城壘09


丸MARU 1989年9月号 通算518号 連載第9回
体が震えてとまらぬ
 南京郊外にある湯水鎮は、もともと温泉の出る保養地であったが、歩兵学校、砲兵学校、蒋介石別邸などが建てられて、軍事施設地として有名になった。行政区域として南京ではなかったが、ここから南京城までは中山公路というアスファルト道路が二十キロにわたって続いており、一続きであったから、ここから南京といってもさしつかえない。
 福知山連隊は十二月六日の昼近くに湯水鎮の近くまで進み、山室分隊は軍事施設の一つてある砲兵旅団の兵舎に入った。兵舎は石でてきている立派な建物で、まわりにある建物も丹陽や句容などの民家とは違い、いよいよ南京に近いことが感じられた。福知山連隊だけでなく、京都の連隊も到着し、一帯は日本兵であふれ出した。
 福知山の第一、第二大隊は湯水鎮でしばらく休んでいたけれど、南西にある梅塘と呼ばれる小高い丘に向かうことになった。ここから南京に攻めるためである。
 梅塘に向かう行軍は夜行軍になり、夜中の二時になり、ようやく大休止となった。兵隊たちは夜行軍に疲れていたので、命令とともに寝るだけで、徴発する気持ちにもならなかった。真っ暗な上に、徴発できるものも見当たらない場所であった。
 三時間半ほど寝たあと、ふたたび梅塘に向けて出発した。寝る前に何も徴発しなかったため、山室伍長の朝食は生の甘薯一個だけである。小さいときから甘薯が嫌いで、芋といえば焼き芋を食べたきりであったけれど、今日ばかりはそうもいっていられない。
 しかし、かじると、空腹には何にもましてごちそうで、いつもならどうしても食べられない芋がおいしく感した。
 この日第一大隊は後退し、先頭に立った第二大隊が梅塘を攻めた。
 梅塘には首都防衛軍の一部隊が陣地を築いて、日本軍の南京への進撃を防いでいる。陣地は堅固でそう簡単には落とすことができず、そのため翌八日は、交代で山室分隊たち第一大隊が第一線に立つことになった。山室分隊たちは神洞村の先にある中国軍のトーチカを攻めることになったため午前四時に起き、夜明けまでに第二中隊と敵のトーチカの正面に陣地を作ることになった。
 しかし、夜が明けるころになってもまだ陣地は完成せず、夜が明けると、日本軍を発見した敵は攻撃を始めてきた。山室分隊は壕を掘りながら中国軍と戦うことになった。
 七時五十分、山室伍長のそばにいた奥山上等兵が頭を撃ち抜かれて倒れた。
 壕は九時になって出来たが、敵の攻撃は激しく、形勢は少しも変わらない。陣地ができて数十分後、今度は山室伍長の隣で指揮をとっていた第二中隊の曹長が胸を撃たれて即死した。十一時には虫の息だった奥山上等兵も分隊が見守る中、息をひきとった。
 奥山上等兵が死ぬのを見届けながら山室伍長は、仇をとらなければ奥山上等兵がうかばれないと思った。
 それでも形勢は少しずつ日本軍に有利になってきた。
 午後一時になり、第四中隊がトーチカに突撃することになり、山室分隊の重機関銃が援護することになった。
 第四中隊の突撃は成功し、午後二時になると、完全に制覇するために、重機関銃隊の牧小隊長が、「わが小隊もトーチカに向かって行くぞ」と叫んだ。
 五十メートル先には五つのトーチカがあり、まだここから中国軍が撃ってきている。重機関銃隊もここまで攻めて行くというのである。
 それを聞いて山室伍長は思わず体が震えた。
 それまでどんな攻撃命令がおりても、無心の境地というのだろうか、無我夢中というのだろうか、何も考えることはなく、体が震えるということもない。それが今度だけは体が別の生き物のように震えてくる。怖いという気持ちはなかったが、意識の下で恐怖の観念が生まれたのか、体だけが別の生き物のように震えた。
 しかし、震えはすぐに止まり、止まるとともに今までになかったほど気合がみなぎってきた。そのとき、これが武者震いというものかと思った。
 突撃になると、山室伍長が先頭になってトーチカに向かった。
 飛び出したとたん敵が撃ってきた。そう思ったとき、山室伍長の顔に血と肉片がとんできた。見ると一緒に先頭を走っていた糸井上等兵が左掌、足立上等兵が右腕を撃ち抜かれ、その血と肉片であった。
 苦しむ二人を急いで敵から見えないところまで連れていき、二人をそのままにして山室分隊はふたたびトーチカに向かった。
 決死の突撃は成功し、やがてトーチカをすべて占領した。二人を野戦病院に送ることができたのは、五時になってからである。
 その夜遅く奥山上等兵を火葬にしたが、敵と対峙している最前線では火や煙が敵の目標になって火葬はできない。そこで後方の部落まで進んで火葬した。
 山室伍長は火葬しながら、死んでも敵の的になるのだから、死ぬのなら体ごと吹き飛ばされるのがよい死に方だと思った。
 しばらくして、分隊は占領した陣地の壕の中で寝ることになった。最前線では火を使うこともできず、食べ物もない。いつもはまずいといいながら食べる南京米、中国の漬け物、あるいは支那味噌が思い出される。ポロポロして、箸では食べられない南京米や、日本の味噌と醤油を一緒にしたような支那味噌であるが、今日だけは恋しくなった。
 この日の戦いで山室分隊は奥山上等兵、糸井上等兵、足立上等兵の三人がたおれ、新しく編成しなおさなければならないような状況になったが、ちょうど夜になり予備銃手が到着した。そこで山室伍長は分隊の編成をしなおし、新しい山室分隊は分隊長以下十四名編成になった。

牛島旅団長の意見具申
 十月六日、溧水まで来た都城の連隊は、しばらく宇都宮連隊のあとを進み、その後西に向きを変え、南京と蕪湖を結ぶ鉄道京蕪線に向かった。飛行機の偵察から、京蕪線を使って中国軍がひんぱんに兵の移送を行っていることがわかっており、ここを遮断し、南京を包囲するためである。
 南京城のすぐ南は幅二十メートルほどのクリークが流れ、そのクリークの外側には台地があり、二、三キロ続いている。この台地は高いところで百メートルほどであるけれど、一面の台地でなく、丘と丘の間は谷間になっていたり、平地もある。民家だけでなく、墓地もあって、台地の中を城壁の東南角近くから出た京蕪線が南西に向けて走っている。このなかの主な丘が雨花台、八二高地などである。
 この台地にはいたるところにトーチカ、塹壕、戦車壕、鉄条網があって、地雷が埋められ、砲がそなえられ、一つの要塞をなしていた。南京城の南方を守る最後の砦である。  八日に京蕪線に向かった都城の連隊は、谷里村、謝家口などで中国軍と戦い、京蕪線のそばにある板橋鎮の近くまで進んだ。
 九日も第一大隊と第二大隊が第一線となり、早朝から板橋鎮を攻撃した。板橋鎮は湯水鎮、淳化鎮、将軍山と連なる南京郊外の陣地で、首都衛戌軍が守りについている。連隊はここを落としてさらに京蕪線と平行に進んだ。
 板橋鎮から四、五キロ進むと民家が点在する西善橋になり、このあたりから南京城の南側を守る最後の砦になる。
 連隊はこの台地を進み、氵壬汪家村まで到達した。この日進んだ距離は七、八キロで、南京城まであと五キロである。鎌田一等兵たちの第三大隊は第一、第二大隊と一緒になってからずっと予備隊として後方を進んでいたけれど、この日もその隊形は変わらない。
 十日も第一線部隊が早朝から城外の台地を攻めた。
 この日の攻撃は台地の中ほどにある安徳門を目標にしていたが、この辺りから中国軍の守備は堅くなり、第一大隊は蚕業試験場高地、第二大隊は宗家凹地域までしか進めなかった。一日かかって進んだのは一、二キロほどで、しかも第一大隊長が負傷するという激戦である。
 同じ第六師団の右翼隊は都城連隊などの右翼隊より遅れていたけれど、九日夜遅くからこの日未明にかけて将軍山、牛首山を攻め、昼には台地正面前まで進んだ。牛首山や将軍山は台地のさらに南側にある小高い山で、早く到着した第百十四師団が攻めあぐんでいた中国軍陣地である。
 第六師団の中ではさらに遅れていた大分の連隊も追いついてきて、右翼隊の台地の攻撃に加わった。しかし、正面の防御は堅く、右翼隊は、台地左端を進んだ左翼隊ほど進めない。
 夕刻、第六師団司令部から命令がきて、右翼隊の熊本、大分の連隊が城壁中央の中華門から西南角までを攻め、左翼隊の都城、鹿児島の連隊が城壁の西側にある水西門、漢西門を攻めることになった。
 この師団命令を受け取った左翼隊の隊長牛島満旅団長は、城壁の西南角前方にいる都城の連隊にそのまま西南角を攻撃させるよう意見具申した。
 意見具申は認められて、都城の連隊が西南角を目標にすることになり、熊本の連隊が中華門、大分の連隊がその中間を目標にすることに変更になった。
 鎌田上等兵はこの日も後方にいたので第一大隊の激戦は知らない。南京城内に降伏勧告のビラがまかれたので、回答待ちのため戦闘は行われなかったものと思っていた。
 十二月十一日、第六師団の各連隊は引き続き未明から台地を攻撃した。
 都城連隊の第一大隊はこの日さらに大隊長代理も負傷するという激戦をくり返し、ようやく華麗寺まで進んだ。第二大隊は砲兵の協力で安徳門を攻め落とした。この日の進んだ距離も前日と同じ一、ニキロであったが、ようやく台地の端近くまで進むことができ、いよいよ城壁が目の前になった。城壁まであとニキロメートルである。
 夕方になり、都城第二十三連隊では、第三大隊と第一大隊が交代する命令が出された。二日間にわたる激しい戦いで第一大隊、第二大隊は相当消耗していたため、ずっと予備隊として後方にいた第三大隊が第一線に立つことになったものである。
 鎌田上等兵にとり第一線は久しぶりであった。すでに光華門では鯖江の連隊が城門を一部占領し攻防をくり返していたが、もちろん知る由もない。十二月に入ってからは、ただひたすら、南京、南京、と考えて進み、ぜひ南京一番乗りしたいと思っていただけに、城壁を目の前に第一線に立つことができて心から喜んだ。
 鎌田上等兵は、兵隊になってまだ一年であったが、七月末に出征してがら実戦は四ヵ月を経験している。戦場に出て一ヵ月もしない九月二日に北支で左大腿部を撃ち抜かれた。貫通銃創だけなら後方移送でも内地送還でもなく、少し休んですぐに原隊復帰である。このときの戦いは、第三大隊が第一軍司令官香月清司中将から感状をもらったほどの戦いであった。戦場に出て早々そういう経験をしている鎌田上等兵にとって、戦場が怖いという思いはない。ただ早く南京を攻め落としたいという気持ちだけであった。
 第一大隊と交代して第一線に進むと、前方には南京城壁が見えてきた。
 夜になり、第一線部隊に、明日、南京城壁奪取という命令が師団司令部からきた。
 師団司令部と共に進んでいた新聞記者たちは、その命令を聞いて、日本軍は昭和十二年十二月十二日十二時に南京城に日の丸を立てるだろう、などと予測した。
 城壁前には東から西に熊本、大分、都城の連隊が並び、鹿児島の連隊は昨日から迂回して城壁の西側に回っていた。
 重装備のため追撃が遅れていた野戦重砲第十四連隊の第一大戦は九日から参加していたけれど、城壁攻撃のため第二中隊が熊本の連隊を、第三中隊が都城の連隊を支援することになっている。
 第六師団司令部は、中華門と西南角の二ヵ所から城壁破壊をして突入しようとしていたのである。
 しかし、台地は完全に日本軍がおさえたわけでなく、まだ中国軍が確保している陣地もあった。また、台地から城壁前まで後退した中国軍は城壁前の建物にこもっている。城壁上にはトーチカがあり、城壁の途切れる西側にもまだ無傷の中国軍がいる。その上、城内の砲台からも日本軍めがけて砲撃をしている。そのため明日の城壁突入は簡単にはいかないと予想された。
 この夜、城壁前は一晩中、中国軍からの砲声、銃声がやまなかった。

南京城いまだ陥ちず
十二月九日に鯖江三十六連隊が光華門に達したことは十日に日本中に報道され、気の早い人は霧雨の東京で提燈行列をはじめていた。そして、十日夕方、光華門に日章旗が翻ったニュースはすぐにラジオから日本全国に流れた。それを聞いて日本中が沸いた。明治座の舞台の上では、役者が万歳を唱え、感極まって泣き出したほどである。夜になると有楽町にあった朝日新聞の電光ニュースには、「光華門突入」の文字が流れた。
 十一日は朝からラジオが第三十六連隊の光華門突入を伝え。「殊勲一番乗り、脇坂部隊」「南京城に日の丸」といった号外や新聞報道が相次いだ。東京市内の小学校ではどの小学校でも朝礼のときに万歳三唱を行い、光華門突入の知らせに、国民はこれで南京が陥落したという気分になっていた。
 銀座と並んで東京の二大繁華街であった浅草もお祝いムードがいっぱいだった。映画街の真ん中には「祝南京陥落」の塔が建てられ、浅草観音様の境内にはたくさんの小旗がはためいた。仲見世通りには紅提燈が飾られた。
 夕方六時からは日比谷公会堂で祝勝記念大講演会が三千五百人を集めて行われ、そのころ夜九時まで営業していたデパートは夜になると電飾提燈を飾り、ニュース劇場の入り口には「祝南京陥落」のビラが貼られ出した。
 十二日の日曜日になると、さまざまな祝賀催しは全国で行われた。
 東京では祝皇軍南京入城のビラがまかれ、一千名からなる音楽大行進が靖国神社から皇居、陸軍省、日比谷公園をパレードした。銀座の通りは日の丸と軍艦旗で埋まっている。後楽園では「百万人の大合唱」と題する催しが行われ、君が代、進軍などの大合唱のあと、人気レコード歌手がつぎつぎ登場して歌った。
 この日ついに警視庁は一般の祝賀催しは差し支えないと発表した。
 しかし、日本国内の騒ぎとはうらはらに光華門の攻略は予測を許さない状況であった。鯖江部隊が光華門に到達したとき、光華門防衛にあたっていた中国軍の教導総隊は五百人ほどであったけれど、その後つぎつぎ増強され、千人ほどに増えていた。中国軍は、光華門以外ではまだ城外の紫金山や雨花台などで日本軍と戦っていたから、どうしても光華門を死守しなければならない。
 そのため中国軍は十一日になると、防戦から一転して積極的に攻めてきた。城門の上から城門内の日本陣地に木材と油を投げ込み、日本軍を火攻めにした。その上、催涙ガスも投げてきた。城内からは戦車が城門内の日本兵めがけて撃ってきた。
 この中国軍の攻撃に城門内の第一大隊は瓦榛と土嚢で掩体をつくり、自分の体を守るだけである。食べ物はなく、弾もほとんど尽きていた。弾を補給しようと光華門に向かって駆ける兵は、城壁上の中国軍から恰好の的になってたおれていった。
 一方、光華門城外ではこの日、遅れていた重砲が到着した。輜重部隊の一部も到着し、西坂上等兵は久し振りに米の飯を食べた。しかし、この米が行き渡ったのは城外にいた第二大隊と第三大隊にだけで、城門の第一大隊には届かない。握り飯をつくって第一大隊に持って行こうとした兵は途中で撃たれ、握り飯は道路にころがった。
 光華門に突入したものの、すでに一日半も日本軍の攻撃は止まったままである。
 十二月十二日は早朝から、到着した重砲の砲撃と飛行機による爆撃で、一気に光華門を攻め落とそうと攻撃がはじまった。
 重砲の砲撃がはじまると、今までびくともしなかった城壁の上部が崩れはしめた。
 これに勢いを得て、城門内にいた兵の何人かが瓦礫の一番上から城壁の上に攻めのぼった。この決死隊はいったんは城壁上を占領しそうな形勢になったが、日本軍の砲撃がやむと中国軍も反撃に転じ、ほどなく奪い返されてしまった。いくら決死の覚悟でも、十分に武器を持たない十数人で数百人を攻めるのはむりである。この攻撃でそれまでなんとか形をなしていた第一大隊は中隊の形もなさなくなり、これ以上攻撃する力はなくなってしまった。二日前、最初に突入した第一中隊八十人は八人になっていた。
 揚子江沿いに進むことになった会津若松第六十五連隊はそのまま揚子江右岸を進み、十二月十日に鎮江に入った。鎮江は上海、南京などを含む江蘇省の省都で、昔からの大きい町である。まだ上海の町が影も形もなかった平安時代、ここが揚子江下流では一、二を争う都市で、遣唐使の阿倍仲麻呂が、
 天の原ふりさけみれば春日なる
   三笠の山にいでし月かも
 と日本への思いを詠んだ所である。
 鎮江はすでに数日前に善通寺の天谷部隊が攻略して、天谷部隊はそのあと揚子江を渡って揚州に向かっていた。会津若松第六十五連隊が鎮江に入ったとき、街はあちらこちらが焼け落ちていた。
上海の防衛が危うくなったころからあわてて作ったと思われるトーチカが半分作られたままになっている。二十万ともいわれた市民もほとんど疎開して、逃げ遅れたのか逃げようともしないのか、農民のような乞食のような格好をした者がわずかにいるだけである。
 十一日には鎮江の先の高資鎮に進んだ。
 この日、郷里の福島県では脇坂部隊が前日光華門に突入したとラジオで報じられていたため、県民あげてのお祭り騒ぎが行われていた。
 光華門突入のニュースには日本中が沸いていたけれど、南京に部隊を送っている県では特別の騒ぎだった。福島県では昼に旗行列、夜は提燈行列が行われた。連隊本部のあった会津若松では内地送還された負傷兵が旗行列に加わり、花火も打ち上げられた。
 しかし、第六十五連隊にとって南京はまだ四、五十キロも先にあり、南京陥落は別世界の出来事であった。

決死の守兵強し
 病人護送のため原隊復帰の遅れていた宇都宮の高松分隊は、原隊のあとを追い続けていて、ようやく追いついたのは前方に南京城が見えるところだった。
 部隊に追いついてみると、すでに一刈勇策大隊長は牛首山の戦いで負傷して、渋谷仁太大尉が代わりに指揮をとっている。中隊長の手塚清中尉も抹稜関の戦いで足に貫通銃創を受け、平沢新次郎小隊長が中隊の指揮をとっている。平沢小隊長が中隊長代理となったため、第二小隊は連隊本部にいた高柳清平准尉が指揮をとっている。わずかばかりの間に指揮官が全く変わっていたのに高松伍長はびっくりした。高松分隊が戦うこともなく後方を追及し続けている間、第一線は想像もできない戦いを続けていたことを知らされた。
 宇都宮の第百十四師団は第十軍のなかで、最後に杭州湾に上陸したけれど、その後一路、太湖方面に向かった。そして、南京攻略命令が出た後はまっすぐ南京に向かった。そのため南京攻略命令直後は鯖江や福知山の連隊と比べ、ほとんど同じ速さで南京に向かって進んでいた。しかし、七日、八日に揚山、銀尨?山を攻めあぐねて遅れをとった。まもなく追いついてきた第六師団と戦闘地境の協議を行い、九日に将軍山を攻め、十日の朝、ようやく蔴田橋に進んだ。南京城まであと四、五キロの所である。
 しかし、蔴田橋の先の花神廟から城壁までの間は雨花台と呼ばれる丘陵地帯で、うねった地形を利用してトーチカや塹壕がつくられ、南京城南側の最後の砦となっていた。南京城外の防御線では最も堅いものである。
 雨花台を前にして、第百十四師団は十日から水戸と宇都宮の連隊が左翼隊となり、高崎と松本の連隊が右翼隊となり攻めることになった。雨花台を越えればそこは中華門から東南角までの城壁で第百十四師団の目標とする城壁である。
 十日朝から雨花台に向けて攻撃が始まったとき、第百十四師団司令部は、師団のなかで最も早く進んでいた左翼隊に主眼をおき、師団の目標を中華門よりの城壁と考えていた。
 左翼隊の水戸と宇都宮の連隊が花神廟から雨花台の攻撃に移ると、さっそく中国軍は激しく砲撃してきた。中国軍は花神廟の先にある白家水洞にトーチカや、塹壕などの一大陣地を築いており、ここには迫撃砲も何門かある。日本軍が攻めてきた場合を想定して、距離を測定していたので、中国軍の迫撃砲、重機関銃は正確だった。
 しかも、自家水洞から雨花台一帯を守っていた中国軍は中国軍の中でも一、二を争う精鋭の八十八師で、この中には自分の体をトーチカの鎖にしばりつけ、死んでも南京城を守ろうとする若い兵士が何人もいた。このため、水戸、宇都宮の連隊では攻撃にうつったとたん、つぎつぎ死傷者が出た。このまま攻めてもただいたずらに死傷者を出すだけである。
 結局、水戸と宇都宮の連隊のこの日の攻撃は失敗に終わり、夜にはふたたび蔴田橋まで引き揚げざるをえなかった。
 自家水洞の中国軍を攻め落とすことはむずかしいと考えた師団司令部は、高崎、松本の右翼隊に主眼をおいて南京城の東南角を中心に攻めることに変更し、野重砲なども右翼隊に差し向けることにした。
 高松分隊が原隊に復帰したのはこういうときである。第四中隊にもどってみると、だれもが連日の戦闘で殺気だっていた。高松伍長は杭州湾に上陸して中国人の死体を見たときに、命を捨てる気持ちでいたけれど、彼らの気持ちとは比べものにならず、自分たちが全くのんびりしていることを知った。
 しかし、そんな気持ちのずれもわずかの間だった。中国軍から撃ち出された迫撃砲に高松分隊のいた場所はたちまち修羅場になり、その一撃は高松分隊の気持ちを第一線の兵士と同じようにした。
 いったい花神廟までもどった宇都宮の連隊はそこで態勢を立て直し、真夜中になってあらためて攻撃をはじめた。
 中国軍からの砲撃は一晩中やまず、百雷のようにあたり一面に響き、高松伍長には、頭上の空気が震えているように思えた。
 十一日、日本軍は白家水洞へ砲撃をはしめたが、いぜん、中国軍からの砲撃は正確である。
 中国軍の塹壕はいたるところにあり、日本軍と中国軍は錯綜している。高松分隊は最前線ではなかったけれど、せまい戦場では最前線も後方も同じである。高松伍長は頭も上げられず、小便も寝たままで行うという一日を過ごした。
 宇都宮連隊はようやく夜になり白家水洞まで進んだが。食事のため火を焚くこともできず、激しい砲声で寝ることもできなかった。(つづく)

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