城壘07


丸MARU 1989年7月号 通算516号 連載第7回
若き分隊長の不安
 南京攻略命令が下ったとき、宇都宮第六十六連隊の高松分隊は太湖の近くを進んでいた。
 太湖は上海と南京の間にある大きい湖で、宇都宮の先頭部隊がこのあたりを通ったのは一週間以上も前のことである。
 高松伍長を長とする十数人の一団は、その先頭部隊より一週間ほど遅れて進んでいたことになるが、彼らは自分たちが今どこを進んでいるのか皆目わからなかった。ただ他の部隊が進んでいる方向に従って進んでいた。
 高松分隊の分隊長であった高松半市は大正元年、宇都宮郊外の農家に生まれた。当時、宇都宮には第十四師団司令部があり、栃木、茨城、群馬、長野の各県を管轄していたが、関東地方で師団司令部があるのは東京の他に宇都宮だけで、そのため宇都宮は軍都として知られていた。
 昭和八年。二十一歳をむかえたとき、高松半市は宇都宮の第五十九連隊に入隊した。半年ほど基本教育があった後、初年兵は満州の奉天に連れていかれた。満州国ができて二年目に入ろうとしていたときで、ここで警備を兼ねて訓練することになったのである。
 満州に移って半年の訓練の後、昭和九年には匪賊討伐に出るようになった。高松半市はこのときはじめて戦闘を経験した。最初の戦闘は雪原の中で匪賊と対峙したときで、この日の戦いは一日中続いたが、上官の話ではこれほど抵抗する匪賊はめすらしいとのことだった。
 その年は戦いのため、満州国のあちらこちらに行き、錦州や山海関にも行った。山海関は万里の長城の基点て、ここを見たのが最大の日本へのおみやげだった。
 それをみやげに六月に日本に戻り、まもなく一時帰休になった。除隊するときは下士官適任証を与えられ、次に召集されるときは下士官として勤務するということであった。
 除隊して三年目の夏、蘆溝橋事件が勃発して、第五十九連隊には八月に動員命令が下り。現役兵と除隊したての若者が動員された。
 それから二ヵ月して、上海での戦況がきびしくなったため、宇都宮で再び連隊が編成されることになった。現役兵や二十三、四歳になる除隊したての若者はすべて北支に行っていたため、新しい連隊は予備役と後備役で編成することになり、高松半市も召集された。
 このとき編成された師団は、すでに北支に行っていた第十四師団の上に百をつけて第百十四師団と命名された。各連隊も水戸が百二連隊、高崎が百十五連隊、松本が第百五十連隊と、もともとそこにあった連隊に百をつけて命名された。宇都宮の連隊も本来なら百五十九連隊と命名されるはずであったが、軍縮で廃止されていた六十六連隊の軍旗が残っていたので、宇都宮の連隊だけは六十六連隊の名前を使うことになった。
 高松半市が召集されて連隊本部に行くと、さっそく分隊長を命ぜられた。第六十六連隊第一大隊第四中隊第一小隊の分隊長である。確かに三年前に除隊するときは下士官適任証をもらい、次に召集をうけるときは下士官に昇進するということを聞いていたが、連隊本部に行くまでは分隊長になろうとは思ってもみなかった。
 召集された人はほとんど家庭を持っている人で、三十歳前後の人が多かった。連隊本部では四年前に入営したときの若さあふれる風景は見られず、在郷軍人会の集まりのようであった。十数名からなる高松分隊も三十歳過ぎの人が多く、二十五歳の高松分隊長が一番若かったほどである。
 分隊の中からは「おまえが分隊長をやるのか」という声があがった。三十代の兵隊からは、若い高松分隊長は頼りがいがないように見えたらしい。
 しかし、高松分隊長から見れば、三十歳半ばの人たちでいったい戦争ができるのだろうかという不安があった。やはり二十一、二歳の若さと比べたらみなぎる力がない。兵力としてはどうしても劣ってしまう。そう思った。
 連隊は、連隊長の山田常太中佐と三人の各大隊長、それに一部の大隊副官だけが現役てあった。師団長も予備役の末松茂治中将が現役に復帰して親補されていた。中隊長以下も予備役か後備役であったが、高松分隊が所属した第四中隊長は後備役の手塚清少尉だった。少尉が中隊長というのも高松分隊長は聞いたことがなかった。
 召集されて一週間後、高松上等兵は伍長に昇進した。何もわからないまま列車で大阪まで連れて行かれ、そこで数日訓練を受けた後、船に乗せられた。船に乗って上陸したのは杭州湾だった。
 第六十六連隊が杭州湾に上陸したのは十一月十日から十一日にかけてのことである。第百十四師団はこの上陸作戦で最後に上陸した。すでに杭州湾には十一月五日から第、一陣が上陸して内陸部に進んでいたため、第六十六連隊が上陸するころは敵もなく上陸はスムーズにいった。
 上陸付近はクリークが縦横に走っていた。クリークが道路の代わりを果たして、小船が交通機関である。クリークに沿って小道があるだけで他にまともな道路はなかった。
 上陸したものの、戦闘もなく、銃声も聞こえなかった。高松伍長には宇都宮の生活がまだ続いているようにしか思えなかった。
 ところがのんびり進んでいた数日後、クリークに浮かぶ小舟の中に中国人の家族らしき数人が死んでいるのが見えた。高松伍長が上陸してはじめて見る死体だった。家族は小舟に乗っていて撃たれたものらしく、銃弾が舟をつきぬけていた。そのためクリークの水が小舟の中に入ってきて、それを死体から流れた血が赤く染めていた。小舟の中は何人もの血で真っ赤になり、その色は、曇天のまわりの風景の中てひときわあざやかだった。
 たおれている家族はなぜ撃たれたのか? 中国軍が撃ったのか? 日本軍が撃ったのか? 市民でもやられるのか?
 まわりにいる誰もわからない。わかったことは、現実は生半可な気持ちではいけないということてあった。

落伍兵にとぶビンタ
 満州で戦った日からすでに三年がたって戦場とは縁のない生活を送っていたから、高松半市は、召集されて戦場に行くことになっても日常の延長に考えていた。
 宇都宮駅に見送りにきた家族の真剣なまなざしに違和感を覚えもした。列車の中でも家族のまなざしが気になっていたが、舟の中の死体を見て、自分が隣りあわせにしているのは死であることを認識しないわけにはいかなかった。そして、家族のまなざしが今さらながら理解できた。戦場に来たらやるかやられるかだけだとその死体を見て思った。何とかなるだろうと思って宇都宮を出たが、そのときはじめて命は捨てたものと思わなければいけないと思い、そして、国の為に諦めなくてはならないのだと思った。
 そんなことがあって第六十六連隊でも戦闘が始まり、自分たちの小隊長がたおれたとか、兵隊のだれかが死んだと聞き、一層その気持ちが強まった。
 それから数日して、分隊の一人が病気でたおれた。もともと丈夫な兵隊ではなかったが、急激な訓練と船上での生活、さらに上陸してからは連日雨が続いたため急に体力が衰えたものらしい。負傷なら軍隊で教えられた手当てのしようもあるが、原因がわからないためどうしようもなかった。
 やはり予備役、後備役の兵隊は大変だと思っていると、手塚中隊長がやってきて、「回りは敗残兵も多いだろうから分隊全員で野戦病院のあるところまで護送せよ」と命じた。それまでは頼りなさそうに見えた中年の中隊長であったが、一人の兵隊を気づかっで、てきぱきとした処置を下すのを見て、高松伍長は感激するとともに、それまで中隊長に対して持っていた不安が一瞬にして消えた。
 適当な担架がなかったが、分隊は手わけして洋車を見つけてきて、病院のあるところまで急ぐことになった。
 はしめはばらばらだった分隊の気持ちも、上陸や護送を体験してだんだんまとまってくるようになってきた。高松伍長は分隊長とはいえ一番若かったため、全員と物事を相談して進めた。それも分隊をまとめるのに役立った。
 分隊が数日ほど戻ると野戦病院があり、たおれた兵隊をそこに頼むことにした。
 兵隊を頼むと、分隊は休むこともなく三度同じ道を進むことになったが、回りの兵隊は見知らぬ兵隊ばかりであった。
 それでも数日ほど進むうちに、ようやく宇都宮の兵隊に会うようになった。ところが、分隊の出会った宇都宮の兵隊はいまにも倒れそうな兵隊ばかりであった。
 そのころ、先を行く宇都宮連隊では、強行軍のため、体力のない兵隊や年をとった兵隊はつぎつぎ落伍していった。落伍しそうな兵隊には中隊長命令でびんたがとんだ。すでにやさしい言葉も激励も役に立たない。兵隊の反発心だけが唯一の頼みであったからだ。
 それでも何人かは落伍していった。落伍した兵たちは落伍しながらも追いつこうとし、どうにかこうにか最後に一団となってすすんだ。その一団を揶揄して“第十三中隊”と称していたが、高松分隊が会ったのはこの一団であった。
 十二月一日に南京攻略命令が下りたとき、高松分隊はこうして落伍部隊と進んでいた。このとき連隊の主力は太湖近くの宜興を出発し、溧陽を目指していた。百キロ以上も先である。
 高松分隊はひたすら第一大隊に追及しようと急いだが、第一大隊も戦いながらも前進しているので、なかなか追いつけなかった。上陸したとき持っていた食べ物はすでになく、杭州湾に上陸できなかった輜重部隊は上海に迂回していたため、食べ物はすべて現地調達するしかなかった。
 高松分隊が進む途中の民家によく漬け物があった。漬け物の次に見つけたものは甘薯であった。このため高松分隊はほとんど漬け物と甘薯だけの食事を続けていた。
 たまには粉や玄米が見つかることもあったが、それはめすらしかった。現地調達の場合、お金を払うようにとお金を渡されていたが、中国人はほとんどいなかったのて、お金を払うことはなかった。
 高松分隊が落伍部隊と一緒に進んだのはわずかの間で、まもなく、彼らを追い越した。そうやって進むうちに別の一団に追いついた。その部隊はしんがりの第三大隊第九中隊だった。ようやく本隊に追いついたことになる。
 しかし、そこで聞いた話によれば、第一大隊ははるか前方を進んでいるということだった。
 連隊の主力は、十二月三日、溧陽に進んだ後、深水に向かい、さらに七日には溧水を出発して秣陵関に向かっていた。予備役や後備役からなる部隊であったが、鯖江や福知山の部隊と同じ速さで進んでおり、南京への距離も鯖江や福知山の部隊とほぼ同じであった。
 高松分隊と連隊の主力の距離はほとんど変わっていなかった。

空きっ腹の総攻撃
 十二月五日の午後、鯖江第三十六連隊は淳化鎮にある中国の防御ラインの第一線に到着した。このとき、西坂上等兵の第二大隊は後衛を進んでいた。
 敵の第一線には歩哨がいるだけであったが、五百メートルほど先には掩蓋壕がある。このあたりは摩盤山を越したとはいえまだ平坦ではなく、なだらかな丘が続き、掩蓋壕の先にはさらにトーチカも見えた。すでに掩蓋壕やトーチカの前方は射界清掃がしてあり、日本軍が現われれば、狙い打ちできるようになっていた。
 中国の主都南京では十一月十九日に首都衛戌軍が編成され、唐生智が最高司令官に就任した。首都衛戌軍は、南京城だけでなく、南京の外郭陣地まで投入され、ここ淳化鎮には二千名から三千名ほどの第八十三軍が守りについていた。
 日本兵が現われたとわかると、中国軍は掩蓋壕やトーチカから猛烈に撃ってきて、日本軍はただちに第一大隊と第三大隊が展開して応戦した。
 連隊長は、中国側の陣地を見て、陣地は堅固だが兵力は多くないから攻め落とせると判断した。まもなく、一気に攻め落とせとの命令が第一大隊と第三大隊に出された。
 日本軍の本格的な攻撃が始まったが、何力月も前から準備していた中国軍の防御は堅く、またたく間に日本軍には死傷者が出た。トーチカにあたつた日本軍の弾ははね返されるばかりで、鯖江第三十六連隊はそこではじめて、堅い地面を掘って壕をつくらなければならなかった。
 夜遅く再び、明日には攻め落とすようにとの連隊命令が第一線に届いた。
 戦いは一昼夜にわたって激しく続き、翌六日の夕方、ようやく第二線ともいうべき掩蓋壕やトーチカを破った。しかし、その先にはさらに堅固なトーチカがあり、攻撃ぼその夜も続行された。
 三日目の七日になって予備隊として後方にいた、西坂上等兵たちの第二大隊がいれかわりに攻撃の第一線に立った。
 すみやかに敵を突破し、一気に南京城まで進め、との連隊命令である。しかし、中国軍はトーチカの銃眼から日本兵が現われるのを待っていて、第一線に立った西坂上等兵が銃の先に鉄兜をのせて上に突き出すと、一斉に鉄兜を目かけて撃ってきた。
 「カンー カンー」と続けざまに弾が鉄兜にあたり、敵の反応のすばやさに手も出なかった。第二大隊は、奪った中国軍の掩蓋壕、あるいは小さな丘の死角を利用して匍匐前進するだけであった。
 第六中隊長は、下士官から上がってきた人で物事を慎重に考える人であった。この敵を見て、「むやみに攻撃しても、いたずらに死傷者をふやすだけだ」と指揮班の兵隊たちにいった。
 中隊長はすでに四十歳に近く、部下には常に命を大切にといっていた。そのため、上からの命令に対して行動が慎重になることがあった。その指揮ぶりを、他の中隊の中にはずる賢いという人もいたが、西坂上等兵には、よく状況判断のできる人に思えた。今日も中国軍の精神力は日本軍とどっこいどっこいである。今は堅固な陣地を築いているだけ中国軍は有利だから、このような状況では無理な攻撃はせす、総合的に勝っている友軍の火力を生かすしか方法はない、と西坂上等兵は思った。
 何度か連隊命令が発せられたが、この日も攻め落とすことはできなかった。淳化鎮に来てからすでに三日もたっていた。脇坂連隊長は、「こんなところで三日もぐずぐずして諸君にはずかしい」と連隊本部と同行している新聞記者に語った。しかし、中国軍の銃撃が激しいためカメラマンは写真すら撮れず、状況がきびしいことはカメラマンや記者がよく知っていた。
 この日の午後になって山砲と軽装甲車が来たので、改めて八日に総攻撃を行うことになった。
 連日晴天が続いていたが、十二月八日は特に良い天気で、ぽかぽかした小春日和であった。昼までには山砲の準備もすみ、まもなく総攻撃が始まろうとしていた。総攻撃にはまず第二大隊が突撃することになっていた。
 西坂上等兵は、淳化鎮に到着したとき持っていた食糧を昨日まで食べ尽くし、今日は朝から何も食べていなかった。輜重部隊は遅れており、トーチカだけの戦場では何も徴発できなかった。それは西坂上等兵だけでなく、この日の脇坂連隊長の昼食も茄でた甘薯だけである。しかし、突撃を前に、西坂上等兵は空腹は少しも感じなかった。代わりにからだが震えてしようがない。
 鯖江を出発するときに二百二十名いた第六中隊は、このときは七十名に減っていたが、全員、敵のトーチカから死角になっている窪地まで進んで中隊長の攻撃命令を待っていた。いつもだと伝令などにとぶ指揮班の兵も、今日は全員突撃である。
 西坂上等兵もいっもの軽機関銃を三八式歩兵銃にかえ、銃の先に剣を着けて命令を待っていた。突撃をすれば中国兵から格好の標的になるかもしれないが、そうなっても自分だけは助かると思った。というよりむりやりそう自分に思わせた。そう思わなければとても突撃などできなかった。
 午後一時五十分、一斉に山砲の砲撃がトーチカに向けて始まった。飛行機からの爆撃も行われた。山砲による砲撃は十五分も続き、やがて砲撃の最後を示す発煙弾が打ち上げられた。それを砲隊鏡で見ていた中隊長が、「突っ込め!」と叫んだ。その声に中隊は全員が突撃した。第六中隊だけでなく、第二大隊の各中隊も一斉に飛び出した。酉坂上等兵はそのとき自分が何をしようとしているのかわからなかった。さきほどまで頭の中にあった敵の射撃のことも忘れて、ただ、敵のトーチカに向かって全速力で駆けていた。
 突撃と同時に軽装甲車も一斉に進んだ。左翼から迂回して後方から中国軍をはさみ撃ちするつもりであった。駆けながら西坂上等兵は左の網膜のすみに五、六台の軽装甲車が見えたような気がした。小春日和の丘陵地帯に繰り広けられる歩兵と軽装甲車の一斉突撃は壮大なパノラマだった。
 今までにない砲撃とそのあとの歩兵の突撃により、さすがの中国軍も動揺をしだした。その上、軽装甲車が逃げ場を断つように進むと、それまでは日本兵を身動きさえさせなかった中国軍が崩れ出した。まさに歩兵操典にあたる攻撃体形である。いったん崩れはじめると、中国陣地はあっという間に崩れ出した。中国兵は、逃げながら手榴弾を投げてきたが、あらぬ方向で爆発するだけであった。第二大隊はつぎつぎトーチカになだれ込んだ。
 しかし、西坂上等兵の飛び込んだトーチカには死守するつもりの中国兵がいた。西坂上等兵は飛び込んだ勢いで中国兵めがけて銃剣を突き出した。一瞬ひるんだ中国兵の手榴弾攻撃と西坂上等兵の剌突は一瞬の差で、中国兵は手榴弾を投げる暇もなくたおれた。
 第二大隊に続いて第三大隊も突入し、日本軍はつぎつぎトーチカを占領していった。
 四日にわたって抵抗した中国兵ではあるが、いったん崩れ出すと総崩れになり、主力はあっという間に退却してしまった。
 山砲の砲撃が始まって一時間後の二時五十分には淳化鎮一帯が日本軍のものになった。

連隊長の危機一髪
 しかし淳化鎮を落としたが、喜んでいる暇はなかった。ここで一息いれているうちに敵が体勢を立て直して、再び陣地にたてこもれば日本軍の犠牲が大きくなる。一気にこのまま攻め込むのが得策だという連隊長の判断であった。そのため西坂上等兵たち第二大隊と第三大隊はそのまま中国兵を追った。
 淳化鎮から四キロメートル先の高管頭にも中国軍の陣地があったが、西坂上等兵ら先頭の部隊は左に迂回して、そこからさらに四キロメートル先の上方鎮に向かった。後方の陣地まで一気に進み、敵に体勢を立て直す暇を与えないためであった。そのため高管頭は後続の部隊にまかせた。
 西坂上等兵たちが素通りした高管頭の中国軍は戦車を中心にした兵力で、後続の第一大隊、連隊本部が遅れてくると猛烈に攻めてきた。戦車は濃い緑色で塗られた真新しいドイツ製のもので、日本の運搬を主任務とする軽装甲車とは違っていた。
 このとき日本はドイツと防共協定を結んでいたが、一方、中国もドイツとは友好状態が続いていた。そのため中国軍は陣地構築など戦術面の指導を仰いだだけでなく、戦車、銃などの武器もドイツ製のもので装備していた。日中戦争はある面では日独の戦いであった。
 急進する先頭部隊を追っていた脇坂連隊長、連隊旗手などは戦車が現われたとの情報にあわてて一軒屋に避難した。間もなく胴体に青天白日旗を描いた戦車が現われ、一軒屋から五十メートルのところまで来た。一軒屋を狙えば連隊長以下はひとたまりもない。
 しかし、戦車は連隊長らが隠れているのもわからずそのまま先に進んでいった。そして後続の部隊を狙に撃ちした。
 連隊本部と進んだ朝日新聞の浜野嘉夫カメラマンは、中国の戦車が日本兵をなぎ倒すのを見て、これを撮ろうとして胸を撃たれた。「何処かやられた」といいながら浜野カメラマンは同僚のいる建物に戻るやいなや息たえた。戦車は追ってきて、浜野カメラマンの逃げ込んだ煉瓦壁の建物に猛射かに浴びせた。朝日新聞の記者たちは浜野カメラマンの死骸を抱いたまま、揺れる部屋でなす術もなかった。
 戦車を中心とする一隊は撃つだけ撃つと反転していった。朝日新聞の記者たちは九死に一生を得た。戦車が去ると、こんどはさらに別の数百人の一隊が第一大隊を攻めてきた。高管頭と上方鎮の間四キロメートルは敵味方入り乱れての混戦になった。
 浜野カメラマンの戦死はしばらくして連隊本部に知らされた。二週間前、無錫で、連隊長についてきた朝日新聞と読売新聞の記者が死んで、さらにここに来てカメラマンの死である。それを聞いた連隊長は、「記者を殺すために戦争をしているのではない」と撫然としていった。
 このころ、先に進んだ西坂上等兵たちの部隊はすでに上方鎮を占領していた。さんざんあばれまわった中国軍の戦車は高管頭と、上方鎮の間で日本軍のはさみ撃ちの形になった。昼間は手出しできなかった日本兵は日没とともに戦車に肉薄攻撃し、サイドカー、貨車などとともにことごとくとらえた。
 浜野カメラマンの遺体は、その夜、同僚たちの手で荼毘に付された。混戦は夜になると一層激しくなった。中国兵は青っぽい軍服を着ているので、昼は日本兵と区別がつくが、暗くなると区別がつかなくなる。背格好がほとんど同じだし、話すイントネーションがちょっと聞くだけでは、日本語か中国語かわからないからである。
おまけに日本兵と同じ三八式歩兵銃を持っている中国兵もいる。そのためいたるところで日本兵と中国兵が入り乱れていた。暗闇の中でドイツ風のヘルメットだけが目安であるが、逃げる中国兵の後ろ姿があまりに日本兵に似ているのでとうとう撃てなかった日本兵もいたほどである。
 上方鎮がすでに日本軍に占領されていると知らないで退却してきた中国兵八十名が日本軍に殲滅された。
 暗闇の混戦の中で、西坂上等兵は上海でのことを思い出した。蘇州河渡河作戦のときだから十一月上旬のことである。すてに日本軍が占領しているとも知らず、中国軍の炊事班が炊きたての食事を運んできたことがあった。西坂一等兵たちは炊事班を一撃でたおし、満足に食べていなかったので大騒ぎしてそのご飯をいただいた。兵隊たちにとって中国兵をたおしたことより、ごちそうが大収穫だった。
 ご飯をいただいてから数日、こんどは明け方、西坂一等兵の第六中隊が占領していた建物に中国軍が大挙して戻ってきた。これもまだ日本軍に占領されたとは思っていなかったのだ。軽機関銃を持っていた西坂一等兵は彼らを見ると夢中で撃った。あとで数えてみると、五十人以上がたおれていた。そのことを思い出しながら、中国兵はいつも敵情判断が不充分な兵隊だと思った。
 夜の十時ごろになりようやく中国軍はばらばらに退却していった。もうまとまって日本軍を攻めてくる中国軍はいなくなった。上方鎮から南京城まではあと十キロメートルほどで、暗闇の中に南京城方面だけが明るく見えた。
 淳化鎮の攻略が始まって戦闘は四日も続いていた。今日も昼から休みのない戦いて、だれもが疲労困憊していた。しかしここまで来て今さら休もうとする者はだれもなく、このまま不眠不休で進むことになった。出発にあたって、連隊は体勢を立て直し、西坂上等兵の第二大隊は第二線に退いた。すでに真夜中で、暦の上では十二月九日になろうとしていた。
 出発することになったが、辺り一面は漆をながしたように真っ暗であった。暗闇の中を進むと、南京に退却する中国兵が隊列にまぎれ込んでくる。中国兵は、日本兵がここまで来ているとは思わず、退却する中国兵ど思っているらしかった。日本兵も中国兵がまぎれ込んでくるとは思わず、日本兵と中国兵はだんご状態になって進んだ。
 しばらく進むうちに一人の中国兵が話しかけてきて、言葉が違うのではじめて中国兵とわかり大騒ぎになった。あわててクリークに飛び込む中国兵もいた。疲れきっている日本兵の中には、話しかける中国兵に適当にあいづちをうつだけで気づかないものもいた。
 上方鎮より四キロメートルほど進むと高橋門があった。昔はここに南京城の外郭の門があった。今はその面影はないが、ひろい意味からいえばここから南京城である。付近の家は燃えており、つい先ほどまで多くの中国軍がいたことがわかる。南京城はますます近くなり、城内が燃えているのが遠くにはっきりわかった。(つづく)

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