城壘17


丸MARU 1990年5月号 通算526号 連載第17回
戦闘詳報を記載したのは誰
 昭和十二年十二月十三日、南京に突入した日本軍は、引き続き南京城内を掃討し、完全に占領し、その後、南京の警備を続け、翌年一月末に他の部隊と交替して南京を去った。この間、日本軍の軍紀は完全無欠であったのだろうか。
 その点に関して言えば、必ずしもそうではない。
 松井中支那方面軍司令官は、南京に入城したとき、塚田攻参謀長より作戦状況の報告を受けたが、その報告の中には、日本軍が十数件の非行を働いたという憲兵隊の報告があった。これを聴いて、松井軍司令官は激怒し、非行を働いた兵隊の厳正な処罰と、今後一層厳しく取り締まるように命令した。のち、東京裁判で松井大将が認めた日本軍の非行である。
 しかし、松井大将が怒った非行というものは、数万の人間がいれば、どんな社会にもあることである。それは軍隊も例外ではない。もちろんそのことはとがめればとがめられることである。
 このような軍紀とは別に、南京では、捕らえた中国兵についての問題があった。これが後に南京虐殺という言葉を生むひとつの原因となった。
 日本軍から見れば、南京戦は最も基本的な戦闘である。日本軍は南京を包囲して、中国軍を殲滅するために四方から南京に向かった。
 軍の作戦要務令には、攻撃の主眼は敵を包囲して之を戦場に殲滅するに在り、とある。殲滅とは敵を残らず殺すことである。包囲して、少しでも多く敵を殲滅する。多ければ多いほどよい。そうすれば戦いは勝利し、早く終結する。それが戦争というものである。
 南京に向かった日本軍のうち、第十三師団と国崎支隊が長駆、揚子江を渡って左岸から南京に向かったのはそのためである。
 南京攻撃はこういった戦闘の基本に忠実に進みつつあった。
 十二月十日、中国軍は日本軍の降伏勧告を拒否した。拒否された後、日本軍は中国兵の殲滅以外は何も考えていない。第一線では激しい戦闘が繰り返され、あらゆる方法で中国兵を殲滅しながら戦闘は続けられていた。
 一方、中国軍から見ても首都南京防衛を放棄することは建前の上で考えられず、降伏は一切ない。降伏する兵がいるとすればそれは敵前逃亡であり、中国軍には中国軍特有の督戦隊がいて、こういった兵隊たちを直ちに射殺していた。中国軍には、日本軍を撃退するか自軍の全滅かしがない。包囲網から逃げるというのは最後の最後で、そしてもしそれができれば僥倖である。
 こうやって戦闘は行われており、日本軍は南京城に入った十三日以降も、軍服を脱いで便衣兵となって逃げ込んだ敗残兵を殲滅していった。この段階でも中国兵にとって降伏はない。日本軍に反撃したり、市民に化けたりしていかに逃げのびるかだけである。
 ここで問題になるのは、殲滅だけを考えていた第一線の部隊に行き過ぎはなかったかである。中国兵がかわいくて仕方なかった松井大将にしてみれば、いくら戦闘とはいえ、どうにかならなかったのかという思いがあったのかもしれない。
 この疑問に関していえば、南京ではある時刻を境に戦闘が終わったものでもなく、多くの戦場の場合同様曖昧模糊としている。中国軍の反撃は終息に向かっているのか、これから大反撃があるのか、日本軍は分からない。掃討戦を続けるだけである。兵隊たちは戦闘が続いているとの認識で、例えば福知山の部隊は捕らえた中国兵を玄武門に連行して殺したけれど、そのことを掃討作戦と考えていた。
 これが第一線の状況であったけれど、これに対して、後方では、捕らえた中国兵をその場で釈放したり、捕らえたままにして戦闘が一段落した段階で捕虜として収容したりした。
 このことが後に様々に言われるようになったのである。
 この他、南京では会津若松の部隊が直面した幕府山の出来事などがあった。これは突発的な出来事であるが、これらすべてが東京裁判のいう南京事件にあわせて虐殺だとみなす考えが戦後になり生まれた。しかし、これは戦闘を知らない人の空論、あるいは、ひとつの現象面だけを取り上げた議論であろう。
 このように第一線での中国兵殲滅は、それまでの戦闘の流れの中で行われたのであり、虐殺とは全く別のものであるけれど、それではすべてがそうであったのか。
 しかし、殲滅戦と思われるこれら一連の戦いの中には、上からの命令によって中国兵を処刑したと公式に記録しているものがある。
 それは、高松伍長が所属していた宇都宮第六十六連隊第一大隊の戦闘詳報である。
 この第一大隊戦闘詳報が知られたのは今から十年ほど前、児島穣氏が週刊文春に『日中戦争』を連載して、その中にその一部を引用したときである。
 児島氏は、この資料をある部隊の戦闘詳報として、部隊名を記さなかったけれど、次のような内容だと紹介した。
 「午後二時零分、連隊長より左の命令を受く。
 左記
 イ 旅団命令により捕虜は全部殺すべし。
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。
   午後三時三十分、各中隊長を集め、捕虜の処分に付き意見の交換をなしたる結果、各
   中隊(第一、第三、第四中隊)に等分の分配し、監禁室より五十名宛連れ出し、第一中
   隊は露営地南方谷地、第三中隊は露営地南西凹地、第四中隊は露営地東南谷地付近に
   於て、刺殺せしむることとせり。但し、監禁室の周囲は厳重に警戒兵を配置し、連れ
   出す際絶対に感知されざる如く注意す。
   各隊共に午後時準備終り、刺殺を開始し、午後七時三十分刺殺を終へり。
   連隊に報告す。
   第一中隊は、当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして、失敗せり。
   捕虜は、観念し恐れず軍刀の前に首を差し伸びるもの、銃剣の前に乗り出し従容とし
   居るものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり、特に隊長巡視の際
   は、各所に其の声起れり」
 このような戦闘詳報である。
 文語体と戦闘詳報独特の簡潔な書き方が読む人に凄さを想像させるが、ここに描かれていることはまさしく虐殺てある。戦闘詳報に書かれていることは本当なのだろうか。

虐殺命令は本当に出されたか
 この資料は、それまでの南京虐殺の証拠として出されたものと比べ、比較にならないほどの価値を持っていると言えた。なぜなら、それまで証拠といわれた多くのものは、中国兵が処刑されるのを見たというものや、中国兵の死体を見たという類いのものである。しかし、戦場なら死体はいくらでもあるし、また、便衣兵の殲滅や反抗する中国兵の処刑は行われたから、死体や処刑がそのまま虐殺の証拠とはならない。また、兵隊が内地に書き送った手紙や、戦地で書かれた日記などにも悲惨な様子が書かれていることがあるが、戦場はもともとそういうものであり、悲惨な様子が書かれているからといって南京が特別残酷な戦場で、南京で虐殺が行われたということにはならない。
 こういった証拠と称するものが戦後数多く新聞などを賑わしたけれど、証拠というからにはもう一歩踏み込んだものでなければならない。
 その一歩踏み込んだものとして、かつて捕虜処刑の軍命令が出されたという証言が出された。すなわち、上海派遣軍の長勇参謀が捕虜処刑を命じたというものである。もしそうであればこれは重要である。
 しかし、これも武勇伝のよくある長参謀のまわりにある話のひとつであり、まして敵味方が戦う戦場での話てあればそういう伝説があっても不思議ではない。結局、長参謀は情報参謀であり作戦命令を下す地位にいなかったし、そういう命令もなかったことが分かり、証拠というほどのものではなかった。
 ところが第六十六連隊第一大隊戦闘詳報は、公式文書の形で捕虜処刑の命令があったことをはっきり伝えており、今までのものとは質を異にする。それ故、第六十六連隊第一大隊戦闘詳報は注目すべきものであった。
 この戦闘詳報を見たほとんどの人は、噂にのぼっていた捕虜処刑についてやはり軍命令があったのかと思った。だから南京虐殺があったと主張する人が、これこそ捕虜虐殺の決定的証拠である、と指摘するのも当然である。
 ところで、この資料が公開されると、軍人だった人の中から、公式文書とはいえ史料点検が行われなければならない、公式文書の形をとっているとはいえそれだけで全面的に信用できるものであろうか、という声があがった。
 というのは、まず、数多く残っている南京攻略戦の戦闘詳報や命令綴には、上級指揮官が軍紀厳正を要求している命令はあっても、捕虜を殺せなどという命令は全くない。この戦闘詳報だけは例外であり、不自然である。だから確かめなくてはならないというのだ。
 ある軍人は、この戦闘詳報を見て、
 「只々驚く他なく、戦闘詳報の記事は異常のものとして論じようもありません」と述べた。それほど当時の軍の命令を知っている人にとっては信じられない内容である。
 次に、一般に言って陣中日記、戦闘詳報といったものは、戦闘中であれば砲弾の飛ぶ中でメモされたものを基にして後に書かれる。その際、記録すべき者が戦死などして、戦闘に参加していない者がまとめることがある。その上、生死をかけたものであるから、敵の戦死者を多くみつもりがちだとか、実際以上に激しい戦闘があったとか、それだけにとどまらず、攻撃していないのに攻撃している、占領していないのに占領していると書かれる場合もある。こういうことが経験的に知られていた。
 そのため、形の上では公式文書てあるが、そのまま鵜呑みにできない。ましてまだ証言者のいることであるから証言によって確認しなければならないというのだ。この意見は、中隊長など実戦て指導を取り戦闘詳報と実際の戦場との差を知っている人に多かった。
 第一大隊戦闘詳報は防衛庁の戦史史料室にもあり、公式文書として残っている。そのまま点検されずに残されれば、南京虐殺が軍命令によって行われた証拠として残るであろう。
 本当に戦闘詳報通りの出来事があったのだろうか。
 そのことを点検するためには、まず、このときの第六十六連隊の戦闘状況はどうだったのか、それを把握しなければならない。
 戦闘状況を把握しようとするとき、最初に参考すべきは当時の公式記録である。
 当時の公式記録としては、中支那方面軍の命令綴、第十軍の作戦指導に関する参考資料、第百十四師団の作戦資料綴、第六十六連隊命令綴、野重砲第十三連隊命令などが現存している。
 しかし、これらをつないでも第六十六連隊の戦闘状況を書くことはできない。
 ちなみに第十軍の公式記録によると、第百十四師団は十二月十二日に南京城に突入している。しかし、第百十四師団の記録を見ると、十二日に城壁占領という記述もあれば、一方では十三日午前九時半、いまだに城外から南京突入の命令を出している。これは、十二日には右翼隊が雨花門を占領し、十三日には左翼隊が中華門近くの城壁から突入しようとしていることを示しているのだが、公式文書だけからは戦闘の実態がよく分からない。そこで公式文書以外のなの、例えば当時の新聞報道などが参考になる。
 しかし、新聞報道も正しいとはいえない。

証言と証拠から判断した状況
 当時の新聞を見ると、第百十四師団の各部隊は十二月十日に中華門から突入、城内を攻撃中と伝えているものもあれば、十二日午後に城内に進出と言うものもある。さらに十三日午前に中山門から入ったというのもある。まるっきりばらばらである。十日に中華門から突入というのであれば、日本軍で最初の南京城内突入である。十三日中山門から入ったということであれば、他の師団の戦闘地域で戦っていたことになる。
 もちろん当時の記録は故意に誤って書かれたものではないが、公式文書や記録は鵜呑みにできないことが分かる。当時の記録だけで戦闘状況を語ろうとしては何も語れなくなる。
 結局、記録の不備、間違いを補うため証言に頼ることになる。
 戦後、第六十六連一隊の戦史が二度まとめられた。一度は昭和三十七年のサンケイ新聞栃木版の「郷土部隊奮戦記」であり、もう一度は昭和五十四年の栃木新聞の「野州兵団の軌跡」である。どちらも参戦者の証言と、当時の戦闘詳報、陣中日誌を基に書かれている。証言が記録と同様に重要だということであろう。
 そういうことで証言と証拠から昭和十二年十二月十二日の戦場に戻ると次のようになる。
 南京城を前にして第百十四師団は幅約一キロメートルの戦線に西から東へ水戸の第百二連隊、宇都宮の第六十六連隊、高崎の第百十五連隊、松本の第百五十連隊と並び、水戸と宇都宮が中華門近くの城壁、高崎と松本が雨花門を目標にした。一つの連隊の攻撃範囲は二百五十メートルほどである。このため同じ目標の連隊どうしが相手の陣地に入ることもしばしばあった。この中で第六十六連隊は第三大隊が東側、第一隊が西側で第一線になり、雨花台を越えたところで第三大隊が城壁から突入を狙い、それを第一大隊が援護することになった。第二大隊は後方で師団の予備隊となっている。
 問題はこのあとである。第一大隊戦闘詳報によると、第一大隊はこの日の昼、雨花台を越えて南京城目前まで進み、そこから城壁までの間の敵と戦うことになった。第一大隊は戦い進み、午後二時までに二百名の中国兵をたおし、夕方までさらに七百名をたおした。そして夜になるまで千五百名の中国兵を捕らえた。
 戦闘詳報によれば、翌日、第一大隊はこの中国兵を連隊からの命令で処刑したというのだ。
 この捕らえた中国兵に関する記録がどのくらい正確なものなのか。
 まず、肝心の中国兵処刑命令についてである。
 第一大隊戦闘詳報には十三日午後二時に処刑の連隊命令がでたとあるが、この命令とはどんなものてあったのだろうか。この前後、連隊からは午前三時十分に「作戦命令甲第八十五号」と。午後九時に「作戦命令甲第八十六号」が出されており、この二つの命令には捕虜処刑の命令は一切ない。捕虜に関することなら作戦上のことであり、当然作戦命令甲として出されるはずである。
 また、この命令は旅団命令により連隊長が命じたとあるが、指揮系統からいえば、師団旅団連隊と命令は伝達され、師団と旅団が同一場所にいるときなら旅団は師団の命令を連隊に取り次ぐだけになる。このとき、南京城を目の前にした師団司令部、旅団司令部、連隊本部はほとんど同一場所にいた。せいぜい離れていても一キロメートルかニキロメートルである。
 旅団命令としてどのような命令が出されたのか資料が残っていないので不明だが、このときの師団命令を見ると、第百十四師団作戦命令甲第六十二号が十二月十三日午前九時に、第六十三号が午後八時に出されており、ここにも捕虜を処刑するようにという命令はない。
 師団からにしろ連隊からにしろ緊急の命令の場合、口頭で出されることもあるけれど、あとで必ず文書にして出されるから、文書の形が残っていないということはこのとき作戦命令で出されていなかったということになる。この場合、処刑命令は一刻を争うようなものではない。
 また、連隊から第一大隊に出された作戦命令であるなら、第二大隊と第三大隊にも出されているはずである。しかし、現存している第二大隊の陣中日誌を見るとそのような命令が出された記述はない。
 ちなみに第二大隊がさらに隷下の中隊に出した命令を見ると、第五十一号が十三日午前十一時、第五十二号が午後九時三十分である。もちろんどちらにもその上うな命令はない。つまり発令者のほうから見ると、連隊や師団が命令を出した形跡は一つもないということである。
 今度は別の面から検討してみよう。
 第一大隊戦闘詳報には、旅団命令として「十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」とあるけれど、一般的に言って、命令には「……如何」という相談風なものはない。生死をかける軍隊で「……如何」という命令を出していたら兵隊は命令どおり動かなくなる。「……せよ」という有無をいわせぬ命令だから兵隊は命をかけて命令どおり動くのである。
 つまり、この戦闘詳報の表現は、命令が実際はなかったということを暗示しているのではないのか。あるいは、この命令というものは口頭で何かが行われ、そのためこのような相談風となったのではないのか。
 そこで考えられることは、命令以外の何かであるのかということだ。軍には文書による命令の他に、単なる口頭命令の場合もあるし(さきほどの口頭で出された後、文書で改めて出される命令とは違う)、指示の場合もある。これらのどれかだったのだろうか。
 しかし戦闘詳報からは分からない。(つづく)

次へ

戻る
inserted by FC2 system