城壘18


丸MARU 1990年6月号 通算527号 連載第18回
ナゾだらけの戦闘詳報
 宇都宮第六十六連隊第一大隊戦闘詳報の記述は、多くの問題点かあるけれど、捕虜の数についてもそうてある。
 まず戦闘詳報には、三個中隊が五十人ずつの捕虜を連れだして処刑した、とある。この表記から判断すると合計百五十人を処刑したと思われるが、第一大隊は十二日の戦いで千五百二十名の捕虜を得て、さらに十三日午前の戦いでは三百余名を得ている。これらの捕虜はどうしたのか。
 第一大隊戦闘詳報の最後には、捕虜、武器をいくら鹵獲したかという鹵獲表があり、俘虜として将校十八名、准士官下士官兵千六百三十九名を捕らえたとある。そうすると、これらの捕虜は、処刑した百五十名の残りということなのか。
 処刑したという捕虜の数がはっきりしない。
 次に、捕虜の数として千五百二十名とか、五十名とか、具体的に記述されているか、それは信じられるものなのか。
 連隊命令によれば、連隊全体で捕虜にした中国兵は千数百名であったという。連隊全体の捕虜というのは、第一大隊、第二大隊、第三大隊合わせた数で、ということは、第二大隊、第三大隊で一人の中国兵を捕らえなかったとしても第一大隊の捕虜は連隊の捕虜より多くなる。
 ここで捕虜の数の正確さをみるため、武器などの鹵獲品を見てみよう。百十四師団、六十六連隊、百五十連隊など現在資料が残っているもののみであるが、次の通りになる。

部隊 遺棄死体 捕虜 小銃 重機関銃 拳銃 手榴弾 銃弾(小銃実包)
百十四師団 5000~5800 - 844 34 - 20000 78000
百五十連隊 - - 485 6 6 910 85635
六十六連隊 - 千数百 - - - - -
六十六連隊/第一大隊 1400 1657 602 7 31 35 50000

 師団の数字は各連隊からの数字を合計したものである。連隊の数字は各大隊の数字を合計したものである。だから連隊の数字が師団より、大隊の数字が連隊より大きいことはありえない。しかし、鹵獲表を見ていくと、第百十四師団で鹵獲した重機関銃が一挺なのに第一大隊だけで七挺鹵獲したことになっている。小銃と拳銃も、師団のものより第百五十連隊と第六十六連隊第一大隊の合計だけで上回っている。この表には第百二連隊、第百十五連隊の記録がないが、もしそれらの資料が残っていれば、それぞれの連隊も百五十連隊や第六十六連隊と同じくらいの鹵獲品があったであろうから、ますますつじつまが合わなくなる。
 また、遺棄死体は、師団が五千ないし五千八百と計算しているが、第一大隊のみで千四百とある。師団からみると第一大隊は師団戦力の十二分の一であるから、師団で五千から五千八百の遺棄死体があったとするなら、第一大隊での遺棄死体は四百から五百が妥当である。戦闘詳報に記されている数字はその三倍ほどになっている。
 同じように捕虜も第六十六連隊からみれば第一大隊は連隊の三分の一の兵力であるから、連隊の捕虜が千数百であったとするなら、第一大隊だけで四百から五百の捕虜を捕らえていれば自然であるが、これもその三倍ほどになる。
 この数字だけからいちがいにどちらが正しいとはいえないが、戦果を多く記載する傾向からみて、大隊の数字に誤りないしは水増しがあるように思われる。
 それではこの戦闘詳報がいつ書かれたのであろうか。
 大隊の戦闘詳報は戦闘ごとにまとめられるが、戦闘中、メモされたものや中隊の陣中日誌などをもとに戦闘が一段落してから書かれるのが普通である。多くは、戦闘が終わった後の警備期間とか、次の戦闘に入る間とかに書かれる。この第一大隊戦闘詳報も、表題に「昭和十二年自十二月十日至十二月十三日南京付近の戦闘詳報」とあることから、十四日以降に書かれたものであることは確かである。
 それでは、十四日以降のいつかと言えば、十四日に戦闘は一段落したけれど南京城内で掃討戦が続いており、十五日は戦場掃除、十六日には転進の準備をし、十七日早朝には太湖方面に転進した。このことから南京にいるとき書かれた可能性は少ない。
 十七日に太湖方面に向かった連隊は、十二月三十日、武康に着いて転進が一段落する。
 第三中隊長の書いた「われらの大陸戦記」の中には、十二月三十一日のこととして「軍は戦闘詳報作成の為め昨日より暮れも正月も返上して戦いの結果を総まとめにかかる」という記述がある。そして一月に入って「中隊は上陸以来の戦闘詳報、編成、装備、教育等それぞれ担当者を指示して作成報告、実施と日夜をついて進める」状況だったという。
 このことから戦闘詳報は、暮れからまとめはじめられ、一月ごろにかけて書かれたと思われる。
 それを裏付けるようにこのときの戦闘詳報は二色刷りで作成されている。大隊は二色刷りの謄写版を持ってはおらず、連隊が二色刷りの謄写版を持っていた。大隊が二色刷りの謄写版を使って戦闘詳報を作成したのは、作戦が一段落して連隊の二色刷り謄写版を使えるようになってからである。このことからも一月ころというのが作成された時期と考えられる。
 ここで一般論としての戦闘詳報、陣中日誌の記述について考えてみたい。第六十六連隊第一大隊の戦闘詳報は、少なくとも細部に関して言えば、自ら陣中日誌を書き、さまざまな戦闘詳報を見てきた何人かの第一線指揮官は戦闘詳報や陣中日誌をどうみているか。その中でも興味深いのが坂武徳氏の話である。
 坂氏は当時、第百十四師団の東隣で南京城を攻撃していた第九師団の鯖江第三十六連隊の中隊長をつとめていた。昭和十二年九月、第三十六連隊の第十一中隊長として上海戦に参加し、上海・南京戦の後は徐州・武漢作戦に従軍し、途中から連隊副官をつとめた。しかし、この間の昭和十二年十一月上旬、蘇州河作戦で負傷し、昭和十三年一月まで野戦病院に入院していた。つまり、日本軍が南京を攻撃していたときは負傷していたことになる。

ある中隊長の陣中日誌の信憑性
 坂氏は、この中支での戦いを昭和五十八年「自昭和十二年九月至昭和十四年七月 歩兵第三十六連隊中支方面に於ける行動概要」としてまとめた。作戦命令書や戦闘経過要図をふんだんに使い、昭和十二年九月から昭和十四年七月までの第三十六連隊の戦闘を詳細につづったもので、一つの連隊記録でこれほど詳しくまとめられたものは他に類をみない。これを記述するために坂氏は、公式文書であっても関係者から聞き書きをした上でそれが正確だと判断できるものだけを使用した。
 第三十六連隊の戦友会は「歩兵第三十六連隊戦友会誌」を発行しており、その中に「鯖肛大会編」がある。この中で第十中隊の兵士であった沢崎正恵氏が「悲運の第十中隊」という一文を書いた。
 沢崎氏は自分の体験と、残っている第十中隊の陣中日誌を基にして、「自昭和十二年九月至昭和十四年七月 歩兵第三十六連隊中支方面に於ける行動概要」の坂氏の記述に一部誤りがあるのではないかと考え、それを指摘した。これにたいして当然のように坂氏が反論した。
 これを読んだとき、私はどちらが正しいかということより、戦闘記録というものは公式のものであれ如何に誤りの多いむのかということがわかって、それに関心を引かれた。二人のやりとりは非常に興味深いものであるが、そのうち坂氏の沢崎氏への反論の一部をここに紹介する。
 「昭和十二年十月の(第十中隊の)陣中日誌は昭和十三年南翔(上海の近く)駐留時に作成された。大隊本部への提出は一月末頃。第十中隊は出戦当初の幹部は殆ど戦死傷し失われたので、日誌作成の適任者はいなかったと思われる。
 中隊は日誌作成に当たっては大隊本部と打ち合わせの上、適当な形を整えて作成しており、実状は示されていない。
 (中略)
 走馬塘クリーク付近の戦闘に就いての第十中隊陣中日誌の記述内容は尠からず事実と相違している。恐らくこの戦闘の有無にかかわらず毎日書くように要求されていたのだが、兵馬倥偬の間、中・小隊長等幹部の損害が多発し、疲労困憊その極に達すると中々書けるものではない。特に第十中隊のように当時の幹部をすべて失い、連・大隊命令に合わせるよう南京戦後にまとめられたものが漠然としていたのはやむをえない。従って沢崎氏個人のとった行動に間違いないが、陣中日誌そのものには時刻・場所・内容等に関し更に布衍しなくてはならぬ事項が多いと考えられる」
 このようなものである。
 陣中日誌は公式文書であるが、第三十六連隊第十中隊のように実状を知らない人によって作成されたり、連隊や大隊の命令にあわせてまとめられることもあるのだ。しかもこの場合、実際の戦闘から三ヵ月後に書かれている。公式文書だからといって全く信用できるというわけにはいかない。
 このようなことが言えるのも多くの戦闘詳報、陣中日誌をみている坂氏にしてはじめてできることであろう。
 そこで改めて坂氏に陣中日誌・戦闘詳報についてたずねると、坂氏は一般論としてこう述べた。
 「陣中日誌や戦闘詳報は部隊の行動、状況を述した公式記録で極めて重要な書類で日々記載するのが本則です。
 しかし実際には連隊以下の部隊、殊に中隊などが戦闘間の記載整理するのは無理なので、これらの部隊は毎日の命令、通報、報告、其の他の記録、日々の経過の概要、その他必要事項をその都度記録してまとめておき、作戦終了後の駐留警備間にこれを整理して作成するのが実状です。
 これらの書類は実状を正確に記述することが第一義でありますが、実際には特に中隊などの尖端部隊にあたっては激戦により幹部の大部を失うことか多く、諸記録も散逸することが多く、新たに補充された後任の幹部が戦場も戦闘の実況も知らずして日誌や詳報の作成に当たる訳で、随分苦労して作成に当たるが重要事項や真実が充分記録されず、また止むを得ず適宜作文するということもあり、事実と相違する記述も生しています。
 この件に就き、歩三六戦友会誌で第十中隊陣中日誌の誤りを指摘しましたが、これは単に一例で、このような例は他にも少なくありません。
 幹部、特に中隊長が健在の場合、其の人が感動した記事を書かぬ限り、概ね実況実状を記録されていると考えていいと思います」
 戦闘の途中、戦闘の様子を正確に記録するのはいかにむずかしいかということで、そのため作文せざるを得なくなる。これからも第一大隊戦闘詳報にも相当事実とずれがありそうだということがわかる。
 それでは第一大隊戦闘詳報に書かれている捕虜処刑は実際どういうことだったのだろうか。
 第一大隊戦闘詳報には、午後三時三十分、各中隊長を集め捕虜の処方に付意見の交換をしたる結果、刺殺せしむることとせり。おおむね午後七時三十分刺殺を終る、とある。戦闘詳報には具体的に名前が出ているのだから。このときの大隊長・中隊長に聞けば、そのときの様子がわかるわけである。
 さっそく大隊長・中隊長にあたることにした。 まずあたるべき人は、命令を出したと思われる大隊長の一刈少佐である。度胸のある、くそまじめな人だったと将校や兵隊たちはいう。
 しかし、探しているうちに、一刈大隊長は、南京を目の前にした十二月八日、右大腿部貫通銃創でたおれ、この場にはいなかったことがわかった。そのとき大隊は大隊付の渋谷大尉がを代理で指揮をとっていた。改めて戦闘詳報を見ると、記されている大隊命令はすべて第一大隊長代理渋谷大尉の名前で出されている。

戦闘詳報に驚く元中隊長
 それでは渋谷大尉が中隊長と相談し、命令を出したのか。
 一刈大隊長の代わりに渋谷大尉をあたることだ。
 渋谷大尉は、当時四十代の半ばで、もし生きているとしたら九十半ばになっているはずである。手掛かりとなるようなことが聞き出せるのだろうか。
 大隊本部の関係者をたよりに渋谷大尉を探していると、やがて、渋谷大尉は亡くなっていることを知らされた。渋谷大尉を探しているうちに、ほぽ同じ年齢だった一刈大隊長も亡くなっていることがわかった。
 大隊本部にいる将校としてはもうひとり大根田少尉がいたが、大根田少尉も十年前に亡くなっていた。
 つまり相談をもちかけ、命令を出したといわれる将校側に証言者がいないことがわかった。
 それでは相談にあずかった中隊長たちはどうか。
 戦闘詳報では、大隊長が第一、第三、第四の中隊長たちと意見交換したことになっている。このとき第二中隊は軍旗中隊として連隊長とともに城内に入っていたので第一大隊の作戦行動とは別行動である。
 三人の中隊長たちにあたることだ。
 まず第一中隊長であるが、岡部中尉もこのとき病院におり、増井少尉が代理をしていた。
 増井少尉をあたると、既に死亡していた。
 第三中隊長は西沢中尉である。
 ここではじめて生存者があらわれた。西沢中尉は存命中で、栃木県ではなく、生まれ故郷の長野県に住んでいることがわかった。
 ところが、さっそく連絡を取ると、既に八十八歳で、以前から脳内出血のため寝たきりでロもきけない状況であるという。
 とても会うことはできないというので、家族の方にそのときの様子を聞いてもらおうとした。しかし、家族の方も細かいことは聞きただすことを遠慮している状況であるという。生存はしているけれど、証言は得られない。
 西沢中隊長はこのときの戦いを「われらの戦記 -歩兵第六十六連隊第三中隊のあゆみ-」という私家本にまとめている。当時の日記をもとに、昭和四十七年にまとめたものである。しかし、この中に捕虜のことは書かれていない。
 最後の頼みは第四中隊長である。
 第四中隊長の手塚中尉は地元宇都宮で健在であった。いよいよ証言が得られるのか。
 さっそく手塚中隊長を自宅にたずねると、手塚中隊長は十二月七日、株陵関を突破したところで右足に貫通銃創をうけ、そのため平沢少尉が代理で指揮をとることになったという。手塚中隊長は後方の野戦病院にいて、南京城を目の前にして、中隊では何か行われたのかわからない。
 それでは、平沢少尉の消息を探したが、平沢少尉も三年前に亡くなっていた。
 このように真相がつかめると思っていた大隊長、中隊長からは何も聞くことはできなかった。
 そこで少しでも手掛かりを得たいと思い、その前後の話だけでも手塚中隊長から聞くことにした。
 手塚中隊長から話を聞くことになったとき、手塚中隊長は八十四歳になっていた。宇都宮の農家に生まれ、学校を卒業してから家業の農業を継ぎ、その途中、戦争に行き、戦後は公民館長などもつとめ、地元では人望のあった人である。中支での戦いを手塚中隊長も「聖戦の思い出」としてまとめている。青春をかけ、生涯二度とない体験をしたという思いは第三中隊長の西沢中尉と同じだ。そしてそれは中隊長だけでなく兵隊たちも同じで、戦後になると旧部下は手塚中隊長を中心にして集まって、定期的に中隊会を開くようになった。しかし、次第に生存者が減り、元気な人も少なくなって、昭和五十年代の終わりに開かれた中隊会が最後で、それからは開かれていない。手塚中隊長は年齢に比べれば元気で、私が訪問すると、筆記用具を用意して待っていてくれた。耳もよく聞こえるし、声もはりがある。ただ足だけが不自由で、
 「私が外に出れませんから中隊会も開いていません。第四中隊の人も少なくなり、元気な人もほとんどいなくなりました。淋しいものです」
 と説明した。足が不自由なため座敷をはって歩く。いくらかくしゃくといっても、老人であるのには変わりない。
 そんな手塚氏であったけれど、私から戦闘詳報のコピーを受けとると一変した。急に目が輝き、それまでのゆっくりした口調とは変わって、大きな声で戦闘詳報を読みだした。途中、「ほう!」とか、「なになに、意見を交換して?」などと大きい声をあげた。一度読むと、手塚氏はもう一度ゆっくり読み直した。
 読み終わったあと、相当驚いたようすで、コピーを無意味にためつすがめつながめていた。
 手塚中隊長は、偕行社が南京事件を調査するようになったため、南京ではそういうことがあったらしく、しかも事件と関係ある記述が第一大隊の戦闘詳報に記載されているということは聞いていたが、戦闘詳報を見るのははじめてだという。年が年であるからめったに驚くようなこともないと思われるが、戦闘詳報の内容には相当驚いたようである。公式文書に書いてあるのだから驚くのも当然かもしれない。
 しばらくして、「こういうことがあったのかねえ」と言った。部隊の行動を記録しているはずの戦闘詳報だから否定するわけにはいかない。しかし、記述されていることはとても信じられない。信じたらよいのか、間違いだと決めていいのか、まよっているようである。
 会ったとたんにそんなことが十数分続いてから、手塚中隊長が話してくれたその前後の様子は次のようなものであった。
 昭和十二年十二月七日、南京に向かっている途中、手塚隊長は負傷し、平沢少尉と交代した。すぐ後方の野戦病院に運ばれた。野戦病院といっても形だけのものである。それから一週間ほどで南京は陥落し、入城式の日になって手塚隊長は南京城内に運び込まれた。それから数日後、上海に運ばれ、そこの病院に入院した。
 翌十三年一月にほぼ傷が治って、第四中隊に復帰して平沢代理と引き継ぎをすることになった。引き継ぎをした際、その間のさまざまな報告を受けたけれど、捕虜を殺したというような話は何も聞かなかった。
 しばらくすると、別の部下から、南京で中国兵を殺したという話を聞いた。そのときは、別段気にもとめていなかったので詳しく聞くことはしなかったが、数人の中国兵をやった、というニュアンスで部下の話を聞いた。
 南京で中国兵をやったという話を聞いたのはそれだけである。もし戦闘詳報のようなことがあったとするなら、そのことではなかろうか。
 こういう話である。
 その後、誰が命令したと考えられるか、捕虜に対して手塚隊長はどのような考えを持っていたかなどを質問すると、手塚中隊長は次のように言った。
 「激しい戦闘でしたから敵慌心は相当なものでした。
 あのころ、一刈さんも負傷していましたから、渋谷さんが命令したのだろうか。
 渋谷さんは現役の将校で、第一大隊の現役は一刈さんと二人だけでした。連隊が編成されるというので満州から急遽やってくることになったが、宇都宮まで来る時間がなかったので五島列島で私たちと一緒になりました。まあ豪胆な人でした。
 しかし、中国兵をどうするというのは大きい問題だから上のほうに問い合わせたと思います」
 これ以上手塚中隊長もわからない。
 大隊長と中隊長の間で本当に話し合われたのかはとうとう証言が得られなかった。上のほうの連隊の関係者にも生存者はいなかった。(つづく)

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