城壘08


丸MARU 1989年8月号 通算517号 連載第8回 
危機せまる南京城
 南京は、昭和二年、そのころ国民党内で最も力を持ち出してきた蒋介石によって中華民国の首都に定められた。
 かつて明の首都であったため、南京には明の時代の古い城壁か残っていた。城壁の長さは三十五キロにわたっており、高さが十五メートルほど、厚さも十メートルほどの立派なものであった。ここに大小二十ほどの門があり、なかでも東にある中山門、南の中華門、西の水西門、北西の挹江門などは特に大きい門である。
 城壁の北西側を揚子江が流れ、反対側は小高い山や丘が続く。北東にある山が烏龍山、東にある山が紫金山で、南には雨花台と呼ばれる丘がある。
 市民の七割は城内に住んでおり、さらにそのほとんどが昔からの繁華街であった南半分に住んでいた。北半分は野原であったけれど、首都に決められるとともに広い道路が整備され、大きい政府の建物が建てられるようになった。やがて外国の領事館が置かれるようになると、いかにも首都らしいたたずまいをみせ出した。明の故宮跡には中山東路が走り、国民政府の建物、日本領事館、首都飯店などの建物が立ち並んだ。
 城外では、挹江門を出て揚子江の舟着き場までが下関と呼ばれて大きい街を形成していた。ここには上海からの鉄道の終点があり、南京の玄関口でもあった。船か列車で南京に来ると、挹江門を通って南京城内に入る。
 首都に定められたころ、南京の人口は三十数万人ほどで、上海と比べると、ずっと小さい市であったが、首都に決められてから毎年のびて、蘆溝橋事件がおきるころはほぼ百万になっていた。
 しかし、蘆溝橋事件がおき、八月に上海に飛び火して、いわゆる第二次上海事変がおきると、南京から避難する人が出始めた。日本軍の飛行機が南京の軍事施設や飛行場を爆撃すると、避難に拍車かかかり。最初の一ヵ月ほどで二十五万人ほどが避難した。このとき避難した人は、裕福な人だけで、中には香港まで避難した人もいた。
 十一月上旬、上海が日本軍の手におちると、南京は再びあわただしくなった。
 南京を防衛するための南京衛戌軍が編成され、司令官に唐生智が就任した。南京死守が叫ばれ、国民政府の機構は、軍を除いて、漢口と重慶に移されることになった。市民も揚子江を渡って対岸に避難し、あるいは、揚子江から船に乗って上流の九江、漢ロに避難した。特に船で上流に逃れる人が多く、船着き場は毎日ごったがえしていた。
 上海方面で負傷した兵は列車や車で南京に運ばれたけれど、前線から運び込まれる負傷兵は日をおうごとに多くなり、それまで治療にあたっていた医師や看護婦だけは足りなくなっていた。
 そのため、列車で南京駅に運び込まれても、負傷兵はそのまま放置されたり、プラットホームに寝かされたままになりだした。すでに初冬を迎えていたけれど、何千人もの負傷兵は冷たい風や雨の中にさらされ、うめき声は遠くまで聞こえ、異臭もあたり一帯をおおった。
 やがて医師や看護婦も南京から避難し始めたので、南京に運び込まれたものの、そのまま息絶える負傷兵が相次いだ。
 十一月も終わり頃になると、前線から撤退した軍隊が南京の街を横切り、揚子江を渡って退却していった。一ヵ月で、数十万の市民が避難していったが、それでもまだ二十万以上の市民が残っていた。
 避難する人に比べて船が足りない上、軍隊が現れたので、下関は大混乱になった。チケットを手記することができない市民も船に殺到するため、船は揚子江の真ん中にとどまったままで、ジャンクが船着き場に接岸して乗客を船まで運んだ。それでもいつのまにか船まで来るので、船員はホースで水をかけて船にしがみつこうとする市民をふりほどかなければならなかった。
 十二月に入ると、市当局も避難することになり、馬超俊市長は、アメリカ人たちが作った国際難民委員会に食糧とお金と数百人の警察官をゆだねた。市関係者は去り、南京は無法地帯となった。南京に残っている市民は、上流に避難する船賃すら持っていないような貧民ばかりで、避難して空き家になっている家から略奪を始めた。
 一方、日本軍の中では、南京攻略が下令された三日後、上海派遣軍司令官に朝香宮鳩彦中将が親補され、十二月六日、朝香宮はあわただしく上海に到着した。軍中央部では、南京攻略を一月中旬ごろと考えていたが、南京城攻略時期が予想をはかるに越えると考えられるようになっていたからである。
 朝香宮中将の上海派遣軍司令官親補とともにそれまで上海派遣軍司令官を兼任していた松井大将は中支那方面軍司令官専任になり、六日、朝香宮中将を上海に迎えた後、七日には蘇州に進んだ。松井軍司令官以下はこの日はじめて復旧した鉄道で参謀たちとともに移った。朝香宮中将は蘇州より先の無錫に車で向かった。
 蘇州に移った松井軍司令官はこの日、隷下の軍に軍紀を一層きびしくするように命令を出した。南京城攻略を目前にひかえて発令された軍命令は次のようなものである。
 「部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬神帰服せしめ、苟も名誉を毀損するが如き行為の絶無を期するを要す。掠奪行為をなし、又、不注意と雖火を失するものは厳罰に付す」

さんざめく日章旗
 そのころ、日本では、旗屋がうけに入っていた。支那事変が始まり、兵士が出征するたびに旗やのぽりの注文が来たからである。
 出征が決まると、知人や親戚は「祝・出征 武運長久」と書いたのぼりや旗をこぞって贈った。旗屋は注文通りに文字を書いて作り上げる。ところが召集から出征までがわずかなため、作りあげる日にちがない。そのためどの旗屋もてんてこまいで、小僧さんを何倍もふやして旗作りを行っていだ。旗屋をやってビルを建てないところはないとか、満州にまで支店を開いたという景気のいい話があちこちで聞かれた。支那事変が始まって一ヵ月半ほどした九月十八日には警視庁が、商人の暴利を取り締まるという声明を出すほどの景気であった。
 その上、保定陥落、上海陥落などが続き、そのたび旗行列、提灯行列が行われた。旗屋はますます忙しくなり、いくら粗製濫造の旗でも材料が不足したり、製造が間にあわなくなっていた。
 提灯は本場名古屋で作られ全国に運ばれた。
 そこに、南京追撃という大ニュースである。もし南京が陥落すれば今までにない大がかりな旗行列、提灯行列が行われるだろうと、旗屋、提灯屋ではますます忙しくなった。
 南京追撃が下令になったころ、国民の間でも南京陥落は昭和十三年の年が明けてからと見られていたが、日本軍の快進撃が続き、そのため旗屋も日を追うごとにあわただしくなっていた。東京では毎日三十万枚の旗が作られていたが、行列用手旗の小幅のさらし生地が足りない。そこで下帯用の生地を使う店も出て、生地がないので紙の旗まで作られる始末であった。
 東京府の国民精神総動員実行部は府下の全市区町村長に、南京が陥落しても支那事変が解決するというのでもないので、仰々しい祝賀催し物を行わないように、と市民の祝賀熱に水を差すような談話を出したか、江陰陥落、丹陽陥落、句容陥落と連日新聞で日本軍の快進撃が報道されるので、府の指導はなんのききめもなかった。
 福知山の山室分隊が句容を出発した十二月六日には、全国あちこちで祝賀催し物の準備が始まった。
 会津若松の連隊が江陰を後にした十二月七日、朝から警視庁に旗行列、提灯行列の許可願いが殺到しはじめた。日立製作所が八千人の行列、東株(現東京証券取引所)が七千人、東京女高師(現お茶の水女子大学)が一千五百人といった具合で、警視庁は南京が陥落すれば許可すると伝えた。また、行列の許可願いだけでなく、戦勝祝賀会のため、東京会館はじめホテルや料亭に予約が次つぎ入り始めた。
 一方、街では、まずカフェーが「祝南京陥落」ののぼりを立て、続いてデパートが「歳末大売り出し」を「祝勝大売り出し」に変えてお祝い気分を盛り上げた。銀座、神田、上野、新宿など東京の盛り場には大きい幕が飾られ、商店は店頭に日の丸を掲げだした。
 鯖江の連隊が淳化鎮を攻略した十二月八日になると、商店街だけでなく、会社や銀行も旗やのぼりを飾り、「祝南京陥落」のアドバルーンがあげられ、一層お祝いムードがかきたてられた。昭和初期の長い不景気から立ち直りだしたころであったから明るいムードは全国にあふれていった。

光華門の竪陣
 十二月九日午前五時、まだ夜が明ける前、不眠不休で行軍していた鯖江の先頭部隊は、ついに南京城まで数百メートルという地点に到着した。後方を進んでいた西坂上等兵も夜が明け始める頃、北西に黒々とした陰のようなものを見た。そこは南京城の東南の城壁だった。水平一面を無言の城壁がおおっている。それを見たとき、西坂上等兵は上海以来一度も感じたことのない無気味さを感じた。
 鯖江第三十六連隊が到着した城壁のまわりは幅百三十五メートル、水深四メートルの濠に囲まれていた。情報によると濠には水がないということであったが、実際の濠は深く水をたたえ、ここから攻撃することはとてもできない。そのためすぐそばの光華門に通じる本道から攻撃を行うことになった。
 第三十六連隊が暗闇の中を光華門外に展開し始めると、突然城内からサイレンが鳴り響き。照明弾が打ち上げられた。二、三分の間あたりは昼間と間違えるほど明るくなった。本道の片側にある街灯も点灯され、城壁から中国軍が一斉に撃ってきた。中国軍は、郊外の陣地が崩れると光華門を閉め、攻撃の準備をして待っていたのである。
 日本軍はあわてて街灯を撃ち、そばにある物陰に隠れた。再びまわりは暗くなった。
 城壁を囲む濠の外側には土手があり、土手のたもとには防空学校がある。連隊本部と第二大隊はこの防空学校に入った。学校内の電灯はまだついており、中国軍はここからもあわてて逃げたことがうかがえた。
 攻撃を命ぜられた第一大隊は光華門に通じる本道上に大隊本部を置き、第三大隊は防空学校の西南方面に構えた。
 第三十六連隊ではまず山砲で光華門を砲撃することになった。しかし、城壁は一つ二十キロもある煉瓦が積まれ、城壁の厚さは十メートルほどもある。山砲の攻撃ではびくともせず、煉瓦のかけらがころげ落ちるだけであった。
 光華門の扉にしても鉄でできており、内側に土嚢、木材がぎっしり積まれている。扉のほうも山砲の砲撃に一部が壊れただけであった。
 山砲の攻撃がむりだと分かると、工兵隊が城壁を爆破することになった。
 光華門の前には戦車壕や鉄条網などが何重もある。工兵隊は援護射撃の中、これを排除して光華門まで進んだ。しかし、工兵隊の仕掛けた爆雷でも門の一部が壊れただけで、それもまもなく中国軍によって内側からふさがれてしまった。こうなるとあとは攻めようもなかった。
 光華門の防衛にあたっていたのは蒋介石の護衛部隊である教導総隊であったが、中国軍は光華門を守っている兵隊だけではなかった。第三十六連隊は一気に光華門まで進んだため、淳化鎮から城壁までを守っていた多くの中国軍をそのまま残してきた。
 これら中国軍が光華門から城内に入ろうとして、背後から第三十六連隊を攻撃してきた。このため光華門の教導総隊には第一大隊があたり、城外の敵には第三大隊があたることになった。
 午後一時ごろ、城内に逃げこもうとしてやってきた五百名の中国兵が防空学校を攻撃したのをはじめ、この日の午後から翌十日の午前にかけては城外のあちらこちらで戦闘が続いた。
 西坂上等兵たち第二大隊は予備隊として、飛行場のそばの民家に入った。防空学校からそのそばの飛行場にかけては農家が点在し、周りは畑である。西坂上等兵は数日間ほとんどまともに食べていなかったので、民家に入ると急に空腹感に襲われた。もちろん手元に食べ物は何もない。
 あちらこちらを探すうちに畑に玉ねぎを見つけたので、焼いて食べることにした。それまで玉ねぎを焼いて食べたという経験はなかったが、今はそれがてっとり早い料理方法であった。生ではからい玉ねぎが、焼くとまろやかな甘さにかわってしまう。野菜に飢えていたこともあったが、焼いて食べた玉ねぎのせさは何ともいえないものであった。
 鯖江連隊が光華門に迫った前日、他の部隊も相当進み、南京城からほぼ二十キロメートルの地点まで進んでいた。第十三師団が鎮江、第十六師団が湯水鎮、第九師団が淳化鎮、第百十四師団は楊山、第六師団は板橋鎮の近く、また国崎支隊は太平から揚子江を渡りつつあった。日本軍は南京城を取り囲む形となった。

大隊長の憤死
 一方、八日早朝、中国軍では、南京を死守するはずの蒋介石が飛行機に乗って南京から脱出した。蒋介石が南京から去ると、それまで躊躇していた軍や、一国民政府の高官も一斉に南京を離れ出した。南京に残ったのは、唐生智と約十万の首都衛戌軍だけになった。
 揚子江よりの城門以外は閉じられ、城門の防御に力が注がれただけでなく、城内の主要な道路にはバリケードが築かれ、たとえ城門が破られても、城内で抵抗する準備もととのえられた。
 日本軍はまだ南京城を攻撃するまでにはなっていなかったが、このような状況では中国軍の抵抗がむだなのは明白だった。
 南京城は淳化鎮などの郊外の丘陵地帯とちがい大都市である。住宅もあれば明の孝陵、中山陵などの歴史的遺物もある。また城内には一部市民も残留している。このまま南京が戦場になれば被害は甚大なものになる恐れがあった。
 日本軍がほぼ包囲態勢をとったのをみて、松井軍司令官は、南京を戦災と混乱にあわせるのは忍びないと思った。そのため中国が降伏すれば平和裡に南京に入ろうとした。また、松井軍司令官は南京にある第三国の権益の損傷も恐れていた。
 南京にはアメリカの大学、女子大、病院などがたくさんあった。その一帯には多数の市民がいるはずである。そのために、国際法の斉藤良衛博士を同行させていたが、南京が戦場になれば第三国の建物だけが無傷で残るというのは不可能に近い。
 そこで松井大将は中国軍に降伏勧告をすることにした。
 松井大将とともに蘇州に来ていた軍司令官付の岡田尚はこの日、降伏勧告文書を中国語に訳すように参謀から命ぜられた。
 この降伏勧告のビラは数千枚印刷され、九日昼、南京市内にばらまかれ、十二月十日の昼を回答指定日にあてられた。
 降伏勧告のビラは城壁のそはにいる西坂上等兵たちのところにもとんで来た。中国語がわからなくとも漢文なのでおおよその内容はわかった。そして降伏が勧告されたことは直ぐに連隊にひろまった。
 脇坂連隊長の祖先に脇坂淡路守安照がいた。浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件をおこし、赤穂藩が取り潰しになったとき、赤穂藩を請け取りに行った大名である。そのとき、城代家老の大石内蔵助は脇坂淡路守安照を城内に案内し、おとなしく引き渡しの目録を渡した。
 南京城降伏勧告の話が伝わると、脇坂連隊長こそ城の明け渡し役にぴったりだという話が兵隊の中からおきた。こうなったら城代家老にあたる南京衛戌軍司令官唐生智はおとなしく明け渡すべきだ、と兵隊たちはいいあった。
 とはいうものの、金壇、天王寺などを見ている兵隊たちにとって中国軍がおとなしく南京城を明け渡すとは考えられなかった。それどころかだれもが南京も最後は放火され、すべて略奪されるに違いないと思った。
 南京衛戌軍司令官唐生智は湖南を基盤とする軍閥で、蒋介石より二歳年上である。昭和二年に蒋介石が国民党内の争いのために下野して日本に行ったとき、唐生智はその後釜を狙ったことがある。しかし、その野望はすぐに破れ、蒋介石が日本を去った数日後、入れ代わるように日本に亡命した。
 それから十年。中国は蒋介石の時代になり、唐生智はその下で軍事委員会の委員になっていた。そして今回は南京衛戌軍司令官という役回りを命じられていた。軍事委員長である蒋介石は南京を死守するように、との命令を残したまま脱出しており、唐生智が独断で降伏を受け入れることはできない。そうすれば自分の首がとぶ。
 回答指定日の十日の正午、日本軍は中支那方面軍の塚田攻参謀長、通訳の役目の岡田尚らが中山門外で待ったが中国軍の使者は現れなかった。
 この知らせを聞いて松井軍司令官は心から落胆した。
 再び日本軍の攻撃が始まった。第十三航空隊による南京城の各門への爆撃も行われた。
 十日の午後三時、鯖江第三十六連隊も山砲での城門攻撃を再開した。鯖江連隊は九日朝に城壁まで進んでから攻略は遅々として進まなかったが、再開とともに脇坂連隊長は、第一大隊に、夕方までに城門に突入するよう命じた。
 西坂上等兵が宿営している場所からは光華門が手に取るように見える。中国軍の攻撃も激しく、城内や城壁上からさかんに撃ってくる。夕方には防空学校の屋根も吹きとばされた。防空学校の中では死者が相次ぎ、連日従軍僧の読経が続いていた。 午後五時近く、再開された山砲の砲撃により光華門の一部が壊れ、土嚢や瓦礫の急な坂ができた。ちょうど防空学校の屋根がとんだころであった。城内突入の機会を狙っていた第一中隊は躊躇なくこの坂から入り、続いて第四中隊も突入した。
 光華門は二重になって、その奥行きは二十メートルほどもあるが、第一中隊と第四中隊は外側の門を占領し、崩れた土嚢の上に日の丸の旗を立てた。はじめて南京城の一画に日の丸が立てられたのである。
 この日の丸は防空学校にいる毎日新聞と読売新聞のカメラマンによって撮影され、すぐさま自動車、飛行機と乗り継がれ日本に運ばれた。光華門の一部が占領されたことは城内の唐生智司令官にも伝えられ、唐生智司令官は午後六時にそれを認めた。
 屋根を吹き飛ばされた連隊本部からは、続いて、あくまで光華門を死守せよとの命令が出された。これをうけて五時三十分、光華門外にいた伊藤義光第一大隊長は、みずから第三中隊を率いて光華門に突入することにした。
 突入に先立って、伊藤大隊長は連隊本部に電話連絡をしてきた。
 伊藤大隊長は陸大入学のため大隊長から学生になったばかりを急きょ一ヵ月前に呼びもどされたところであった。電話口に出た鈴木連隊副官に、これから突入する旨を伝えた。伊藤大隊長は五年前の第一次上海事変に出征して左眼を失っており、いま再び決死の光華門突入である。
 連隊副官は数時間前、第一大隊に全滅を賭して光華門を確保すべし、との命令を起案した人だけに、伊藤大隊長の決意を聞くと感極まってしまった。
 そのとき、近くにいた連隊長から連隊副官に、「大隊長に何をしているのだといえ」 という激しい言葉がとんだ。 電話を切ると、連隊副官は涙で、「大隊長はこれから突入します」と連隊長に伝えた。
 城壁上からの中国軍の銃撃の中を伊藤大隊長は第三中隊を率いて自ら突入したが、城門にたどり着いても中国軍は城門の上と城内から機関銃、手榴弾などで激しく攻撃してくる。第一大隊は陣地を拡大するどころか、光華門内の土嚢の陣地を確保するのが精一杯であった。
 第一大隊の兵は次々たおれていった。午後九時には伊藤大隊長も手榴弾の直撃をうけ、城門内で戦死した。命令どおりの死守であった。(つづく)

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