁の攻撃があったので、捕虜がどうなったかは知りません。
 私は十二日、銃剣を持った中国兵に飛びかかられてどうにか助かりましたが、そういう中でのことですから殺すか殺されるかで、戦場はすごいものてした。虐殺という話は中国の宣伝ではないでしょうか」(大貫酉一指揮班長)
 このように、噂であるが捕虜一万人という話もあった。
 「他の大隊のことだが、各中隊で八十人から百人くらいの捕虜がいて、これをやったと聞いたことがある。そのとき、工場に追い込んて手榴弾を投げ込んだとも聞いた。
 その話を聞いたのは南京戦の後か戦後のことかはっきりしないが、捕虜を連れて攻撃もできないのでやったのではないか。
 我々の隊も一人とか二人の中国兵を処刑したことがある。移動しているから処刑するしか方法がなかった」(日向野博分隊長)
 以上が捕らえた中国兵に関して第三大隊の兵士から聞けた話てある。
 どの人たちも南京事件が最近いろいろ取り上げられていることをよく知っており、また、特に隠しだてするような話ぶりでもなかった。
 これらの兵士たちの証言から、戦闘詳報に書かれていることと似たようなことがあったことは分かった。しかし戦闘詳報の内容とは大分違う。
 第四中隊が中国兵を捕らえ、一時管理し、その後処刑した。ただし戦闘詳報にあるように大隊長、中隊長の話し合いがあったものではない。
 第一中隊は戦闘詳報によると捕虜を建物に閉じ込めて火を放つたといわれるが、第一中隊関係者からは確かな証言は得られなかった。ただし、第一中隊では一部の兵士が関係しているらしく、まわりの人の話では火を放とうとしたけれど、多くの捕虜は逃げたという。
 第三中隊はほとんどが城内に入っていて、こちらはごく一部だけがかかわった。
 また、実際処刑した捕虜の数は三個中隊合わせて百人強という証言が多い。
 兵士たちの証言による捕虜の話はこのようなことであった。
 捕らえた中国兵をどうしたのかということの次に問題になるのは、戦闘詳報の内容からすると大隊に命令らしきものがあったと思われるが、その命令らしきものはどこから来たものかという問題である。
 それについても兵士にあたってみたけれど、兵士はどの兵士も命令に関しては従うだけで、命令系統がどうなっていたかについては分からない。そこで将校はいないだろうかと探していくと、ただ一人、第二大隊副官を務めていた青柳忠夫少尉が健在であった。
 青柳氏は八十歳ながら元気で、いまだ岡野電機工事の取締役会長を務めている。かつて東京都庁に勤め、その後、東京都社会福祉協議会理事などを経て長らく岡野電機工事の社長を務めていた人である。
 第二大隊本部にいた人たちは戦後になると青柳氏を中心に集まり「あおやぎ会」を作って旧交を温め、亡くなった人の冥福を祈ってきた。
 青柳氏にとって、軍隊時代の体験は今でも心の中で大きな部分を占め、大切に保存しているハードカバーの陣中日誌をたまにひもとくこともある。陣中日誌には第六十六連隊から受けた命令と、それを受けて第二大隊が出した命令がすべて記録されていゐ。大隊副官の陣中日誌であるけれど、第二大隊の戦闘詳報はこれを基に書かれたものであるから、第二大隊戦闘詳報の原本にあたる。第一大隊戦闘詳報と同じ価値を持つ。
 青柳氏は大隊本部にいただけに軍の命令には詳しく、第六十六連隊の命令について具体的に聞くことができた。
 青柳氏は陣中日誌をもとに命令の実際について話をし、また、陣中日誌に書いていないことも話してくれたが、まず、たずねたことは、第二大隊にはどのような捕虜処刑の命令が来ていたかということである。
 しかし、青柳氏の陣中日誌には捕虜処刑の命令が書かれていない。
 そこで、日誌には書かれていないけれど命令はあったのではないかたずねると、青柳副官は、連隊から捕虜処刑という命令を受けた記憶はないときっぱり答えた。
 その代わり青柳氏は自分が直面した捕虜の話をしてくれた。
 十二月十二日のことである。もしかすると、一日のずれがあるかもしれないが、十二日前後のことで、南京突入を今か今かと身構え、連隊、旅団、師団の各司令部がだんご状態になっていたときのことである。第二大隊は師団司令部の護衛をしていたが、そのとき、中国兵を捕らえた。中国軍と日本軍は入り乱れていたから師団司令部の近くにも中国兵がたくさんいて、中国兵を捕まえたからといって特別奇異なことでもない。捕らえた数は三百から五百であった。
 青柳副官ははじめての経験だったためどうしたものかと近くにいた師団参謀長磯田三郎大佐に指示を仰いだ。銃声、砲声がひっきりなしで、混乱している中でのことである。すると、磯田参謀長からは、
 「厳重に、しかるべく処理せよ」
 と指示がきた。
 その指示を受けると、青柳副官は、捕虜に銃と弾と持ち物をその場に置いて、前に進むように、と通訳に言わせた。銃弾は部下に命じて集めさせ、持ち物は没収させた。中国兵は全員を戦線の後方に連れていって釈放させた。没収した中国兵の持ち物とは米の入った袋であるけれど、青柳副官は参謀長から指示されたとき、すぐにこの袋を狙おうとしたのだ。なにしろ数日間、満足に食べていないので、中国兵を見たとき、これが真っ先に目に入り、結局、日本兵で食べた。
 当時、何人かの新聞記者が師団司令部にいて、その中に青柳副官と大学で同窓の三船四郎朝日新聞記者もいた。これをそばで見ていた新聞記者の一人が、青柳副官の行動は連隊長の指示どおりなのかと青柳副官にたずねたので、連隊長の指示どおりだと答えた。
 このような捕虜の話であった。
 それでは、第一大隊の戦闘詳報の話についてはどうなのか。青柳氏は自分の体験からと言って、次のように推測した。
 第一大隊でも捕虜を捕まえて同じように上に指示を仰いだのではなかろうか。作戦命令の記録も残っていないから、命令というものではなく、いわゆる指示を仰いだものだろう。たぶん、青柳副官が磯田参謀長から受けたと同じ指示が第一大隊にも行ったのではないか。
 そのように判断するのは青柳氏が上の人の考え方をよく知っているからである。
 青柳副官は南京入城直前、旅団長の秋山充三郎少将から、兵隊は戦闘中は軍紀を守るが、戦いが終わると気がゆるんで何をするか分からないから、これからが大切だ、と念を押された。また、磯田参謀長からは先はどのように厳重にしかるべく処理せよとの指示を受けている。磯田参謀長はのちに日米が開戦するときの駐米大使館の武官をつとめる人であるけれど、南京に向かう途中も話す機会があり、ある程度、参謀長の考え方を知っていた。だから「捕虜は殺すべし」という命令が師団や旅団から出されるということはどうしても考えられない。
 しかし、その後、指示を受けて第一大隊はどうなったのか、そしてどう行動を取ったのか。捕虜を処刑したという話は当時聞いたことがなかったし、第一大隊もたぶん自分と同じような処置を取るとしか考えられないので、戦闘詳報にあるようなことは想像ができない。

ナゾだらけの戦闘詳報
 ここでもう一度兵隊たちの証言に戻る。第一大隊の兵士たちは青柳副官の体験や戦闘詳報の内容については知らないので、第一大隊に「捕虜は殺すべし」という指示があったのかどうかをたずねても誰も分からない。そこで、連隊長が捕虜を処刑する指示を出したのではないか、という形を変えた質問をしたが、その質問についてはほとんどの人が言下に否定した。何故かというと、山田連隊長の常日頃の言動からそのような指示は絶対ありえないからという。
 山田連隊長は当時四十六歳であった。第六十六連隊の兵士たちから聞いた山田連隊長のプロフィールは次のようなものである。
 山田連隊長は温情の人で、絶対兵隊を無駄死にさせる人ではなかった。上からのきびしい命令があっても連隊長のところで兵隊向きに変わってしまうほどである。兵隊にとってはいい人であった。
 ということは必ずしも軍人としては適任ではなかった。軍人らしくないので、連隊長にもかかわらず金鶏勲章を持っていなかったという人もいれば、山田連隊長は翌年の徐州作戦の後に連隊長をやめているが、これを、連隊長があまり兵隊のことだけを考えているからやめさせられたのだという人もいる。
 「斥候に行って帰ってくると、連隊長がまず聞くことは全員無事だったかということで、敵情を聞くのはその後でしたね」
 「戦闘のときは、時期を待とう、とよく言っていました」
 「連隊長のいつものロぐせは、まあ、あせるな、です。兵隊のことを考えているからですよ」
 このように異口同音に連隊長の人柄を語っている。
 そして下士官でも連隊長のことを「山田常さん」という。連隊長の本名は山田常太である。階級の厳しい軍隊の中で、下士官が山田常さんと呼ぶほど連隊長は親しまれていたのだ。
 そういえば、問題の第一大隊戦闘詳報を持っていた藤沢藤一郎さんは、話が一段落して、二人の間にしばらく沈黙が流れた後、しんみりとこう言った。
 「ここ七井からも五人が戦争に行き、今生きているのは私一人だけです。すべてこれも運でしょう。もし私が二、三年若ければ六十六連隊ではなく五十九連隊で行っていますからどうなっていますか。六十六連隊の連隊長は温情の部隊長という話でしたからこうやって生きているのです」
 また、中にははっきりと、
 「人柄を知っていますから言えますが、山田常さんが命じたということはありません」 と言う人もいた。
 このようなことから、連隊から第一大隊に処刑せよという命令が来たことはありえないと考えられる。
 それては戦闘詳報の記述はどうしたのだろうか。
 こうなると、「捕虜は殺すべし」という命令も、「十数名を捕縛し、逐次銃殺しては如何」という不自然な表現も、後で戦闘詳報を書いた人が作ったものである、と考えた方がよいのではなかろうか。その方がはるかに辻棲が合う。
 戦闘詳報の記述が事実と違うことは、小宅小隊長代理が中国兵と直面したときの話でもうかがわれる。また、戦闘詳報には、十三日、南京城前で激しい戦闘があったように書かれているが、これも事実と違う。
 最後に、戦闘詳報の内容に沿って第一大隊関係者にたずねたが、その話をまとめると、最もありうるケースはこうである。
 十二月十二日、第四中隊を中心そして第一大隊は戦闘中に何人かの中国兵を捕まえた。その日は収容し、なんとか食べ物を与えた。。十三日、連隊はいよいよ南京突入で、第二中隊、第三中隊は城内に入った。第四中隊も城内掃討をしなければならないが、中国兵がいる。そこで第四中隊は中国兵をどうするかにつき大隊に指示を仰いだ。
 この後、大隊から連隊、旅団、師団とのぼっていったのかどうか。連隊本部は城内である。師団司令部は東にある雨花門に移ろうとしていた。  青柳副官が受けたと同じような指示が第一大隊まで来たのかもしれない。渋谷大隊長代理は、まだ戦闘は続いている。食料も充分にない、といった状況で、この指示を処分することだと解釈して第四中隊に命令した。
 このときもう一つ考えられることは、最初から連隊に指示を仰ぐことなく大隊が判断したということである。むしろこの方が確率からは高い。

捕虜処刑の命令はあったか
 ともあれ処刑は第四中隊が中心になって行い、第一、第三中隊も行った。実際、処刑した数は第四中隊が約百人、第一、第三中隊はどのくらいか不明。最大合計しても二百人くらいのようだ。
 これが何人かの話をまとめたものである。もちろんこのストーリーがどの程度正確なものか分からない。特に渋谷大隊長代理が指示したのかどうか全く想像である。あえて戦闘詳報どおりに証言を組み合わせるとこうなるというものである。
 これ以上データがないので述べることはできない。多くの兵士たちから話を聞いたけれど、第一大隊戦闘詳報の記述から感じられる無機的な冷たさはくみ取れなかったことは確かである。早く南京城内に入って掃討しなければならない、中国兵に食べさせる食糧はない、中国兵はあばれる、といった状況で、このとき他に選択肢があったといえるのは結果論であろう。戦闘詳報を見ただけなら、システマチックな捕虜処刑の軍命令があったと取られがちだが、実際の戦場は、だれがどこにいて、どこからどういう命令が来るのかも分からないような状態であった。
 第一大隊の兵士のうち、負傷のため城壁前にいながら捕虜処分に第三者的立場にいた人も何人かいる。例えば第三中隊の指揮班にいた原貫一氏てある。
 原氏は城壁前の攻防に先立つ将軍山の戦いで左腕に盲貫銃創を受けた。激しい闘争心のあった入らしく、後方に退くこともなく、応急手当てをしただけで南京に向かった。さすが第一線からは退いたけれど、第一線とはほぽ同じ行動を取った。城内へも入り、入城式にも参加した。しかし、入城式に参加したころには左腕は右の倍ほどふくれあがり、軍服を切らなければならないほどになっていた。そこではじめて南京城内の野戦病院にかつぎこまれた。広い講堂のようなところである。病院といっても真冬に毛布一枚でうなった。腕を切らなければならないという地獄の苦しみである。戦場では、戦闘していても、負傷していても厳しい現実が待ちうけていた原氏の話である。
 「負傷したものですから第一線に遅れて雨花台の方に進みますと、中国兵の捕虜がいました。そこは戦線の後方で、一旦捕らえて放したものでしょう。問題の捕虜は第一線にいた捕虜だと思います。
 戦闘詳報に書いてあるのでしたらそういうことがあったのでしょうが、私はそれは見ていませんからなんとも言えません。
 しかし、南京事件を調べている人たちに、そのときの様子をどんなに説明しても分かってもらえないでしょう。戦場にいなかった人にその場をいくら説明しても正確には伝えることができないからです。
 私は中隊の指揮班で給与係をやっていましたから、食料がないことはよく知っていました。だからああいう戦闘の状況で捕虜を処刑したと聞いても分かります。戦場を知っていれば、その処置に対して何も言えません。それが戦争です。
 それに世の中は勝てば官軍ですから、第六十六連隊は何を言われてもしょうがありません。そう思っています」
 このような話であった。
 最後に第六十六連隊史を書いた人はこの資料をどのように見ていたかたすねてみた。
 まず、サンケイ新聞栃木版に「郷土部隊奮戦記」を二年にわたって連載した印南千里氏の話である。
 「連載を始めるにあたって資料を集めたとき、その中に第一大隊戦闘詳報がありました。
 これを見たとき、私自身も中国の戦場に行って日本軍が共産軍のこもった建物を焼いたりしたのを見ており、戦場は撃つだけではありませんからそういうことだなと思っていました。
 私か連載してから十年ぐらいしてから朝日新聞の本多勝一記者が南京大虐殺があったといいだしましたが、私か書いたころは南京大虐殺などということはありませんでしたからびっくりしたものです。
 書くにあたって特に何人かから詳しく聞きましたが、その一人が高柳清平(第四中隊小隊長代理)さんです。高柳さんからは戦闘の内容などを聞いていたので、捕らえた中国兵の話などは出ませんでした。
 高柳さんは律義者として有名でしてね、私か話をうかがうたびにいつも背すじを伸ばして話をしていました。高柳さんが実際兵隊に処刑命令をしたとしても、高柳さんに虐殺などという気持ちはなかったと思います」
 もう一人、栃木新聞に「野州兵団の軌跡」を書いた高橋文雄氏の話である。
 「私か六十六連隊史を書いたとき、連隊は郷土の名誉ですから栄光の記録を書くつもりでいました。第一大隊戦闘詳報は当然見ていましたが、捕虜のことは兵隊だった人から聞いたことはありませんでしたし、私も聞こうとはしませんでした。
 第一大隊戦闘詳報にある捕虜に関してはどの程度正確か分かりませんが、記録は実際残っているものですから、それは資料を使う人の自由だと思います。
 私が思うに、戦闘詳報は名誉の記録でもありますから、戦果を誇大に書くことがあります。捕虜に関しても武士の時代から捕虜、首級を競うということがありましたから、第一大隊戦闘詳報は誇大に書きしるしたものだと思います。
 これを書いた人は、今、こんな風に取られているとは夢にも思わなかったでしょう」 (つづく)

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