城壘03


丸MARU 1989年3月号 通算512号 連載第3回
西坂上等兵の出征
 昭和十二年十二月一日、参謀本部が南京攻略を決定した日、鯖江の歩兵第三十六連隊は常州から卜戈橋に向かっていた。常州はほぼ上海と南京を結んだ直線上にある古い街で、上海からは百五十キロあり、そしてここから南京まではさらに百キ口ほどもある。
 辺りには一人の中国兵も見えず、遠くに、民家が燃えているのか煙が上っているのが見えるだけであった。
 ちょうどこの日、鯖江連隊の第六中隊の一人として行軍していた西坂一等兵は上等兵に昇進した。
 前の年に二十歳をむかえた西坂中は、徴兵検査を受けたあと、この年の一月に福井県の鯖江第三十六連隊に入隊した。入隊して初年兵の教育を受けた後、六月に一等兵に昇進した。一等兵に昇進した兵士は一緒に入隊した中の二割ほどで、鯖江の兵舎にいたときのことであったから、誰が昇進したのかすぐにわかった。それから半年で今度はさらに上等兵に昇進した。一等兵に昇進したなかで上等兵に昇進するのは半分だといわれていた。
 今度は他にだれが選ばれたのだろうかとも思ったが、戦場では、だれが上等兵に昇進したのか知るすべがない。この日の昇進ですら、実際に知らせを受けたのは半月ほど後のことである。
 上等兵まで昇進するのは同年兵の一割ほどといわれていたから、昇進の知らせを受けたとき、西坂中は喜ぶとともになぜだろうかと考えた。
 西坂中が入隊した時、配属されたのは軽機関銃班であった。それまで銃などというものは持ったこともなかったけれど、軽機関銃班に配属され、訓練するうちに誰でも撃てるようになる。そして、誰でも命中する一発目と違って、二発目は撃つ人によって違ってくる。西坂二等兵の二発目は命中する確率が高く、命中させるこつは銃のくせをのみこんで、気持ちだけそのくせをとりこむことだと自分なりに思った。やがで西坂は射手を命ぜられた。
 十二人ほどいる軽機関銃班の中で、射手に選ばれる者は二、三名で、特別に優秀な者だと見られていた。上等兵に昇進したのはそのことと関係があるのだろうかと思った。
 あるいは別の理由からであろうか。
 福井市武周町の農家の三男に生まれた西坂中は、高等小学校を出ると、東京に丁稚奉公に出された。それは生まれてはじめての東京で、丁稚奉公先は両国にあった。当時の両国は、東京のちょっとした繁華街のひとつで、大相撲のときは特に賑わった。ちょうど玉錦の時代が始まる時であった。
 丁稚奉公先は塗り物屋で、都内のデパートや小売店に家具を卸すのが商売であった。何人かいる小僧は、注文品の届けや、卸した先の店の手伝いが仕事であり、一番若い西坂には、この他に子供のお守りと、隠居のお供があり、ほとんど休むことはなかった。
 丁稚奉公を数年して二十歳になったとき、故郷に戻って軍隊に入ることになった。
 いよいよ入隊となったとき、兄やいとこから、軍隊はつらいものだとさんざんおどかされたが、入ってみると、聞かされていたものとは随分違っていた。
 入隊して二日目に、突然、中隊付きの中尉から呼ばれ、「西坂二等兵は、西坂昿の弟か」と問われ、そして「兄貴は銃剣術がうまかった。兄貴に負けずにやれよ」と励まされた。
 中尉は、兄と同年兵であったけれど、幹部侯補生として進み、そのときは中尉になっていた。兄と同年兵だった者は、他にも下士官になっている者がいて、なにくれとなくめんどうを見てくれた。軍隊が考えていたものよりつらくなかったのはこのためであるかもしれない。
 それに丁稚奉公のときと比べると、つらいのは軍隊だけではないと思った。
 丁稚奉公のころ、一番若い西坂は、毎晩、出入りロに近い所に、腰に紐を結わえて寝ることになっていた。その紐は店の出入り口から外まで伸びていて、夜遅く遊びから帰ってきた番頭がそれを引く。目を覚ました西坂は、他の小僧を起こさないように、こっそり鍵を開けて、番頭を入れなければならなかった。
 子守のときは、背中には赤ん坊をおぶって、そして四歳の子供を連れて近くの安田庭園にいくことが多かった。四歳になる子供の方は、四六時中相手にしないと、一人で家に帰って、小僧さんにたたかれた、と母親にいいつける。あわてて戻って弁解しても、「子供が嘘をいうはずはありません」といって叱られた。
 そんなことと比べれば、軍隊が特別つらいということはなかった。入隊して一番困ったのは、麦飯のにおいくらいだった。
 もちろん軍隊が良いことずくめというわけではない。初めて東京に出たとき、なまりが恥ずかしくて、めったに話すことはなかったけれど、ようやく慣れてきたころ鯖江に戻ってきて、今度は自分が悩んだ言葉が、郷里の者に嫌われた。あかぬけた印象を与えたため、「こいつは違った言葉を使って」と、他の者より殴られることが多かった。
 それに、上野の松阪屋や日本橋の三越では、卸した家具の販売を手伝っていて、日本一の繁華街でもまれたから、福井で生活をしていた者から見ると、要領がよく、生意気に見えた。それもピンクが飛ぶ原因にもなった。
 しかし、西坂にとってピンクは苦にならなかった。それどころか、軍隊の規律や礼儀がきびしいのは、むしろすがすがしいものだと思った。もともと規律のある生活が好きなのだ。だから軍隊では、毎日が生き生きとしていた。
 上等兵に進んだのもそのためであろうかなどと考えたが、本当の理由は分からなかった。

連隊長の意気込み
 翌十二年二日、行軍を続けていた鯖江の連隊は金壇に進んだ。
 金壇も古く隋や唐の時代から栄えた町で、町は城壁に囲まれて、郊外も含めた金壇県の人口は六万五千人ほどである。
 連隊が町に入ってみると、既に住民は逃亡してほとんどいなかった。住民が持ち去ったのか、中国兵が持ち去ったのか、家の中のめぼしいものは何もなく、その上、町の主な建物は放火されて焼け落ちていた。
 西坂上等兵たちの歩兵部隊は、休む暇もなく前進してきたので、輜重部隊は相当遅れていた。そのため食糧は徴発にたよることが多かった。軍紀はきびしく、建前として、徴発は禁止されていたが、食べ物だけの徴発は大目に見られ、実際、徴発といっても相手がいないため代価を払うことはしなかった。
 兵隊は金壇の町に入ると、まず食べ物を探した。しかし、いくら探しても食べ物はみつからなかった。金壇でみつけたものは、煙草工場に残っていた煙草だけであった。それは二匹の猫の描いてある中国の煙草で、中国軍があわてて逃げたため処分を忘れたらしい。それでも煙草は食べ物以上に手に入りにくかっただけに、兵隊は食べ物をみつけだす以上に喜んだ。
 この日、夜遅くなって、ようやく上海派遣司令部から、隷下の師団に、南京攻略の命令が出された。
 西坂上等兵の第九師団は、四個の歩兵連隊から成り、それぞれの連隊本部は、金沢、富山、敦賀、鯖江にあった。
 金沢の連隊が第七連隊で、連隊長は伊佐一男大佐、富山の連隊は第三十五連隊で、連隊長は富士井末吉大佐、敦賀の連隊は第十九連隊で、連隊長は下枝金之輔大佐、鯖江の連隊は第三十六連隊で、連隊長は脇坂次郎大佐である。
 これら各連隊は、二年前の昭和十年の六月、満州に渡って、満州の治安維持と匪賊討伐にあたっていた。特に後半の一年は、冬になると零下数十度まで下がる北満のハルビンから牡丹江にかけての一帯に駐屯した。
 二年間満州にいて、帰ってきたのはこの年の五月末で、帰って一月ほどで、蘆溝橋事件が起きた。そのため、第九師団の管轄区域からも師団が動員になり、第九師団は帰還したばかりだというので、予備役と後備役からなる特設の第百九師団が編成され、北支に向かった。
 それから一月ほどした九月に、上海が大変だというので結局、第九師団も動貝されることになった。
 今度は満州駐剳の時と違って戦時編成となり、予備役の兵隊が半分ほど入ってきた。
 これらの四個連隊は、上海に上陸して戦い、上海が日本軍の手におちたとき、数日休んだだけで、再び一斉に出発し、ほぽ同じコースを南京に向けて進んだ。
 富士井部隊が蘇州を占領すれば、無錫には脇坂部隊と下枝部隊が最初に突入し、一方、伊佐部隊は太湖を船で渡って進むという具合に、お互いが先になったり後になったりして常州までやってきた。当然、南京攻略となれば、再びお互いに競争になる。
 そのうちの一つである鯖江第三十六連隊の連隊長脇坂次郎大佐は、南京攻略の命令を受けたとき、ぜひとも南京城一番乗りを果たしたいと意気込んだ。三十年もの長い軍人生活を送って、連隊長として戦場に臨むことができ、しかも敵の首都攻略という機会に恵まれたのである。意気込むのも当然であった。
 脇坂連隊長は戦国時代の武将脇坂甚内安治の子孫である。脇坂甚内安治は、豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いで名を馳せた七本槍の一人で、のちに秀吉の下で朝鮮の役にも行った武将であった。そのとき脇坂甚内が朝鮮に持っていった采配は代々脇坂家に伝わっていて、この采配を、脇坂連隊長は上海まで持ってきた。そして上海戦の最後を決した蘇州河の渡河作戦のときにはこれを振って自ら進んだ。そのせいか、蘇州河渡河作戦はみごと成功した。
 連隊長が勇ましいのは蘇州河のときだけでなく、つい一週間前に行われた無錫の戦いでも自らが先頭に立って進んだ。このときは連隊長と一緒に進んだ朝日新聞と読売新聞の記者が撃たれて死んだほどの勇ましい進撃であった。ふだんはやさしく、回りによく気を配ってくれる連隊長であったが、戦場に出れば一変して、激しい声が発せられることが度々あり、回りの将校も緊張した。
 しかし、遠くから見ている西坂上等兵にとって、細面の連隊長は、八の字ひげを生やし、泰然自若として頼りがいのある連隊長にみえた。
 この日、鯖江の連隊は金壇まで進んだけれど、金沢や敦賀の連隊はまだ常州で出発の準備をしていたから、このまま進むことができれば脇坂連隊長の望み通り、鯖江の連隊が一番乗りできるかもしれなかった。一番乗り部隊を取材しようとしていた新聞記者たちも、元気な脇坂部隊こそ一番乗りする、と噂していたくらいであったからその可能性は高かった。
 このとき南京攻略が命令されたことは、一兵士である西坂上等兵が知る由もなかったが、上海を出発するとき、多くの兵士たちは、次は南京が目標だ、と話していたから、行軍していながら、南京をめざしているのではないかと思っていた。
 もし本当に南京を攻めるとなると、西坂上等兵も緊張しないわけにはいかなかった。
 一月に入隊した時、西坂たち初年兵は、鯖江の兵舎に入ったが、鯖江にいたのは二週間ばかりで、すぐに遠くハルビンまで連れて行かれた。四ヵ月間満州にいて、日本に帰ってきた。それからさらに四ヵ月いただけでまた日本をたって上海に向かった。満州にいる時、匪賊討伐に出掛けて行ったのは二年兵だけで、西坂たち初年兵は教育に明け暮れていた。だから、上海に船で近づいた時、遠くから、「ドオーン、ドオーン」 と遠雷のように砲声が聞こえ、それが戦場というものの始めての体験であった。
 上陸すると、辺りのクリークには、中国兵の死体が浮いていて、緊張した。上陸して三日目、弾が飛んできて、初めて死を意識した。それからは毎日が戦いで、戦うたびに体は震え、なんど戦っても戦いは怖いと思った。いつまでたっても慣れるということはなかった。戦いが始まると無我夢中になり、そのときの気持ちを後で説明しようとしてもとても説明できなかった。
 上海でこれから攻撃だと緊張しているとき、伊藤新作第六中隊長が、兵士たちに向かって。「自分のものを握ってみろ」といったことがある。緊張で我を忘れていた西坂上等兵は、いわれるままに握ると、金玉は小さくなって上にあがっていた。そのときはじめて気持ちだけでなく、体のすみずみまで緊張していることが分かった。そして、それが分かってほっとし、少し気持ちのゆとりができたような気がした。
 戦いは怖いが、それでも、もし南京に行くのであれば、自分たちで南京を落としたいとも思った。そして、南京を落とせば戦争も終わりになるだろう。そうすれば早く日本に帰れる。そんなことを考えていた。

静かなり南京城外
 十二月三日、金壇を出発するとき、尖兵として進んでいる小隊に軽機分隊をつけることになった。
 連隊は前衛、中衛、後衛とわかれた戦闘体形で進み、前衛のうちの二十人ほどが敵情をさぐったり、敵が現われればすぐ後方に伝えるため、前衛のさらに五百メートルほど前方を進む。金壇まで来たとき、これから先は中国軍と遭遇する可能件が高いというので、この尖兵に軽機分隊をつけることになったものである。 西坂上等兵は、正式には歩兵第三十六連隊第二大隊第六中隊第二小隊軽機分隊所属であった。しかし、上海で中隊の指揮班の多くがたおれたため、十一月に入ってからは指揮班に務めることが多くなった。指揮班の任務は中隊の命令を各小隊に伝えたり、連隊や大隊に行って命令を貰ってくることで、ぞのため、無錫、常州と進む間は常に伊藤中隊長のそばにいた。
 金壇まで進んで尖兵に軽機分隊をつけることになったとき、西坂上等兵は軽機分隊に戻り、尖兵として進むように命令された。
 第三十六連隊は、九月二十三日に鯖江駅を出発したとき、全貝で三千八百名であったが、ニカ月近くにわたる上海での戦いで、多くは、戦死するか、傷ついて病院に送られていた。ここまで来た者はその三分の一ほどであった。そのため連隊は何度か補充を受けていたが、それでも今は鯖江を出発したときの半分近くに減っていた。連隊は、定員を相当下回っていたから。兵隊たちは状況に応じて任務に着かなければならなかった。
 軽機分隊に戻った西坂上等兵は、十キログラム以上もある軽機関銃を肩にかついで進むことになったが、久し振りのことであった。
 出発してしばらくすると、それまでの平坦地が起伏の多い道になった。金壇の先には摩盤山山系が連なっていて、いよいよここにさしかかったのである。そのため部隊は丘陵地帯の地図にない道を進むことになった。
 常州、金壇とすでに一週間も敵兵は見えなかったが、いつどこから中国兵が現われるかもしれない。尖兵を命令された三十人ほどは注意深く進んだ。
 しばらく進むと、道端に女性の死体がなげだされてあった。尖兵の兵隊たちは死体になれっこになっていたが、女性の死体だけに一瞬いろめきたった。しかも下半身は裸のままである。そばに行ってよく見ると、女性のそこには木の棒が差し込まれていた。中国兵が逃げる途中、犯して殺したものであるらしかった。多くの戦死体を見慣れている西坂上等兵もこの死体には驚いた。
 兵隊たちが騒いでいるのを見て、いつもはおとなしい脇本第三小隊長が、「みっともないから埋めろ」と怒鳴るようにいった。
 小隊長の怒鳴り声に、騒いでいた兵隊ははじめて我に帰った。西坂上等兵は、同胞に対してひどいことをすると思いながら何人かと手分けして穴を掘った。
 しかし、この日の行軍ではこの出来事の他には何もなく、やがて連隊は天王寺鎮に入った。
 中国で地名につく鎮というのは日本でいえば部落ほどの所で、天王寺鎮も小さい部落であった。
 天王寺鎮にも敵や市民はおらず、代わりにあるのは略奪の跡だけである。市民はめぼしいものをすべて持って逃げ、そのあと、兵隊が略奪した上、放火して逃げる。日本兵に使われそうなものなら何でも焼いてしまう。それが中国兵のやり方であった。部落に入っても穀類などはほとんどなく、何人かが芋などをみつけただけであった。
 天王寺鎮に入ると、西坂上等兵たちの軽機関銃分隊は尖兵から前衛に戻された。天王寺鎮辺りには陣地があって、相当数の中国兵が待ち受けているのではないかと思われていただけに、何もなかったので軽機分隊はほっとした。
 軽機関銃分隊が前衛に戻るとともに西坂上等兵は再び中隊の指揮班に入った。
 上海の中国軍が総崩れになって退却したとき、日本軍にとっては絶好の追撃の機会であったけれど、和平の可能性もあり、二週間以上も足踏みをしていた。この間に、中国軍は、無傷で退却を成し遂げており、退却した中国軍はまもなく態勢を立て直すであろうと考えちれた。その暇を与えないため、連隊は休む時間があれば少しでも進むことであった。
 十二月四日ころになると、連日三十キロメートルを越す行軍を続けていた脇坂連隊は、南京に向かっている日本の各部隊の中では最も南京に近づいていた。この辺りは上海戦線の延長線上というよりも、南京の外郭地帯といった方が正確であった。
 天王寺鎮に敵がいなければ、次に予想される陣地は、淳化鎮であった。
 淳化鎮は天王寺鎮から五十キロメートル先で、距離からいえば二日行程の所である。飛行機からの偵察によれば、淳化鎮には二重、三軍の防御線がひかれ、相当前から作られたトーチカが南京をとり囲むようにして築かれているとい。うことであった。
 もし、淳化鎮を手中にすれば、そこから南京までは二十キロメートルで、一気である。
 天王寺鎮を出発して進むうちに誰とはなしにいよいよ淳化鎮だといいだし、翌日になると伊藤中隊長が指揮班に、「我々の目標は南京だが、淳化鎮は敵の最後の抵抗線になるだろう」ときっぱりいった。
 そのいい方からすると、淳化鎮では再び上海のように激しい攻防戦が行われそうであった。天王寺鎮にいるはずの兵隊もすべて淳化鎮で日本軍が来るのを待ち受けているのかもしれなかった。西坂上等兵はそれを思うと、恐ろしさでいっぱいになったけれど、いくら考えてもどうしようもなく、中隊長の話を聞いて、あとはやるだけだと言い聞かせた。(つづく)

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