城壘16


丸MARU 1990年4月号 通算525号 連載第16回
首都南京はつかの間の平和
 南京城の北側にいた会津若松第六十五連隊は、十二月十七日にかつて経験したこともない異常な出来事が突発したため、浦口行きを一日延期することになった。当初の出発予定日だった十九日、連隊は幕府山麓の上元門で休んだ。
 兵隊たちが久し振りにのんびりしていると、一昨日の入城式に参加した兵隊が来て、入城式の様子を話し出してくれた。会津若松の連隊で入城式に参加したのはごく一部の将兵だけで、ほとんどの兵隊は入城式があったことも知らなかった。
 栗原分隊長もそのときはじめて入城式があったことを知った。入城式は立派で堂々としていたという。
 中隊長もその話を兵隊たちと聞いていたが、しばらくすると、せっかく南京まで来たのだから南京城だけでも見に行こうと栗原分隊長を誘った。
 南京城は遠くに見るだけであったので、栗原分隊長もぜひ南京城を間近に見たいと思った。
 南京城は、入ることを禁止されていたけれど、中隊長が近くの城門を見るだけだと言うので、栗原分隊長ら二人は中隊長と馬に乗って行くことにした。
 上元門から小高い丘を越えてニキロメートルほど行くと、城壁が見えてくる。そこは南京城の北の門で、二人は門のそばまで行った。十メートルを越える城壁が目の前にひろがり、どっしりした城壁がどこまでも続いている。その城壁を見て、これが南京なのだ、と栗原分隊長は思った。会津若松の連隊は一日のんびりしたあと、翌二十日朝早く上元門を出発した。しばらく進むと城壁の一部が近くに見えてくる。そのまま南京城壁を左に見て進み、下関から船に乗った。揚子江は真っ黒い水が激しく流れていた。
 一方、南京城内は日に日に落ち着きを取り戻してきていた。鯖江連隊の西坂上等兵たちが宿営している辺りは、入城式が行われたころから中国人が即席の店を出し始めた。戦乱になれている中国人は、占領地の情報をつかむことが早く、安全だとわかると、今までどこに隠れていたのか、アッという間に現れてくる。煙草が日本兵にとって最も貴重品だというのも知っていて、日本兵相手に一本一本ばら売りを始める中国人も現れた。
 西坂上等兵たち第六中隊は宿営地の申家港でそのまま数日間のんびり過ごした。
 都城連隊の鎌田上等兵は入城式に出席した翌日、慰霊祭にも出席した。そして、その後は再び水西門内の民家に宿営した。
 はじめて水西門から南京城に入ったとき、辺りには一人の中国人も見かけなかったが。慰霊祭が終わるころにぼつぽつ市民が現れ出した。中国人は自分の家がどうなっているのか心配になっているらしく、自分の家が安全なのを確かめるとまたどこかに去って行った。
 入城式のころ南京郊外にいた福知山の山室分隊は、当初一週間ほど下騏麟門で野戦病院を警備する予定であったけれど、途中で変更になり、南京城内を警備することになった。
 二十日午後に南京城に戻り、その日は国民政府の建物のすぐそばにある国民大会堂の付近の建物に宿営した。
 二十一日は国民大会堂で福知山連隊の合同慰霊祭が行われた。この慰霊祭には山室分隊長も出席した。
 慰霊祭に参加しながら、山室分隊長は、南京陥落を夢見ながらたおれた兵隊を思い出し、思わず涙を流した。山室分隊では二人の兵士を失っている。
 国民大会堂近くでも南京市民たちが新しい生活を始め出していた。
 慰霊祭から三日後の十二月二十一日、南京攻略に参加した部隊に新しい命令が出された。
 中支那方面軍司令部は上海に戻ることになった。
 南京は中国の首都であるけれど、上海にはイギリスやフランスが権益を持つ租界地があり、各国の主なジャーナリストもここに集まっている。また日本の大使館も実際は上海で機能している。上海は国際都市の名前にふさわしく、これから中国とのさまざまな交渉は上海が舞台になるはずである。中支那方面軍司令部が上海に戻るのは当然である。
 二十二日の午前十時半、松井石根軍司令官は司令部の幕僚とともに下関から水雷艇「鴻」に乗り、上海に向かった。
 南京には上海派遣軍司令部が残ることになった。南京攻略の直前、軍司令官に着任した朝香宮中将の司令部である。
 上海派遣軍の各部隊にも新しい命令が与えられた。第十六師団は南京に残って警備を続けることになった。第九師団は上海に戻り上海付近の警備をすることになり、既に揚子江左岸に渡っていた第十三師団がそのまま揚子江の北岸を整備することに決まった。
 一方、第十軍は、杭州を攻撃することになったため、十八日の慰霊祭が終わるとともに軍司令部が杭州に向かっていた。隷下の第百十四師団も十七日に長興に向けて出発し、第十八師団も杭州に向かっている。
 それまで蕪湖を警備していた第十八師団が杭州に向かうことになったため、代わりに第六師団が蕪湖を警備することになり、南京城西側にいた第六師団は二十一日から蕪湖に向かうことになった。
 中国では清の末期に、清朝と革命勢力との争いが起こり、その後は軍閥同士の戦いが続き、近年は国民党と共産党との戦いが繰返えされてきた。戦争がおきて時の為政者がいなくなると、その代わりを町の古老や有力者がつとめる。それは中国人の長年の知恵で、中国各地で行われてきた。町の人望家が集まって作られる組織は自治委員会とか治安維持会などといわれてきた。南京でも早急に中国人による行政機関か必要とされるようになってきた。そのため二十三日に自治委員会の準備会がスタートした。日本軍が南京城に入ってからわずか十日後である。
 委員長には六十一歳の陶錫山が就任した。中国では戦争のたびごとに多数の難民が発生したので、その難民を救助する慈善事業が早くから発達していた。陶錫山はこれまて十五年間にわたってそのような慈善事業にたすさわってきて、南京に難民区が出来たときも中国人の会長として、市民の救済にあたってきた。自治委員会の委員長としては適役であった。
 副会長以下にも、慈善事業家や銀行の副頭取などが就任し、自治委員会発足の準備が進められることになった。
 当初心配された食糧も、国立美術館から一万二千俵の米がみつかるなどして、市民の生活は好転してきた。
 自治委員会の準備会が発足した翌十二月二十四日、鯖江第三十六連隊は新しい命令に従って南京を発つことになった。南京城に真っ先に突入し、そしてたおれた伊藤大隊長の霊に対し、鯖江連隊は全員が別れの挨拶をした。早朝、光華門に、「伊藤善光大隊長以下の英霊に対し奉り捧げ銃!」と叫ぶ号令が響きわたり、この号令を合図に第三十六連隊は南京城を出発した。
 九月に鯖江を出発した兵士のうち、この日光華門をあとにした兵士は二割にも満たなかった。上海と南京の戦いがどれほど激しかったか。
 西坂上等兵たちは光華門を後にすると、中山陵を左手に見ながら句容に向かった。第三十六連隊と入れ代わりに、避難民たちが句容道を南京に向かってきた。郊外に避難していた市民も南京が安全になったことを知っている。天びんに家財道具を積んだ市民と第三十六連隊は句容道でつぎつぎすれちがった。

難民地区で中国ゲリラ狩り
 国民大会堂近くの建物に宿営していた福知山連隊の第一大隊は、十二月二十六日、上海派遣軍司令部のある首都飯店と同じ並びにある軍政部に移ることになった。軍政部といっても首都飯店と比べると小さい建物で、ここは上海で戦いが始まってから中国軍の臨時野戦病院として使われていたところである。軍政部では、日本軍が南京に近付くにつれ、運び込まれる負傷兵が増えていったけれど、逆に医師や看護婦は南京から疎開していった。山室分隊長たちが南京城内に入ったとき、軍政部には死者と動けない負傷兵だけが充満していた。しばらくして、十三人の医師と五十人の看護婦が戻ってきたけれど、彼らの仕事は負傷兵の手当ではなく死体を運び出すことだけであった。かろうじて生き残った中国兵はその後日本軍医の手当を受け、別の建物に収容された。
 山室分隊長たちが軍政部を宿舎として使おうとしたとき、建物にはまだ消毒液のにおいが染み込んでいた。
 そんな軍政部ではあったけれど、軍政部に移ってから、山室分隊はのんびりとした日を過ごした。兵隊たちは泥と汗で汚れすり切れていた軍服を洗濯し、髭を剃ってさっぱりした。
 身の回りの整理が終わると、兵隊たちの関心は食べ物に集まる。
 商売上手な日本の商人が兵隊の気持ちを見透かしているかのようにトラックに食料を満載して上海からやってきた。上海から南京までの間は中国の敗残兵がいて、危険ではあったけれど、商人たちは商売のためにはそれでもやってくる。
 酒一合は二十五銭、五十本入の煙草は三円、羊羹は二十銭で、内地の何倍もの値段がした。それでも移動酒保が来ると兵隊たちはむらがり、トラックが到着すると同時になくなってしまう。
 山室分隊長は酒も煙草ものまないだけに甘い物には目がなく、いつも移動酒保が来るのを楽しみに待っていた。
 やがて昭和十三年の正月をむかえた。
 元日、軍政部にいた機関銃中隊は一堂に集まり、東天を遥拝し、天皇陛下万歳を三唱したあと、祝宴を開いた。
 祝宴ては、雑煮のほかに数の子、ごまめ、黒豆、鯛、えび、昆布、蒲鉾、ごぼう、といった正月料理が一人ずつ用意された。量は少なかったけれど、品数が多く、正月らしさをかもしだしていた。その他、酒、羊羹、みかん、日本米のご飯もついた。
 山室分隊長はこの後、准士官下士官の宴会に出席し、部隊は正月のお祝いで一日中賑わった。
 町では自治委員会の発足式が南京市民たちの間で華々しく行われていた。疎開していた市民たちはつぎつぎ戻ってきており、一日ごとに増え、南京の人口は二十数万人を数えるようになっていた。
 のんびり正月を迎えていた二日の夕方、突然、高射砲の音が南京城内に響いた。夕闇を利用して中国機が南京を爆撃するためにやってきたためである。すぐに日本軍から五機の戦闘機が飛び立ち、中国機はすぐさま逃げて行ったが、そのため、夜には火が外に漏れないようにとの注意が出された。噂によると、南京郊外には中国軍が大挙集結しているという話である。
 それでも南京では平和な日が続いた。
 第六師団では各連隊が十二月二十一日から蕪湖に向かったけれど、都城の連隊が最後まで残り、鎌田上等兵たちは水西門で正月をむかえた。
 鎌田上等兵たちもささやかに正月を祝い、一月三日、蕪湖に向かうことになった。
 城内にある難民区は日本軍が南京城に入った直後、金沢の連隊が掃討作戦を行い、便衣兵を摘発していたけれど、その後も市民はそのまま難民区で生活を続けていた。しかし、避難民をいつまでも難民区で生活させていると、南京の町が復興しないので、暮れの二十四日から、難民調査を行い、南京市民であることがはっきりした者には安居証を渡し、自分の住まいに帰らせることにした。調査は日本軍と自治委員会とが手分けして行った。
 改めて行われた調査は一月五日まて続けられ、この調査てさらに二千人近くの便衣兵が摘発された。
 便衣兵は外交部に収容された。この中には難民区国際委員会の大学教授の助手をつとめていた中国軍の大佐がいて、大佐一味の中には、難民区の女性を襲って日本兵の仕業にみせかけている者もいた。これら一味はたまたま摘発できたけれど、難民区国際委員会はアメリカの建物にあるため、ここまでは捜査することが出来ない。その他、中国兵かひそんでいることが分かっても、星条旗が翻っているため、手が出せない建物がいくつもあり、調査は完全でなかった。アメリカは自国権益を主張し、日本軍とトラブルが絶えなかった。このため、調査は必ずしも完全ではなかったけれど、日本軍も自治委員会もこれ以上徹底を期することはできなかった。
 一月七日になるとあらたに東京で編成された憲兵が南京にやってきた。それまでは上海憲兵隊と補助憲兵が憲兵隊としての任務を行っていたけれど、日本軍が本格的に南京を整備するようになったため、南京憲兵隊が編成され、派遣されたものである。
 新しく派遣された憲兵隊は、日本兵の軍紀だけではなく、中国軍の謀略にも注意しなければならなかった。国民政府が南京を放棄した際、多くの間諜を放ったと予想された。そのままにしておけば、日本軍の作戦がつつぬけになる恐れがあり、また、こういった間諜から日本軍司令部が急襲される可能性もある。南京の表面上の平静さとは違って、裏のほうでは憲兵隊による激しい情報収集が行われていた。

届いた内地からの慰問袋
 正月が明けたころから、本格的な店も営業を始め出した。その前から泥棒市は町のあちこちに出始めていた。中国では、戦争がおきると、どさくさにまぎれて略奪が行われ、戦争が終わると、略奪されたものが売りに出される。それが中国全土に見られる泥棒市で、南京でも絨毯から食べ物までさまざまなものが売りに出された。この泥棒市に続いて、本格的な店が営業を始め出したのだ。最も賑やかなのは四、五十軒の店が開いている山中路である。
 一月十日、国民大会堂で大娯楽会が開かれた。兵隊といってもまだ二十代の若者であり、この若者にとって戦場には何一つ娯楽らしきものはない。このために大娯楽会が開かれることになった。
 国民大会堂では午前十時から午後五時まで、四十五のさまざまな出し物が演じられた。大娯楽会では部隊ごとに何か喜劇を演じることになっていたのて、どの部隊も何日も前から練習をしてこの日にそなえていた。部隊ごとの喜劇の他に、長崎から来た芸者の踊り、手品、漫才、一剣舞、浪花節、民謡、ピアノ演奏などが喝采を博したけれど、兵隊たちの演ずる喜劇が最も喝采を浴びた。
 正月料理も大娯楽会も嬉しかったけれど、山室分隊長が最も喜んだのは慰問袋であった。
 慰問袋を最初に受け取ったのは一月八日である。そのときの慰問袋は、国防婦人会からのもので、中には氷砂糖、昆布、メンソレータム、褌三本が入っていた。戦場では必需品かなく、不自由であっただけに、どんなものでもありがたがったけれど、それ以上に心のこもった思いやりに山室分隊長は感激した。
 慰問袋は十六日と十九日にも貰った。
 十六日の慰問袋は小学生からのもので、菓子、ちり紙、手拭、封筒、薬が入っていた。小学生らしい慰問袋で、この慰問袋にはさっそくお礼の言葉を書いた。
 十九日の慰問袋は三井合名会社からのもので、こちらは缶詰。小説、ブロマイド、氷砂糖、手袋、靴下、褌が入っている豪華な慰問袋であった。
 そんなのんびりした日を送っていたけれど、まもなく部隊には、南京を離れるという噂が流れ出した。
 南京城を攻めたとき、兵隊たちは、南京が日本軍のものになれは内地に帰れると思っていたけれど、中国では首都をおとされる前から蒋介石以下の中国政府の責任者が逃げてしまっている。それを聞いたとき、兵隊たちは、戦いは簡単に終わらないかもしれないと思った。
 南京を去るという噂は、南京を去って日本に帰るのではなく、もっと寒い所に行くという噂である。戦いは簡単に終わらないと思っていたからそんな噂を聞いても兵隊たちはそれほど驚きはしなかった。
 噂はやがて現実になり、第十六師団は南京を出発することになった。行き先は誰も知らない。
 二十二日、第十六師団では順番に下関から船に乗り、南京を後にしはしめた。山室分隊は翌二十三日に南京を出発することになった。
 二十三日は寒い日であった。午前七時から船に荷物や馬の積み込み始め、ようやく兵隊たちが船に乗り終えたのは午後五時であった。四十日間も南京にいたので兵隊の中には中国人と顔なじみになり、親しくなる者もいた。親しい中国人に挨拶に行った者もいれば、中国人が挨拶に来たものもいる。
 第十六師団が去った後、南京は第十一師団が警備することになっていた。
 この日、山室分隊長は船に寝て、翌二十四日午前六時、南京を離れた。
 南京は戦争前に戻っていた(つづく)

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