城壘13


丸MARU 1990年1月号 通算522号 連載第13回
捕えられた中国軍の遊兵
 暦が十二月十三日になろうとするころ、会津若松の第六十五連隊は南京北東の郊外を南京城に向けて進んでいた。第一大隊は南京城から十キロメートルほどの烏龍山砲台に向かい、連隊の主力は鳥龍山からさらに七、八キロメートルほど先の幕府山に直行することになっていた。数時間前、南京城門を守っていた中国軍に撤退命令が出され、城内の中国軍は一斉に引き揚げ始めていたけれど、城外にいた中国軍にはその命令は届かず、これから日本軍と中国軍の戦いが行われようとしていた。
 このとき、会津若松第六十五連隊の栗原分隊長はマラリアに悩まされていながらも烏龍山に向かっていた。
 会津若松の連隊が上海に上陸したのは十月上旬であったが、そのころ、上海にはたくさんの蝿や蚊がいて、握り飯を食べようとすると蝿で真っ黒になる。また蚊もいたるところにいて、そのため多くの兵隊が病気に罹った。頑健なはずの栗原分隊長も例外ではなかった。
 いつのころからか夕方になると、悪寒がして熱が出るようになった。熱が出ると必ずめまいがして、やがて体中が汗でびっしょりになる。悪寒と熱は決まったように数時間続く。それはマラリアの典型的な症状であった。
 やがて症状は毎日おきるようになった。救いは、症状が夕方から夜にかけてだけ現れることである。この時間が過ぎればふるえも熱もおさまって、行軍や戦闘にはなんら差し支えない。とはいうものの、だんだん体力が落ちていく。
 それでも致命的な外傷を負っていなければ戦うだけであり、亡くなった部下のことを思えばマラリアで苦しいなどとは言えなかった。いざ戦いだというと、栗原分隊長の頭からはマラリアのことなど消える。暗闇の中を鳥龍山に向かっていたときもマラリアのことは忘れていた。
 鳥龍山の登り口に差しかかったとき、栗原分隊長は、敵の様子がどうなっているのか探ろうとして、斉藤一等兵を斥候に出した。
 しかし、斎藤一等兵はいつまでも帰ってこない。とにかく行軍は急を要するというので、分隊は敵情が分からないままに進むことにした。
 烏龍山に登りはじめると、突然、中国兵が暗闇の中から撃ってきたり、あるいは暗闇の中を移動したりするのが見えるけれど、本格的に攻撃してくる様子はない。栗原分隊が上海に上陸したとき待ち受けていた中国兵と比べるとまるで違い、江陰城を守った中国兵より弱いようにみえた。南京陥落か目の前に迫っていることをさとって戦闘意欲を喪失しているのではないかと栗原分隊長は思った。
 そう思ったのは栗原分隊長だけでなく、島龍山に向かった第一大隊の兵隊すべてで、そのため第一大隊はこれといった激しい戦闘もなく、その日の午後には島龍山砲台に日の丸を掲げることができた。
 ちょうどそのころ、揚子江を進んでいた日本の海軍は烏龍山砲台の下を進んでいたけれど、二十数門の砲は沈黙したままであった。
 烏龍山山頂に登った栗原分隊長が南京城の方を見ると、城内ではあちらこちらで煙が上がっていた。
 第一大隊は烏龍山砲台を占領すると間もなく幕府山に向かうことになった。烏龍山砲台を占領したからといって一息ついているような状況てはない。
 すでに鳥龍山を迂回して幕府山に向かっていた連隊主力はこの日の夕方、幕府山の麓に到達していた。
 連隊の主力が麓に到達してみると、幕府山にはたくさんの中国軍がいることがわかった。鳥龍山とは違って万を越える兵隊がこもっていて、そのざわめきが麓まで聞こえてくる。
 会津若松の連隊は、会津若松を出発した十月に三千七百名の兵隊がいたけれど、ニカ月の戦いで二千三百名がたおれ、このときは千四百名に減っていた。補充兵を入れても二千二百名である。幕府山の敵はざっと計算しても五倍ほどの数になる。中国兵のざわめきを聞いて連隊には緊張感が漲った。
 しかし、連隊本部に入ってくる情報によれば既に日本軍は南京城内に突入しているという。会津若松の連隊は一刻も早く幕府山を占領しなければならなかった。
 そのため、深夜になり第五中隊の角田中隊長以下百二十名が決死隊となり幕府山の砲台に向かうことになった。
 十四日午前一時、月の光の中で決死隊と両角業作連隊長は水杯を交わして出発した。
 角田中隊は砲台に向かったけれど、山中のあちらこちらでうごめく大軍を見て、全滅も覚悟した。いたるところに中国軍がいるようなので、角田中隊が砲台まで進むには中央突破以外に方法はない。中央突破するにしても、角田中隊の兵力が分かれば中国軍にやられてしまう。少しでも多くいるように見せかけて中国軍をひるまさなければならない。そのため、大声をあげて威嚇しながら進むことにした。
 銃を撃ちながら進むと、中国軍はほとんど抵抗らしい抵抗を見せない。角田中隊は目の前に現れた中国兵をひとりひとり捕まえて進むけれど、そのうち、中国兵があまりにも多いのでとても手におえなくなってきた。決死隊の目的は一刻も早く幕府山砲台を占領することにあるので、途中からは中国兵の武装を解除するだけにして進むことにした。
 砲台に近づくとさすがに中国軍は激しく抵抗しはじめたけれど、それでも決死隊は十四日午前十一時には幕府山砲台に日の丸を立てることができた。
 遅れて幕府山に向かった第一大隊も十四日の早朝。まだ暗いうち、幕府山の麓で多数の中国兵と出会った。第一大隊は一瞬たじろいだけれど。それでも進むと、中国兵は攻撃してくるわけでもなく、鳥龍山の兵隊と同様にいつもの様子とは違っている。進んでいくうちに、白い旗を掲げてくる集団も現れる。そこで第一大隊は中国兵をつぎつぎ捕らえいった。十名足らずの栗原分隊だけでも百二十名ほどの中国兵を捕えた。
 捕らえた兵隊を調べてみると、南京郊外の戦いで敗れて幕府山に逃げ込んだ兵と、南京撤退を命令されて南京城外に逃げのびようとした兵などである。中には上海で会津若松の連隊を苦しめ、その後撤退して南京の守りについていた兵隊もいた。
 中国兵はいくら戦意を失っているとはいえ、栗原分隊の十倍ほどの数であり、一斉に襲ってきたら全滅する。そこで栗原分隊長は捕えた中国兵に、「不要、不要」と言って武器を捨てる手振りをして見せた。
 中国兵の多くは素直に武器を捨てたが、手榴弾を隠し持っている兵もいる。何度か同じ仕草をして、手榴弾もひとつ残らず出させた。

飢えと疲労の中国兵
 たちまちまわりはチェツコ銃、重機関銃、迫撃砲、手榴弾などの武器でいっぱいになった。他の分隊たちが捕えた中国兵たちも同じ場所に武器を投げたので、武器だけで小山のようになった。
 武器の山の中にモーゼル拳銃を見つけた栗原分隊長は、その中から一挺取り出した。噂には聞いていたけれど、手に取って見るのははじめてである。モーゼル拳銃は三十発もの弾を装填できるもので、握るとどっしりとした感触が伝わってきた。試しに空に向けて一発撃ってみると、強い発射の反動が腕に伝わって腕が持ち上げられた。腕が持ち上げられたため思わず再び引き金を引いた。するとさらにもう一発が発射されて腕が持ち上がる。そのため弾がなくなるまで撃ち続けることになり、発射音が山の中に響いた。
 弾を撃ち尽くしたモーゼル拳銃を改めて見つめながら、栗原分隊長は自分たちが上海で苦戦したのもわかる気がした。
 中国兵に武器を捨てさせた後、各分隊が捕えた中国兵には毛布などの身のまわりのものを持たせて麓まで連れていくことにした。中国兵は日本兵と違って背嚢などを持っていないのでそれぞれが腕に抱えたり、丸めて肩から吊したりした。
 最後尾にいた栗原分隊長は、小隊長より、武器に火をつけるように命ぜられて残った。
 全員が出発してから、山となった武器に火をつけると、武器の山は一斉に燃え上がり、弾が火の中で熱を帯びて爆発した。それを見届けてから皆を追った。後ろの方で何度も弾が爆発する音がする。しばらくして振り返ると、黒煙が空高く上がつていた。
 栗原分隊長が中国兵を護送して幕府山の麓までくると、麓には連隊本部が設定されていて、そこにも何千という中国兵がいた。兵隊の話によると、連隊だけで一万三千五百人の中国兵を捕まえたという。ひとりひとり数えたわけではないから、おおまかな数であろうが、とにかく大変な数の中国兵である。
 その中には一般市民も混じっていたので、市民は釈放することにし、残った中国兵たちはちょうど近くに兵舎があったので、ここに収容することにした。兵舎といっても藁の屋 根で、中は土間である。中国軍が演習で休むときなどに使っているものらしく、兵舎は十棟ほどあった。
 どの中国兵も連日の戦闘で疲れ果て、食事も満足に取っていないようである。飢えている中国兵を見ていると、栗原分隊長は一ヵ月半前の自分たちを思い出さずにはいられなかった。  上海では中国兵が待っていて、トーチカから狙い撃ちされて、退くこともできず、中国兵と対峙した。食べ物は後方から握り飯を運んでくれることになっているが、握り飯を運ぶ兵隊が途中で撃たれることもあり、満足に届かないため一個を四つに分けて食べることもあった。握り飯が来るうちはよかったけれど、そのうち届かなくなりだした。最後に各自が持っているわずかな乾麺包を食べることになったとき、土を掘って滲み出る水を集めて一緒に飲み込んだ。
 その辺りは揚子江が上流から運んでくる土砂でできた土地だという。だから縦横にクリークが走り、雨が降らなくとも土を少し掘るだけで水が滲み出てくる。日本軍にとってありかたいことには水だけは困ることがなかった。乾麺包がなくなってからは、水だけをクレオソートと一緒に飲んで飢えをいやした。
 しかし、水を飲めば必ず数時間後には下痢が始まる。赤痢、コレラにかかる者が増えていった。会津若松を出た三千七百人が千四百人になったのは、戦死、戦傷のためだけでなく病気になる者も少なくはなかった。
 あのときの敵がいま逆に飢えている。違うのは、今度は日本兵も飢えていることである。むしろ日本兵の方がひどいかもしれない。日本兵は上海から飢えていた。上海では前線まで食糧を補給する兵隊がつぎつぎ撃たれた。その後は急進撃をしたため、行動力のない輜重部隊が追い付けなかった。そのため兵隊たちは謝家橋鎮、江陰、鎮江と進むたびに食糧を占領地の民家から徴発した。
中国の民家に一番残っていたものは中国のどぶろくであった。それは家庭用に造るお酒で、大きな鍋によく残っている。南京米が残っていなくとも、どぶろくだけが残っている家が少なくなかった。どぶろくだけは持って逃げることができなかったのか、あるいは、どぶろくだけはどこの家庭でも常用したのか、本当によく残っていた。栗原分隊長がこの一ヵ月で一番多くロに入れたものはどぶろくで、どぶろくで飢えをしのいで来たようなものである。
 今でも日本兵は自分ひとりの食事を工面するのが精一杯で、中国兵に食べさせるなどということはとてもできないことである。それでも中国兵に何か食べさせなくてはならない。
 そうするうちに、昨日占領した鳥龍山に南京米があったという話を聞いたので、栗原分隊長は部下とともに馬を連れて取りに行くことにした。  南京米だけであったけれど、相当あったのでさっそく大きい釜でおかゆを作り、茶碗を集めてきて食べさせた。他の兵隊たちもそれぞれ食糧を探しにいった。食糧探しはなれているから兵たちたちはどこかで何かをみつけてきた。そして中国兵たちに食べさせた。どの兵隊たちも多数の中国兵のことで忙殺され、幕府山の占領とか、南京陥落とかを話題にする余裕はなかった。
 その晩、兵舎で火事があり、半数近くの中国兵が逃亡した。兵隊たちはあまりの中国兵に持て余していたので、中国兵が逃げ出したと分かっても敢えて捕えたりはしなかった。中国兵が少なくなってほっとした。
 栗原分隊長が監視にたったとき、中国兵を観察していると、中にはいかにも悪人らしい顔をしている兵隊もあれは、しっかりした幹部らしき者もいる。監視をしながら、その中の一人と話をした。話をしたといっても中国語は分からないから、筆談と身振りである。
 栗原分隊長が話かけた兵隊はみるからにしっかりした兵隊で、その兵隊が言うところによると、それまで北京大学の教授をしていて、戦争が勃発すると同時に軍に入ったという。やがて兵隊は名刺を取り出して栗原分隊長に差し出した。名刺は日本の名刺の倍ほどある立派なものである。その大きい名刺にはこう書いてあった。
 国民革命軍第三十三連隊
 国民革命軍第三十三軍教導師参謀長・呉襄平
 風陽県印花税所所長
 さらに聞くと、呉襄平は少佐と言う。
 しばらく雑談しているうちに、呉襄平は懐中時計を取り出し、
 「進上」
 といって栗原分隊長に差しだした。外国製の薄型のもので、立派な時計である。一瞬どうしようかと迷ったけれど栗原分隊長は、
 「謝々」
 といって受け取った。拒絶すれば呉襄平を傷つけるような気がしたからである。
 受け取ながら、よく処遇してもらいたいのだろうか、あるいは自分を知ってくれた人に形見としてあげたくなったのだろうかと考えた。呉襄平という人間をまだよく知らないのでどちらか分かりかねた。
 しばらくして、栗原分隊長は呉襄平を大隊本部に連れていった。高級将校クラスの軍人は取り調べて中国軍の作戦、謀略などを聞き出すことになっていたからである。

南京陥落で賑わう提燈行列
 十三日夜遅くには南京が日本軍のものになった。そう判断した中支那方面軍は午後十一時十五分。東京の参謀本部に南京陥落を打電した。
 この日、日本中では一日中旗行列、提燈行列が行われていた。いつもなら十時ごろに寂れてくる銀座も人が絶えず、十二時まで賑わった。
 大規模な提燈行列や官公庁主催のお祝いはこの日まで禁止されていたけれど、南京が陥落したという中支那方面軍からの入電に、警視庁はとうとう官公庁の奉祝にも許可を与えると発表した。
 十四日は堰を切ったようにお祝いが行われた。繁華街のビルには旗が林立し、電車、バスは小旗を立てて走った。正午、全国七十余力所の刑務所では紅白の大福餅が配られ、手製の日の丸で皇軍万歳が三唱された。
 東京では浅草にある瓢箪池畔に大祝賀塔が建てられ、旗行列が午後一時から五時まで許可になったので、一時から市立女学校などの生徒五万六千名が宮城前まで旗行列をし、小学生八十万人も各区で旗行列を行った。
 提燈行列は午後五時から八時までと決められていたので、六時になると市立中学校、市職員など一万五千人が上野公園、神宮外苑などから宮城前まで提燈行列を行った。さらに一般社会人の提燈行列もはじまった。東京実業組合連合会が五千人といった具合である。日本銀行でも千人か提燈行列を行ったが、これは日清戦争以来のことであった。日活多摩川撮影所でも京橋の本社に集まり、内田吐夢監督以下五百人が提燈行列をした。行列は、百万人の大行進といわれるほど賑やかなものであった。
 三宅坂にある参謀本部では、市民の万歳に応えるため二基の高張提燈を立て、陸軍省は正面二階のバルコニーに二尺四方の文字で「謝御後援」と貼り出し、軍歌レコードを奏でた。
 この日まで全国で提燈三百万個、旗四百万本が使われ、その金額は百万円にもなった。
 当時から旗屋をやっている東京の田中旗店では代が替わっているが、そのときの話は半世紀たっても伝えられている。
 「先代や先輩から南京陥落のときが一番すごかったという話をよく聞きました。旗屋の景気のよさは想像できないくらいだったらしいですよ。
 大人は旗を作るのに忙しくて、お金の勘定は子供にやらせていた。店頭に上からザルを吊して、そこにお金を投げ込んで売っていたといいます」
 十五日も同じように全国で奉祝行事がつづいた。早くも「南京陥落」というレコードが発売され、南京陥落のニュース映画も公開された。
 東京では朝から全市百二十余校の女学生七万人が皇居前や参謀本部に旗行列を行い、府下の中学生十余万人もブラスバンドを先頭に旗行列を行った。夜は夜で十万人の提燈行列が行われた。
 新宿に渡六という旗屋がある。もともと呉服屋をやっていたけれど、昭和のはじめ不景気が長く続いたため、店を閉めざるをえなくなった。しばらくして、今度は同じ場所で旗屋を始めた。
 旗屋を始めて一年後に支那事変がおき、旗屋大繁盛の波にのった。そして南京陥落である。
 渡六の主人は旗屋組合の理事長もやっていたが、そこの娘の渡辺幸子は、このとき山脇高等女学校の一年生だった。山脇高等女学校には軍人の子女が多く、そのころの父兄会会長は前総理大臣林銑十郎陸軍大将で、後に山本五十六海軍大将も会長をつとめている。
 渡辺幸子はこう語っている。
「そのときは本当に大変で家の二階まで仕事場にするくらいでした。私は女学生だから景気がどれほどだったか実感としてわからなかったけれど、すごかったというのははっきり覚えているわ。
 学校のほうでは旗行列だというので全貝が参加してね。うちの女学校は親が軍人という人が多かったし、学校が赤坂でしょう。それでまず皇居に行って、それから陸軍省や参謀本部のある三宅坂のほうまで行列してね。女学生だったから昼の旗行列だけで、大人は夜の提燈行列だったの。
 今の個人主義の世の中と違って、そのころは嬉しいことや悲しいことがあれば隣の家も一緒に喜ぶし悲しむというのが普通だったでしょう。南京が陥落して、大人が喜んでいたから私達も嬉しかったのよ」
 十六日は東京大学で全職員千五百人と制服姿の学生八千人が本郷から宮城前まで祝賀行進するという騒ぎで、日本あげてのお祝いは一週間以上も続いた。
 また、南京陥落を祝って、男の子には勝太郎、女の子には祝子という名前を付ける親も多かった。(つづく)

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