城壘15


丸MARU 1990年3月号 通算524号 連載第15回
折りかさなる中国兵の死体
 十二月十四日、南京郊外で大量の中国兵を捕まえた会津若松の第六十六連隊は、十六日になると大きい問題を抱えるようになった。中国兵に食べさせる物がなくなったからである。せめて飲み水だけと思ったけれど、近くには飲み水もなかった。栗原分隊長が監視していると、兵舎に収容されている中国兵が兵舎から顔を出し、すぐそばを流れる側溝に顔をつけて汚水を飲んでいる。汚水といっても、兵舎に収容された数千人の中国兵の小便が流れているものである。それを見て、中国兵をかわいそうに思ったけれど、栗原分隊長には他に良い方法はみつからなかった。
 山田栴二旅団長以下の司令部はすでに多数の中国兵を捕らえたときから中国兵をどうするかで頭を悩ませていた。南京での戦いは殲滅戦になると考えていたから、中国兵を捕まえるとは思ってもみなかった。しかも会津若松の連隊に捕まえられた中国兵は、いろいろな部隊からの集まりで統制は取れていないから、監視するだけでたいへんである。さらにその中国兵は捕らえたときから飢えていたので日本軍が食べさせなければならない。日本兵すら満足に食べていない補給態勢で、日本兵の倍もいる中国兵に食べさせることは不可能であった。多数の中国兵を収容できる兵舎が近くにあっただけでも運が良いといわなければならない。
 山田旅団長は、中国兵を捕まえた翌十五日には揚子江の左岸を進んでいた師団司令部に指示を仰いだ。本間少尉を師団司令部に派遣したところ、始末せよとの返事が返ってきた。師団司令部も南京を包囲殲滅するために、迂回して北から南京に向かおうとしている。たくさんの中国兵を捕まえることなどてんから考えていなかったから、このような決まりきった答しか返ってこなかった。
 山田旅団長はそこで翌十六日には相田中佐を南京城内に進出していた上海派遣軍司令部にやった。しかし、上海派遣軍司令部からも名案は来なかった。
 そのころ南京城は日本軍が完全に制圧して、会津若松の部隊には十九日に揚子江を渡って浦口に進出するように新たな命令がきた。多数の中国兵を連れて浦ロまで行くわけにはいかない。かといって釈放すれば、中国兵は結集して、再び日本軍に敵対する恐れがある。
 そこで山田旅団長は両角業作連隊長と相談して、中国兵を揚子江の中州に移すことに決意した。中州に移せば連隊は身軽になるし、中国兵は一時的に隔離されるから、日本軍に脅威になることもない。
 十七日午後、兵舎の警備についていた第一大隊に、揚子江岸まで中国兵を護送せよという命令がきた。そのとき兵舎の回りで警備していた栗原分隊など百三十名ほどが護送することになった。
 護送するといっても数千人という多数の中国兵だけに準備が大変である。中国兵が一斉に暴れだしたら危険なので、それぞれを後み手に結わえることにした。何千人分もの縄があろうはずもなかったので、主に中国兵が足に巻いている脚絆を使った。脚絆は厚い布でできているから、完全に結わえられることはできず、気休めにすぎなかったが、結わえないよりはましてある。そうやって一人でも多くの中国兵を結わえることにした。
 言葉が通じない上に、中国兵は素直に従わないこともあり、ひとりひとり結わえて整列させるまで半日近くかかった。ようやく準備を終わり中国兵を四列はどの列にして進むことになった。
 兵舎を出発したのは夕方近くである。日本兵は全員銃に着剣して護送することにしたけれど。数千人ほどの中国兵に対し日本兵は十メートル間隔ほどになる。一番後方を護送したのは栗原分隊長であった。
 栗原分隊長は、ニカ月前、上海の中国陣地を攻撃してる最中、迫撃砲の反撃を受けたことがあった。迫撃砲弾は栗原分隊長のニメートルほどのところで爆発し、爆発と同時に持っていた銃が吹っ飛び、吹き飛んだ土砂で埋められた。回りにいた部下が、分隊長がやられた、と叫ぶ声を、土の中で聞いた。そのとき、部下の叫んだ声は夢かうつつかと思った。兵士の声を聞きながら体を動かそうとすると、土砂の中で手足が動いた。そこで必死になってもがき、起き上がった。起き上がってみると、体中が泥だらけであったけれど、血は流れていなかった。
 奇跡的に助かったのだ。あと半歩後にいたら、そうでなくとも、数センチ横にずれていたら死んでいたはずである。
 そんな体験をしているだけに死を恐れる気持ちはなかったけれど、これはどの中国兵と一緒だと恐ろしくなってくる。中国兵を護送してるのか、中国兵に取り囲まれているのか分からない。
 夕暮れが迫ってきて、一層日本兵の恐怖を倍加していった。
 そのうち一人の中国兵が逃げようとしたのか、水を飲みたかったのか、隊列を抜け出し、小さな沼に飛び込んだ。それを見た一人の日本兵が飛び込んだ中国兵を撃った。撃たれた中国兵は沼の中で僅かの間もがいていたけれど、すぐに動かなくなり、やがて体から血が流れ出て、沼の水を赤く染めだした。
 そのときの銃声が中国兵と日本兵の間の緊張をさらに高めた。
 日本兵も中国兵もそれを見ながら行列は続いた。
 すでに出発して二、三時間が過ぎ、前のほうはもう揚子江岸に着いているようであった。中国兵の歩みはだらだらとして、普通の倍の時間がかかっていると思われた。
 もしこの中国兵たちが一斉に日本兵を襲えば、日本兵はひとたまりもないだろう。そんなことを栗原分隊長は思った。
 そのとき、列の前のほうで何か騒ぐ声が聞こえた。栗原分隊長は、その声が中国兵の声のような気がした。聞こえたかと思うと、それは「ウワーン」という異様な騒々しさに変わって、すぐに栗原分隊長が護衛する最後部の中国兵まで伝わってきた。
 目の前の中国兵の間で動揺がおきだした。中国兵は勝手に騒ぎだした。前の方から騒ぐ声が聞こえたのと最後部の中国兵が騒ぎ出したのは一瞬の間で、栗原分隊長は、一体何がおきたのか全く分からなかった。
 と思う間もなく、中国兵は、一斉に逃げだした。
 中国兵は回りが騒がしくなったので、それを利用して、逃げようとしたのだろう。あるいはそんなことを考えずに何も分からないままに逃げたのかもしれない。中国兵の中には今きた方向に逃げる兵もあれば、前方に逃げる中国兵もいた。日本兵に襲いかかるというより、ところかまわず逃げるという混乱になった。中央に逃げた中国兵は押し合いへい合いして、倒れた中国兵の上を別の中国兵が逃げるという大混乱になった。
 中国兵が急に逃げ出したので、日本兵は夢中になって銃を撃った。銃を持っているとはいえ、日本兵はわずかである。威嚇するために空に向けて撃った兵隊もいた。自分の身を守るために目の前にいる中国兵に向けて撃った兵隊もいた。先頭にいた重機関銃隊は重機関銃で撃った。命令も統制もなかった。百数十人の兵隊がそれぞれ勝手に撃った。中国兵と日本兵入り乱れての大混乱になった。
 群集心理として、混乱状態になると人の集まっている方向に逃げるものらしく、中央には中国兵が集まった。四方八方から中国兵が集まり、中国兵の上に中国兵が飛び乗り、さらにその上に別の中国兵が上って逃げようとする。天空に逃げようとしても逃けられるものではないが、中国兵は空に向かって逃げる。またたくまに人の柱ができた。しかし人の柱は数秒後にどっと崩れる。また中国兵が集まって人の柱ができ、崩れる。中央ではそれが何度か繰り返された。柱が崩れるたびに中国兵が折り重なる。最後方にいた栗原分隊長はただ呆然とその光景をみつめるだけであった。

揚子江に捨てられた多くの屍
 日本兵の銃火から逃れ、中国兵はどんどん逃げていく。中国兵はまとまって日本兵に襲いかかる考えもなく、ひたすらそれぞれの方向に逃げた。そんな混乱が何時間か続いた。あるいは何十分だったのかもしれない。
 逃げることのできた中国兵は全員逃げてしまい、ようやく混乱がおさまった。
 中国兵が逃げた後にはおびただしい数の中国兵が倒れていた。重機関銃で撃たれた者、歩兵銃で射殺された者、踏まれて圧死した者などさまざまである。
 その光景を見ながら日本兵は誰もが呆然としていた。しばらくして、ようやく我にかえった日本兵は、誰もが何とかしなくてはならないと、めいめいが動き出した。
 栗原分隊長は中央で折り重なっていた死体を崩した。上海では顔の砕けた日本兵や腕のとんだ日本兵などかずかずの死体を見てきたが、これだけの死体というのははじめてである。折り重なった中に虫の息の中国兵がいた。苦しませてはと思い、栗原分隊長は銃剣で刺し殺した。
 とにかくこの死体をどうにかしなくてはならない。しかし、だれも虚脱感に襲われていた。戦場とはいえ、想像もできない出来事だった。何もはかどらなかった。
 そのため、いったんは死体の山を崩したものの、今夜はそのままにして兵舎に戻り、明日改めて死体処理をすることに決った。
 第一大隊の兵隊が兵舎に戻ったとき、すでに真夜中になっていた。
 翌十八日は第一大隊だけでなく、他の大隊の兵隊も連れて行って死体を処理することになった。昨日、南京に来たばかりの補充兵も連れて行った。
 補充兵にとって会津若松を発ってはじめて自分の部隊に追及したところ、最初に連れて行かれたのが死体の山である。累々たる死体を見て、補充兵はだれもが驚いた。息を飲み、声にならない声をあげていた。
 栗原分隊長は、満州で匪賊の死体を見て、上海でも数多くの死体を見た。自分で焼いた死体もある。そういう経験をしていながら、この死体の数にはすさまじいと思ったから、戦場がはじめての補充兵がどのくらい驚いたかは想像もできなかった。補充兵は戦場は本当にむごいものだと思っただろう。栗原分隊長はそう思った。
 死体を処理するといってもあまりに多いので焼くこともできず、埋めることもできない。結局は揚子江に流すことにした。
 兵隊たちは辺りに生えている柳の枝で手鈎を作り、死体に引っ掛けて引っ張るなどして揚子江岸まで運び、そこから揚子江に流した。
 作業はその日一日かかった。夜遅くなってようやく終わった。
 護送の指揮を取った第一大隊長は、中国兵を舟に乗せて中州に連れて行き、そこに釈放する予定でいた。中州といっても日本でいえば島にあたり、民家もあればたくさんの人も住んでいる。ところがこの中州には南京が陥落しそうになった時から中国兵が逃げていて、中国兵を乗せた最初の舟が近付くと、既に逃げていた中国兵が一斉に撃ってきた。これを岸で見ていた中国兵が揚子江で日本兵に射殺されると勘違いしたらしく、騒ぎだし、日本兵に襲いかかった。それがきっかけで一瞬のうちに大混乱になってしまったのだ。
 第一大隊では将校も含めて七人が死んだ。しかし、あの大混乱で死んだ日本兵が七人だったとは奇跡的なことである。

松井軍司令官、涙の南京入城
 十二月十七日午後一時半から南京では入城式が行われた。よく晴れた日であった。
 中支那方面軍司令部は十二月七日から蘇州に移っていたが、二日前、南京郊外の湯水鎮まで軍司令部を進めていた。
 軍司令部では松井石根軍司令官が二ヵ月に及ぶ上海戦の心労から体を悪くしていた。その上、蘇州に移ったころから風邪気味で、肺炎の恐れもあった。そのため松井軍司令官は、皇后陛下からいただいたというお手製の毛糸の襟巻きを離さなかった。それでもようやく体の調子も良くなってきたので、十五旦飛行機と車で湯水鎮に進んでいた。
 司会部が上海-から進むとともに、高木衛兵長は衛兵をひきつれて従った。蘇州、湯水鎮と松井石根軍司令官の護衛の任にあたってきだけれど今日の入城式には先導役をつとめることになっていた。
 十二時半になり、松井軍司令官は車で湯水鎮の軍司令部を出発し、アスファルト道路を南京城に向かった。道路の両脇は松林が続いている。
 一時二十五分に中山門の外に着いた。
 既に南京城に入っていた上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦中将と第十軍司令官柳川平助中将が中山門外で松井軍司令官を待っていた。
 今日の式典は中山門から一キロメートルほど入ったところにある国民政府の前庭で行われる予定である。そして、中山門から式典会場までは松井軍司令官以下が馬で入城行進することになっていた。中山門は瓦礫や死体がかたづけられ、中山門から城内に続く中山東路も掃き清められ、南京城はすっきりしすぎるほどきれになっていた。中山門から国民政府の建物のあるところまでの中山東路には各部隊から選ばれた兵士たちが参列している。どの兵隊もそれなりにこぎれいにしていた。北を背にして上海派遣軍の将兵の代表が、南を背にして第十軍の将兵の代表が並んでいる。
 数十人の新聞社のカメラマンたちが、並んだ兵隊の間や中山門の上で、あるいは中山東路の電柱に梯子を掛けて松井軍司令官を待っていた。カメラマンだけでなくニュース映画のカメラマンはアイモを持って、NHKのアナウンサーはマイクを持って待ち構えていた。
 松井軍司令官は中山門の前まで来て、そこで馬に乗り換えた。
 一時半、松井軍司令官が先頭になり中山門から南京坂に入った。十メートルほど後方を朝香宮軍司令官と柳川軍司令官が並び、さらにその後に師団長、軍参謀長、師団参謀長、軍参謀などが続いた。高木衛兵長は憲兵隊長とともに松井軍司令官の五十メートルほど先を先導した。
 海軍の軍楽隊は南京の北西から入城した。空には飛行機が舞っていた。日露戦争で日本軍が奉天を攻め、大山巌軍司令官が入城式を行ったときに並ぶ晴れがましい入城式であった。
 この入城式には数千人の兵隊が参加したけれど、都城連隊を代表して鎌田上等兵も参加した。
 南京城一番乗りを果たした鯖江連隊は脇坂連隊長以下ほとんどが出席した。出席しなかったのは宿舎の当番だけである。
 西坂上等兵も第六中隊の一人として中山東路に整列して松井軍司令官を待った。
 間もなく、先導された松井軍司令官が見え、鯖江連隊の前まで進んてきた。
 西坂上等兵は軍司令官が進んでくるのを見ているうちに、軍司令官の顔がかすんできた。死んだ戦友の顔が浮かび、よくここまで生きてくることができたという気持ちや、ついに南京を陥落させたという気持ちがないまぜになって自然に涙が出たからである。溢れた涙はやがて目から流れ落ちた。
 中山東路を進んだ松井軍司令官は、国民政府の建物の前までくると右折し、国民政府の前庭に入った。長谷川清支那方面艦隊司令長官以下の海軍将兵は、既に南京の揚子江口にあたる下関より南京城に入り、国民政府の建物で松井軍司令官を待っていた。入城が済むと前庭には日の丸の旗が掲げられた。そのあと遥拝式を行い、松井軍司令官の発声で全員が大元帥陛下万歳を三唱した。松井軍司令官は感激のあまり第二声を発することができなかった。
 続いて松井軍司令官が挨拶を行った。そこでも思わず松井軍司令官は涙を流した。
 この後、全員、建物の中に入り、酒とするめで祝い、再び長谷川長官の発声で大元帥陛下万歳を三唱して式典を終えた。
 入城式が行われた十七日、南京城外の雨花台にいた宇都宮連隊の高松分隊長は暗いうちに起きた。宇都宮連隊では第三中隊だけが代表として入城式に参加することになっていた。第三中隊以外は入城式に参加せず、杭州に向かうことになっており、高松分隊長は夜が明ける前、南京城を後にした。暗い中をつい一週間前に来た道を戻り出した。
 高松分隊長の頭の中では、二晩中鳴り響いていた砲弾の音が今も鳴っていた。入城式を祝うこともなく、南京は砲弾の飛び交う戦場、という印象だけが残った。
 入城式の行われた同じ日、郊外ではまだ敗残兵掃討が続いていた。福知山連隊の山室分隊も敗残兵掃討のため南京郊外にいた。前日同様この日も第一中隊とともに掃討作戦に従事していたけれど、敗残兵とほとんど遭遇しなかった。昨日と今日の二日間で掃討した敗残兵は二十人ほどであった。
 昼近くになり、第一野戦病院の警備のため下騏麟門に向かうことになった。下騏麟門は中山門から郊外に延びる中山公路の途中にあり、中山門から十キロメートルほどの所である。
 一時間ほどして下麒麟門に着くと、第六中隊が数千人の敗残兵を捕まえて、これを南京に連行するところに出会った。四列にしても千メートルも続く敗残兵である。山室分隊は遭遇することがなかったけれど、郊外にはまだ多くの中国兵がいるということであった。
 この日、華やかなうちに入城式は終わったけれど、夜になると南京は冷え出し、翌十八日は朝から小雪のちらつく天気になった。
 十八日の午後二時から、上海と南京の戦いで没した将兵の霊を慰めるために慰霊祭が行われることになっていた。日本軍は上海と南京の戦いで日露戦争以来という多数の戦死者を数えていた。
 慰霊祭の会場は国民政府の建物より中山門寄りにあふ故宮飛行場と呼ばれる城内飛行場があてられた。飛行場には祭壇が設けられて、中央には、中支那方面陸海軍没将士之霊、と墨で書かれた白木が建てられ、午後一時までに数千人の兵隊が整列を終えた。
 前日、中山北路にある首都飯店に宿泊した松井軍司令官は、兵隊が整列を終えた一時に宿舎を出発し、故宮飛行場に向かった。式場では、それからしばらくして柳川軍司令官以下、師団長、軍参謀長、師団参謀長らが整列をした。やがて朝香宮軍司令官が到着し、一時五十分になると、松井軍司令官が長谷川司令長官と共に到着した。二時、慰霊祭が始められた。
 昨日とうって変わった天候で、将兵は身が引き締まり、式は厳かに進められた。
 この日もたくさんのカメラマンたちが集まり、霊前の前で祭文を読み上げる松井軍司令官を撮ろうとカメラマンたちは祭壇の近くまで進んだ。
 松井軍司令官は、没した兵士に思いを馳せ、涙を流した。カメラマンたちは涙を流す松井軍司令官を見て驚いた。
 三十分ほどで慰霊祭は終わった。その後、松井軍司令官は、参列した軍司令官、師団長たちを前に、軍紀を一層厳しくするように訓示した。
 そのころ、南京郊外にいた山室分隊はに、野戦病院の警備であったので、兵器の手入れをしたり、のんびり手紙を書いたりしていた。山室分隊長も手紙を書いて、日記を整理した。
 夕食には馬を処分して料理することになったので、福知山の兵隊たちは大騒ぎして喜んだ。(つづく)

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