城壘14


丸MARU 1990年2月号 通算523号 連載第14回
一斉射撃で倒れる中国兵
 中国軍の主力は南京城外に逃げたけれど、一部は城内に残り、北西部にある難民区か、政府の大きい建物の中に隠れた。日本軍は城内に進出した十三日のうちに城内に残った中国軍を制圧しきれなかったので、翌十四日も掃討作戦を行うことになった。
 第十六師団では福知山連隊と奈良連隊が城内を掃討した。福知山連隊は第四中隊が中心になり、第一機関銃中隊かちは山室分隊などが参加した。南京城外を紫金山の北側から回った奈良の連隊は北西にある城門から城内に入って、掃討しながら進んできていた。
 十四日、山室分隊たちは前日引き返した所に向かった。外交部や軍政部など中国政府の建物の中に入って行くと、それらの建物は中国軍の臨時野戦病院にあてられて、多くの中国兵が収容されていた。収容されているというより、放棄されている。看護する兵はなく、兵隊は苦しんでいた。
 山室分隊たちは負傷兵が収容されている建物をそのままにして掃討を続けた。
 政府の建物が並ぶ中山北路には武器も捨てられてあった。小銃はもちろん、機関銃、迫撃砲、高射砲などがあり、自動車まで乗り捨てられてある。武器の多くはドイツ製で、徳国製という印が付いている。またドイツ語らしいラベルの貼ってある小銃弾の袋も捨ててあった。
 しかし、負傷兵や武器が放棄されてはいたけれど、兵隊は見当たらない。
 武器は裏通りにも捨ててあったので、表通りに面した建物が済むと、裏通りの建物の掃討も行われた。
 中山路辺りは政府の大きい建物が多いせいか、これらの建物には市民がまとまって避難していた。女と子供だけが避難している建物もあれば、男性が半分以上避難している建物もある。南京の市民は難民区にだけ避難したのではなかった。
 裏通りを進むと武器だけでなく、軍服もたくさん捨てられている。中国兵が軍服を脱いで、市民の中に隠れているに違いなかった。
 中国では市民の服装をしながら武器を隠して日本兵を狙ういわゆる便衣兵がたくさんいる。上海でも市民だと思って油断をして撃たれた日本兵がたくさんいた。南京城内は建物が密集しているので、便衣兵となって狙われては被害が大きくなる。
 脱ぎ捨てられた軍服はいたるところにあり、そこで福知山の部隊は、便衣兵を見つけ次第射殺することにした。
 ひとつの建物で多くの男性が発見された。落ち着きのない態度や、市民が不安そうにしている様子からすぐに中国兵が混じっていることが分かった。
 山室分隊は第四中隊とともに。市民の中から便衣兵をよりだすことにした。いくら市民の中に隠れているといっても便衣兵はすぐ分かる。兵隊としての特徴が体に残っているのだ。頭髪が短い上、軍帽の跡がついているし、肩に銃を担いだ跡がある。
 中には、銃や軍服を捨てているのに巻脚絆を付けていたり、市民の服を着ているのに兵隊だけに与えられた袋などを持っている者がいる。
 山室分隊が中国の男性だけを並べて、突然、
 「こらっ!」
 と大きな声を出すと、おもわず、きをつけの姿勢を取る者がいる。これらは軍隊教育を受けているからだとすぐに分かる。
 市民と便衣兵を見分けるためにそのような方法が取られたけれど、そうでなくとも兵隊だということは一見して分かるものである。死ぬか生きるか戦ってきただけに、市民と比べれば兵隊はするどい目をしており、兵隊独特の雰囲気を身につけている。
 そうやって何力所かでよりわけ、便衣兵となっている中国兵を見つけだした。
 これらの中国兵は指揮官もいないばらばらの兵隊たちで、日本軍に降伏したわけでもない。軍服を脱ぎ捨てて隠れているくらいだからこのままにすれば何をするか分からないし、どこかに武器を隠しているのかも知れない。既に掃討している途中、いくつかの建物からは銃と手榴弾の山が見つかっている。
 第四中隊ではこれらの中国兵を近くにある玄武湖まで連れていって、そこで射殺することにした。
 山室分隊長は小隊長から、重機関銃隊も玄武湖に行き、玄武湖では湖の中にある道まで連れて行き、前と後ろから重機関銃で撃つ方針であると聞かされた。
 いくつかの建物で捕まえた便衣兵は三百二十八名になった。一ヵ所に集められて、玄武湖に連れていくことになったけれど、ほとんどの中国兵は見つかったときからあきらめており、素直に従った。しかし中には、これからわれわれをどうするのかと、身振り手振りで日本兵に話かけてくる兵隊もいる。
 玄武湖に向かって数十分はどすると玄武門が見えだした。玄武湖は玄武門の外にある。玄武門の近くにはバラック風の家が幾棟か建っているけれど、住民は避難していて、誰もいない。ほとんどの門がそうであるように寂しい場所である。
 しかし、玄武門に着いてみると、玄武門は閉じられて、内側には土嚢が積み上げられていた。玄武門の両脇近くに土が盛られて、ここでも中国軍は日本軍の城内進出を防ぐつもりでいたらしい。
 土嚢を取り除いて玄武門を開けるのは簡単ではなく、そこで急遽方針は変更され、中国兵は城壁の内側で射撃することにした。
 中国兵は第四中隊の兵隊たちによって土が盛られている辺りに集められた。
 重機関銃隊の小隊長が中国兵の三十メートルほど手前に二台の重機関銃を据えるように命令した。一台は山室分隊の重機関銃である。
 二台の重機関銃が据えられると、さらにその脇に第四中隊の軽機関銃が四台ずつ据えられた。準備が整い、山室分隊長は、射手の後ろで小隊長の命令を待った。
 そのとき、射手の位置に着いた牧上等兵が気が進まないようなそぶりをした。それは一瞬であったけれど、山室分隊長は見た。つい先ほどまで牧上等兵は中国兵を相手に撃っていたけれど、たくさんの中国兵をみて尻込みしたのか、あるいは抵抗する力もなくなった中国兵を見てかわいそうに思ったのか。しかしこれは軍事行動である。小隊長の命令が出れば、分隊長としては従わなければならないし、分隊長が命令したら射手は撃たなければならない。今やそのときはせまっている。
 とはいうものの山室分隊長は牧上等兵の気持ちが分からないわけではなかった。なんとなく撃つのがいやになる日もあるのだ。この場合は自分が射手になって命令を守ることだと思った。そう思うと、自分と代わるように牧上等兵に直ちに命令した。
 分隊長の山室伍長が射手の位置につき、牧上等兵は弾込めの位置についた。
 そのとき、突然、 「さがれ」 という命令が玄武門一帯に響いた。門の前で中国兵を並べていた日本兵は一斉に両脇に散った。
 今度は小隊長の、「撃て」 と叫ぶ声がした。
 山室分隊長はその声を聞くと、重機関銃の引き金を引いた。
 つぎつぎ中国兵が倒れていく。中国兵は何列にもなっているので、前列の中国兵が倒れると、次の中国兵が倒れる。

開始された敗残兵掃討作戦
 中国兵の両脇には玄武門に沿って日本兵が銃を構えているため逃げる中国兵は一人もいない。
 数列になっていたため弾の当たらない後方の中国兵がひょいと頭を上げる。そうすると両脇にいる歩兵がその中国兵を狙って撃つ。
 中国兵は全員倒れた。射殺はアッという間に終わった。
 冬の南京は日が暮れるのも早く、玄武門に着いたときはまだ明るかったけれど、既に辺りは暗くなっていた。
 山室分隊長はこれで亡き戦友のかたきを取れたと思った。
 日本兵は倒れた中国兵の上に、門のまわりにあった土をかけ、この日の掃討作戦を終えた。
 山室分隊は再び町の方に戻り、税務署に宿営することにした。
 山室分隊長は京都を出発するときから日記を持っていた。日記は分隊長として持参を許されていた小さいバッグに入れて、時間があるときに一日の主な出来事を書いていたけれど、この日の日記には次のように書いた。
 「市内の敗残兵を掃討す。五、六百名の敗残兵を捕らえ、そのうち三百二十八名を午後四時、玄武湖に連行すれど門が閉まっていたので城壁に面せしめて、重機関銃、軽機関銃の一斉射撃で永眠さす。
 噫乎憐れなる敗戦国の民よ!
 自分も今日は吾が分隊の奥山、川勝の勇士や有傷せし足立、糸井の復しゅうだと射手となりて射撃した」
 翌十五日も南京城内には中国兵がまだ隠れているというので福知山連隊は掃討を続行することになった。第四中隊が同じように任務についたけれど、この日は第四中隊だけで十分だというので重機関銃隊の山室分隊は宿舎に残った。
 山室分隊は残ることになったのでさっそく重機関銃の手入れをした。戦場では休みなどはない。重機関銃の手入れが済むと、衣服の手入れを行った。兵服は汚れていて、いたるところすり切れている。兵服の手入れは久し振りであった。
手入れが一段落したとき、山室分隊長は昨日射殺した中国兵のことが気になったので、ひとりで玄武門まで見にいくことにした。
 玄武門まで行くと、昨日死体の上にかけた土が崩れており、土の上には新しい足跡が残っていた。足跡を見ると、四、五人のものらしかった。射殺から逃れた中国兵の何人かが日本軍が引き上げた後、逃げたのだ。全滅させたと思ったけれどひとり残らず射殺することはむずかしいものだ、と足跡を確かめながら思った。足跡は町の方に伸びていた。
 それにしても、日本軍は全員が死んだかどうか確かめもせず、土をかけたまま引き上げているし、中国軍も日本兵の何倍もの兵力がありながら抵抗したり逃げたりしない。もし三百数十名の中国兵が一斉に襲いかかれば。日本軍はどうなったか分からない。少なくとも相当数の中国兵は逃げることができるのではないか。後で考えればいくらでもよい方法が考えつくものであるけれど、戦場ではお互いに錯誤の連続であると思った。
 午後になると、南京城の外にも相当の敗残兵がいるというので、山室分隊は郊外の掃討作戦に向かうことになった。中国軍には十二日の夜遅く、撤退命令が出ているが、中山門外や紫金山で戦っ七いる中国兵には知らせが伝わっていなかった。これら中国兵は支援もなく孤立し、その上、日本軍の攻撃に会い、紫金山かな湯水鎮にかけての広い地域に散在していた。山室分隊に命令されたのはこの敗戦兵を掃討する作戦に従事することであった。
 山室分隊は翌十六日も南京郊外で掃討作戦に従事した。
 南京から数十キロメートル離れた鎮江にいた中国兵は日本軍に敗れた後南京方面に向かっていたから、湯水鎮から鎮江にかけても多くの敗残兵が出没していた。既に上海と南京の間では敗残兵があちこちに出没していて、日本軍の輜重隊に襲いかかっており、敗残兵を掃討しないかぎり、日本軍の犠牲は増えるだけである。
 山室分隊は第一中隊に同行して南京郊外の馬群から鎮江に向けて十数キロメートルほど行った。しかし、敗残兵とはほとんど遭遇しなかった。広い中国では当然なのかもしれない。
 十六日は日没とともに小さい部落に宿営した。

光華門の戦場掃除
 光華門を占領した鯖江連隊は、そこから城内に入ったけれど、中国兵はほとんどおらず、翌十四日には光華門を戦場掃除することになった。
 死んだ兵隊たちを確認して、荼毘に付す戦場掃除は、戦闘が一段落した後、真っ先にやる。死体は各中隊ごとに荼毘に付することになっていたから、最も激しく戦った第一大隊の中隊が中心になって戦場掃除をすることになった。この日は西坂上等兵たちの第六中隊も光華門に向かうために城内の宿舎を出発した。
 光華門の瓦礫の中では何人もの日本兵が死んでいた。第一大隊は十日に光華門に突入し、その後二日間にわたり中国軍からの攻撃が続き、倒れた日本兵の上に城壁の瓦磯が崩れ落ち、土嚢や木材が投げ込まれた。光華門の戦いでは二百人の兵士がたおれた。
 第一大隊の各中隊は、瓦礫を取り除き、木材や土嚢を運びだし、同じ中隊の兵隊をひとりひとり確認していった。戦場では顔面が撃たれて、誰なのか分かちなくなることもあるけれど、兵隊は認識表を紐に結び付けて、その紐を体に直接たすきがけしているのでどの兵隊か分かる。
 西坂上等兵たちの第六中隊では戦死者がいなかったので、光華門外の戦場掃除にあたった。城外には中国兵の戦死体もあり、それを見た伊藤中隊長は、「仏様は日本兵も中国兵も同じだ。ていねいに埋めてやれ」と兵隊たちに命令した。西坂上等兵は数人の中国兵を埋めて、念仏を唱えた。
 戦いの後だからといって必ずしも戦場掃除ができるわけではない。上海では戦場掃除をする余裕がなかったので、西坂上等兵は死んだ戦友の歯を叩いて取り、それを背嚢に入れてきた。歯だけでなく、髪の毛を切り取ったり、爪を切り取って遺骨がわりにする場合もある。上海でのときはすぐに追撃戦に移ったので歯を遺骨代わりにする方法しかなかった。いつも死体を焼いて荼毘に付し、骨を遺骨として持っていけるとは限らない。もちろん中国兵の死体に心を配る余裕もなかった。  光華門での戦場掃除は十五日も行われ、日本兵の死体はこの日荼毘に付された後、埋めて墓標が建てられた。死体を焼いた木材は、近くにある民家から集められてきた。日本兵が埋められた近くには中国戦士を悼む墓標も建てられた。  西坂上等兵たち第六中隊は戦場掃除が終わると、そのまま申家巷の宿舎にとどまり、十六日からは、宿舎で兵器と被服の手入れを行った。
 中隊長からは、南京は中国の首都であり、軍紀を一層厳しくするようにとの命令がだされた。公用以外に外出は禁止され、外出できる者は中隊長の許可証のある者に限られた。しかも単独外出は禁止された。既に十四日から憲兵が城内に出ており、日本軍は規律が守られ、城内は整然としていた。
 鯖江連隊が城内に入ってから、辺りは静かで、混乱は何ひとつなかった。
 光華門のちょうど真西にあたる水西門からは都城連隊が入ったけれど、都城連隊は市民とも中国兵とも会うことはなく、十四日以降は水西門内の民家に宿営することになった。
 町の中央から流れてくる秦淮河は水西門のすぐそばを通って流れていく。かつてこの河では秦の始皇帝が船を浮かべて遊んだといわれ、そう言い伝えられるほど秦淮河に沿った辺りは昔から賑わっていた。南京の中心街であり、秦淮河に沿った地域は色街として有名である。しかし、長年の間に民家が密集しすぎ、建物は古くなり、今はごみごみした下町に代わっていた。
 鎌田上等兵たちの宿営した民家の回りもそういった民家が立ち並んでいる。しかし、市民は避難していてひとりもいなかった。
 南京城を南から攻撃したのは、都城連隊の第六師団と宇都宮連隊の第百十四師団である。宇都宮連隊の高松分隊は十四日に中華門から場内に入り、掃討作戦に従事したけれど、敵と遭遇することはなかったため、その日のうちに城外に出て、雨花台にある建物に宿営した。
 十五日は新たな作戦はなく、高松分隊は、その建物で久し振りに兵器と被服の手入れをした。どの兵隊も髭が伸び、顔は垢と疲れでどす黒くなっていた。こんなにのんびりするのは久し振りであった。
 高松分隊がのんびりしている十五日の夜遅くになり、宇都宮連隊本部には、杭州攻略のため十七日には南京を出発せよとの命令が出された。
 杭州は、宇都宮連隊が上陸した杭州湾よりさらに南にあり、南京からは二百キロメートル以上も離れている。浙江省の省都で、揚子江下流では、上海、南京と並ぶ都市である。上海、南京、杭州を結ぶと、揚子江下流で三角形をなし、杭州は戦略的にも重要な都市である。日本軍は南京に続き、ここをも占領して、揚子江下流一帯を完全に日本のものにしようとした。そのため無湖を占領していた第十八師団と、南京を占領したばかりの第百十四師団を杭州を攻略するために向かわせることになり、第。百十四師団は南京を攻略したばかりなのに再び反転することになった。
 翌十六日、兵隊。たちにはまだ新しい命令は出されず、高松分隊は雨花台の建物の中でのんびりとして、やがて南京見物でもできるだろうなどと話していた。一昨日、城内に入ったけれど、それは南京のごく一部で、それまで話に聞いていた南京とは大分違う。中国の首都南京を攻略したのだから、ゆっくり南京の町を見たいものだと思っていた。
 ところがそんな話をしていると、突然、至急出発の準備せよ、との命令がきて、まもなく、弾薬、乾麺包などか次々渡された。出発は明日早朝だという。高松分隊はびっくりした。(つづく)

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