城壘19


丸MARU 1990年7月号 通算528号 連載第19回
中国兵虐殺命令は出されたのか
 宇都宮第六十六連隊第一大隊から出された中国兵処刑の命令について、それがどんなものか、実際に命令は出されたのか、結局、正確に証言できる将校は一人もいなかった。
 そこで、次善の策として、戦闘詳報が伝える現場にいたと思われる兵士にあたることにした。そのときの状況や、もしあったとするなら命令はなぜ出されたのか、証言を得ることができるかもしれない。
 まず最初にあたったのは、この戦闘詳報を保存していた第三中隊の藤沢藤一郎氏である。数十年間にわたって戦闘詳報を保存していた藤沢氏であるから、将校たちと同じくらい貴重な話が聞けるのではなかろうか。そう思って最初にあたったのは当然である。
 藤沢氏は、宇都宮より東に二十キロメートルほど行った益子という陶器で知られた田園地帯に生まれ、現在もそこに住んでいる。当時二十六歳の上等兵で、二十六歳というとこの中隊の中では最も若く、そのため今でも第三中隊会の世話役をやっている。
 中隊会は毎年開いて既に二十回ほどになる。藤沢氏から話をうかがった前年である昭和六十一年も九月に開き十人が集まった。戦争に行った当時から兵隊は中年の人が多かったので、いまでは十人も集まれば最も活発な中隊会である。
 期待を持って藤沢氏の話を聞くことになったが、話してくれた当時の様子は次のようなものであった。
 昭和七年に徴兵で軍隊に入り、いったん除隊して、四年目に再び召集されて南京に向かった。
 南京攻略戦ではなんといっても雨花合の戦いが最も激しかった。敵からの攻撃のため手も足もでず、野砲が敵のトーチカを砲撃してくれるのを待つだけであった。そうして待っている間、まともな食べ物はなく、唯一の食べ物か近くの畑のさつまいもて、さつまいもを掘りに行って撃たれた兵隊もいた。さつまいもと野菜をかじって二日ほど過ごしたか、対峙している中国軍では、前方に雑兵がいて、後方にはきちんとした軍服を着た督戦隊がいる。対峙している二日て、わずかてはあったか日本軍が進み、中国軍の隊形か少しずつ崩れていく。そうやって時がたつうち、中国軍の中に日本軍を恐れて尻込みしたり逃げたりする雑兵が現れ、そういった兵隊たちを後ろから督戦隊か撃ち出した。藤沢上等兵はそのような光景を何度も見た。
 いよいよ十三日になり、藤沢上等兵は中華門から東よりの城壁にかけられた縄梯子から登った。第三中隊は西沢中隊長以下がここから登ったが、城壁上では万歳したくらいでそのまま城壁内に入って進んでいった。城壁上で万歳をしたとき、中隊の兵力は相当落ちていて、杭州湾上陸時の六割くらいではなかったろうか。
 しかし城内に入ってみると、敵兵は一人もいなかった。民家に入って見つけた砂糖をなめたのが城内で一番印象深く、今も忘れられない。城内では倉庫に泊まった。入った日か翌日、後方から食べ物が届き、手のひらに少しだけ米をもらって食べた。これも印象的だった。
 そのまま城内にとどまり、十七日の入城式に参加した。入城式には宇都宮連隊を代表して第三中隊か参加することになっていて藤沢上等兵も参加したのだが、他の中隊からも何人かの代表者が来た。
 入城式が終わると、連隊は既に大胡に向かっていたので、藤沢上等兵たち第三中隊はすぐに連隊を追いかけた。
 第六十六連隊はこのあと中支に転戦して。昭和十四年八月に内地に戻ひ解散になる。
 解散のとき、藤沢氏は軍曹まで進み、大隊本部に勤務していた。解散にあたって大隊の記録は宇都宮五十九連隊留守部隊に収めたが、このとき、藤沢軍曹は記念として第一大隊戦闘詳報を貰った。何か記念になるものを、と思ったが、戦闘詳報は同じものか二部か何部かあり、そのうちの一部を貰った。
 留守部隊に収めた記録は終戦時に焼却されたから、当時の記録は藤沢氏が持っていたものだけになった。戦後、サンケイ新聞や栃木新聞が第六十六連隊史を連載したときこれを貸し出した。昔はコピーがなかったのて戦闘詳報の複製か出回ることもなかったが、数年前に貸し出したときからコピーか出回るようになった。戦闘詳報の原本は昭和六十一年八月の台風十号で畳の上四十センチほどまで浸水して水びたしになったので、日記とともに捨ててしまって今はない。
 一時間近くの藤沢氏の話はこのようなものであつたけれど、肝心の虐殺命令については一切ない。そこで改めて質問することにした。 ―戦闘詳報によると、第三中隊も捕虜をやったとありますが。
 「全然知りませんてした。第三中隊は十三日からすっと城内に入っていましたから」
―捕虜をやったことを第三中隊の他の人から聞いたことはありませんか。
 「ありません」
―第三中隊は十三日全員城内に入ったのですか。
 「全員かどうかわかりませんが、ほとんど入ったと思います」
―戦闘詳報を持っていらっしやいましたか、捕虜処刑のところを読んでどう思いましたか。
 「戦闘処刑は全部読んだわけてはなく、自分の戦ったところだけを見たものでしたから。そのところを読んでどう思ったかについては特別記憶はありません」
―戦闘詳報がまるっきり嘘を書くことはないと思いますか。
 「そうです。戦闘については中隊から来た戦闘詳報をもとに書きます。嘘を書くということはありません。ただし鹵獲兵器などは数字が来ますけど、もともと正確に数えていませんから、九十とあったら百と書くとかそういうことはあります。しかし、捕虜のことはよくわかりません」
―投降してきた中国兵がいたといいますが。
 「さあ、私らか城壁の前で中国兵と向かい合っていたときはそういうことはありませんでした」
―西沢中隊長からは何か聞いたことはありませんか。
 「西沢さんは本を書いていますが、そういうことは載っておりません。中隊会などでも虐殺したなとということは聞いたこともありません。お役に立てずにすみません」
 以上が質問とそれに対する藤沢氏の答えであった。

第三中隊生き残り兵士の証言
 既に五十年前のことてある。藤沢氏は、ゆっくり、昔の記憶をよみがえらそうとしなから話す。これ以上無理して聞くことはできない。もっと詳しく知るためには他の兵隊たちから聞くだけてある。
 そこでさらに第六十六連隊の兵士だった人たちをたずねて聞いてみた。
 当時、第六十六連隊の兵士の平均年齢は三十歳近くだったという人もいれは、三十歳半ばだったと証言する人もいる。どちらにしろ、最も若くとも二十五歳というのは確からしく、しかも二十五歳の兵隊はめずらしかったという。今、名簿の一部を見ると、明冶三十年代生まれの人が最も多く、明冶二十年代生まれの人もいる。老人たちに言わせれば「大正五、六年の兵かいた」というから部隊は三十代の兵隊が中心だったのであろう。当時三十歳だとしても既に八十歳を過ぎている。最も若い人でも七十五歳で、誰もが日本人男性の平均寿命を過ぎている計算になる。
 そのような老人を、さまざまな手づるで捜して、十数人ほどの兵士たちから話を聞くことができた。実際は三十人ほどの人と接触できたが、家族の方が、本人は寝たきりだとか、年だからむずかしい話は無理だ、とおっしゃる場合も多く、そこをさらにお願いして聞くわけこもいかなかった。また、負傷して、戦闘詳報の現場にいなかった人もいる。
 それでもこういう返事が来るうちはよい。五年前に亡くなっています、亡くなったのは十年も前になります、という返事には全く恐縮してしまう。  具体的に話を聞くことのできた兵士たちの証言は次のとおりである。
 まず、第一大隊本部の兵士、大関初次上等兵。
 大関上等兵は、第一大隊本部にいたが、一刈大隊長が負傷してからは終始一刈大隊長に付き添うことになった。一刈大隊長は本来なら絶対安静なのだが、ぜひとも南京に行くというので大関上等兵が同行し、部隊に少し遅れて進むことになった。
 この時期、大隊長と終始一緒なら大隊長が命令に関与したのか、たとえ関与しなくとも、命令についての手掛かりくらいは得られるのではなかろうか。期待ははずんだ。
 しかし、答えは簡単なものであった。
 「私はたおれた一刈大隊長とともにいたので、第一線のことは知りません。部隊の後をついて行きましたが、捕虜のことは聞いたことがありません。戦闘中のことだから、捕虜というより敵という感しが強かったのではなかろうか」
 このような、質問は愚問だというような、はっきりした返事であった。
 大隊本部にいて、大隊長のそばにいた兵隊が何も知らないという。命令が出されたようなことはなかったのか。
 次いで第三中隊関係者にあたった。
 まず渡辺紋蔵小隊長。
 「第三中隊は十三日、十四日と城内にいたので捕虜を捕らえるということはありませんでした。
 城内に入ってしばらくするうち、私は師団の四百柱の遺骨を持って内地に帰るように命じられたので、南京から上海に向かいました。入城式(十七日)の前のことで、ですからあの入城式は全く知りませんでした。
 翌年二月に原隊に復帰したとき、南京では捕虜が二百人から三百人いたと聞いたことがあります。
 いま南京で虐殺があったと話題になっていますが、当時私が知っていたのはそれだけです。
 南京虐殺ということは戦後になって初めて聞きました。
 このような証言である。
 第一大隊戦闘詳報などから判断すると、第百十四師団左翼隊の南京突入は水戸の連隊に続いて宇都宮の連隊が行い、そのとき宇都宮部隊では、第三大隊が突入部隊で、連隊本部及び軍旗中隊の第二中隊もそれに引き続いて城内に入ったようであった。しかし、藤沢上等兵と渡辺紋蔵小隊長の話から、第三中隊も西沢中隊長以下が突入部隊とほとんど同時期に城内に進み、少なくとも十三日午後には城内にいたと思われる。そうすると、捕虜に関しての大隊長と中隊長とか話し合いは、第三中隊に関してはありえないことになる。
 もう一人、第三中隊の兵士の話である。
 「南京城を見たときは感動しました。十二日ごろ、城壁を前にしていたとき、くすんだ白旗を掲げた丸腰の中国兵が来た。線路上に腰をおろしていたのを覚えている。その日と翌日の二晩、近くの校舎のようなものに泊め、二回食事を与えた。城外の濠には相当死体があって、そこを超えて南京城に向かったが、私は入城式には参加しなかった」
 こう話してくれた久保田和三郎氏は、随分昔のことだから記憶がはっきりしない、話したことは断片的にいま頭に残っていることだという。また、そのときの人が集まって皆で話をしてお互いの記憶をつなぎあわせればはっきりすると思うともおっしゃった。
 久保田氏の証言によると、第三中隊は全員十三日に城内に入ったわけでもなく、城外にいた人もいたらしいことが分かった。
 その後、もっと具体的に第三中隊のようすを証言してくれる人がいた。
 「南京城壁の前で戦っていたとき、白旗を掲げて中国兵が投降してきたのをおぼえています。人数は百人弱でした。
 第三中隊が城内に入ったのは朝か昼かはっきりしませんが、夜ではありませんでした。そのとき第三中隊はまとまっていたと思います。
 中国兵のことですが、我々が城内にいたとき、中隊の幹部の人、西沢さんしゃありませんでした、指揮班の人あたりだったと思います、その人が、捕虜をやる、といって希箆者を募つていました。
 戦闘詳報に書いてあるのでしたら、そのとき何人かが城外に戻ってやったのではないかと思います。ただし捕虜をやった場面は見ていませんからそれは私の想像です」(水沼兼吉氏)
 水沼氏は足が悪いので、ここ二年ほど中隊会には参加していない。水沼氏の証言によれば、第三中隊のほとんどは城内にいて、中隊長は捕虜のことを知らなかったらしい。そして、何人かが捕虜をやるために城外に戻ったらしいのだ。
 もう一人、第三中隊の兵士の証言である。中隊長本部にいた森尾市太郎上等兵である。
 森尾氏は上等兵であったがそれまで役場で事務をやっていたので、中隊本部で陣中日誌を書く任務を与えられた。激しい戦闘のあったときは徹夜で戦闘詳報を書いたこともあり、六部作って五部を上に提出していた。
 「十二月十二日夜、中隊長と一緒の濠の中にいましたが、まわりには死んだ者や負傷者もおり、そのとき、中隊長のそばにいた兵隊はわずか十二、三人でした。
 そのうち、上から、明日、南京城突入という命令が来まして、中隊長は、この兵力で攻撃か、と涙を流していました。
 十三日朝、城壁の前の高台で中隊長と一緒だったことは記憶していますが、私は昼前、中華門から入り、そのとき中隊長も一緒だったかどうか記憶にありません。
 城内では煉瓦作りの建物を中隊本部にして、中隊長もここにいました。
 十三、十四日と二晩南京城内にいて、私は十五日か十六日、中隊の遺骨を持って日本に帰るよう命令され、下関から船に乗りました。師団の遺骨を持っていた渡辺さんと一緒です。
 捕虜については何も聞いておりません。捕虜を捕まえたり、命令があったということを陣中日誌に書いたこともありませんでした。
 南京で一番記憶に残っていることは、下関に相当死体があったことです。下関から船に乗るとき見ました。凄惨だと思いました。
 三月に原隊に戻りましたが、虐殺という話は戦後聞いたことで、中国兵は軍服を脱いで市民になりすましていたのでそういう兵隊をやったことを虐殺と言われているのでしょう」
 以上が第三中隊の証言である。

存在しなかった戦闘詳報!?
 次は第四中隊の兵士である。
「南京城には城壁からでなく、城門から入りました。中華門だったと思います。入った日にちははっきりしませんが、昼だったと思います。
 捕虜は城外にいたとき、何人かいてご飯を食べさせました。その後、大隊から命令が来たのか、その捕虜を処分することにしました。夕方でした。平沢(第四中隊長代理)あたりからの命令のような気がします。
 捕虜にご飯を食べさせたことも、やったことも、考えてやったことではありません。すべて命令です。あのときは無我夢中で、それが戦争だと思っていました」(田波希平分隊長)
 第四中隊の兵士はこのように証言した。
 多くの兵士は一局面の証言であったが、最後になって比較的大局的に見ることができる人に会えた。第四中隊で第一小隊長代理をやっていた小宅伊三郎曹長である。
 小宅氏は、南京攻略戦の後、昭和十四年ごろのことであるが、南京軍官学校の教官を勤め、そのため第一大隊の行った作戦や南京のようすについてはこれまでの兵士と比べにならないほど詳しい。
 小宅曹長が証言することによって、この前後のようすがだいぶはっきりしてきたが、その話は次のようなものであった。
 「十二月十二日、第四中隊の戦力は半減していたが、第一線で戦っていた第三中隊の右側に進むように命令を受けて、私は第一小隊、第三小隊、指揮班の計六、七十人を指揮して第三大隊の援護に向かった。ですから、当時の第四中隊は私が指揮していたことになります。もちろん第一線の戦場ですから、我々の中隊長がどこにいるのか、他の小隊がどこにいるのか分かりませんでした。
 兵士廠の建物の前にある陸橋で指揮を取っていたが、やがて中国軍が後退し、その中に白布を振っている兵も見えたので射撃を禁止し、彼らに対して手招きをした。すると、城壁上から私を狙って撃ってきて、五、六発が私の近くに当たった。
 それでも中国兵は三三五五降伏してきたので、私のところで検問して後に送った。検問している途中、中国軍の逆襲にそなえたり、井上戦車隊長との打ち合わせ等があり、どのくらい捕虜がいたのか正確には分からない。あとで千二百の捕虜がいて、他の隊が捕まえた捕虜二、三百も合わせると千五百人になると聞いた記憶がある。
 しかし、あのとき千二百人の捕虜を検問して武装解除するだけの時間があったのかと考えてみると、とても千二百人もいたとは言えない。  その日の夕方だったと思うが。先輩の大根田副官から、この日の捕虜で誉められ、また、極秘だが引き続き杭州作戦があるといわれた。それを聞いて、兵隊たちは極度に疲労しており、さらに作戦があるのはひどいと思いました。
 その後捕虜についてはどうしたのかはっきりした記憶がない。それでも捕虜収容状況を見に行き、行ってみると、収容所が騒然としていて警戒にあたる兵隊の苦労は大変だと思っていたのが印象に残っています。また、部下から捕虜への給与がなくなるとの問い合わぜもあり、警備の交代と給与のことを大隊長に言った記憶がある。
 一刈(大隊長)さんは負傷していましたが、片足になっても南京に突入するという頑固な人で、担架かなんかで運ばれてついてきました。大隊長に捕虜の件について言ったような気がしますが、大隊長からどういう答があったのか記憶にないのです。私は引き続き城内掃射もしなぐてなりませんし、忙しかっためでその間も飛び回っていたと思います。
 ただし、満州事変にも参加しており、常に軍紀には厳しく言っていました。捕虜を殺すように命令したなどということはありません。
 城内に入っても兵隊の編成替え、誰を入城式に参加させるか、戦闘詳報の整備などで忙しく、私自身は入城式にも参加していません。
 城内の大隊本部に行ったとき、外国の新聞記者二人が城内と雨花台を見たいといっているので失礼のないようにと言われ、(平沢)中隊長代理にそのことを言ったことがあります。中隊長代理とはそのとき久し振りに会つたくらいです。中隊といっても第一線ですからそれほど命令系統は混乱していました。
 戦闘詳報について言えば、第四中隊の戦闘詳報は私が書いていました。もちろん捕虜処刑などありませんから、そんなことは書いていません。
 大隊の戦闘詳報は、一刈さんがたおれ、まともなのは渋谷(大隊副官)さんだけです。渋谷さんは実際の指揮を取っており作戦の責任者ですが、戦闘詳報をどうするという時間はなく、また、大根田副官は実戦の経験から考えて戦闘詳報について詳しくありません。ですから素人ばかりの大隊ではまとじな戦闘詳報はなかったと思います。
 戦闘詳報は文字どおりこの戦闘に関するすべての事実を詳報するもので、副官または書記が作製し、大隊長の決裁を経て連隊に報告するもので、責任者は大隊長ということになります。
 捕虜の取扱は国際条約で定められており、捕虜とは戦意を失い、降伏して我が方の命令指示に従順に従う者をいいます。しかし、捕虜と言われている中には、戦闘に敗れ抗戦力を失い一時降伏の意を表し、収容されると群れをなしてただちに反乱したり、偽装降伏して再度戦線復帰の機をうかがうものがいます。捕虜護送中、捕虜が護送兵を急襲して武器を奪い、大脱走した例もあり、捕虜として確認するのには相当の日時を要することが多いのが現実です」
 以上が小宅曹長の話である。
 第一大隊戦闘詳報には「最初の捕虜を得たる際、隊長は三名を伝令として抵抗を断念して投降せば助命する旨を含んで派遣せるに」とあり、このときの隊長とは一刈大隊長ではなく小宅小隊長代理のことであることが分かったが、小宅小隊長代理は、捕虜を捕らえたのは確かだが三人を伝令に出したりとかそういうことは一切なかったという。
 そして、中国兵を捕らえた小宅小隊長代理が捕虜虐殺命令を出したことも、そのような考えを持っていなかったことも分かった。
 最後に、渋谷第一大隊長代理、平沢第四中隊長代理あたりが実際命令したらしいという話もあるが、どう思いますか、という問いに小宅氏は、
 「あの前後、渋谷さんや平沢さんがどうしていたかはっきりしませんが、ともに第一大隊本部にいたのではないかと思います。また、捕虜がいたことについては一刈大隊長も知っています。問題は捕虜についてですから、連隊長以下でできることではありません。
 しかし実際どうだったのか、捕虜を捕らえて第四中隊を指揮していた私すら知らないので、相当混乱していたと思います。誰がどうしたのか私には全く分かりません。
 第一大隊戦闘詳報に書いてあるのでしたら、形の上では一刈大隊長ということになるのでしょうか」
 このように答えた。
 以上が第一大隊の兵隊たちの証言である。(づづく)

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